『S倉迷妄通信』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]
シリーズ“笙野頼子を出版順に読む!”第7回。
1999年を起点に、笙野頼子の著作を単行本出版順に読んでゆきます。今回読んだ『S倉迷妄通信』、単行本出版は2002年9月。
この本、帯に飼い猫の写真がどどーんっと掲載されており、しかもぱらぱらめくってみるとカワイイ猫写真が満載(宣伝によると77枚)、アオリには“芥川賞作家の「猫人生」その後”などと書いてあるし、どう見ても猫エッセイ本です。
タイトルも、「捨て猫たちを拾って千葉に引っ越した笙野頼子の近況を書いた軽い読み物」という感じで、すっかり騙されました。
実際には、これは小説です。語り手は、作者の分身である“沢野千本”で、私にとっては『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』以来の再会。とにかく沢野千本が語り手だということは、気合を入れて慎重に読まないと『てんたま』のときのように迷子になってしまうということです。
本作もまた『てんたま』と同じく、心境やら妄想やら近況やらが、虚実の区別なく、一貫した筋道もなく次々に語られるため、まるで夢の論理に翻弄されているような戸惑いを覚えます。
が、さすがにこちらも慣れてきたので、挫折はしません。とにかく丹念に文章を追ってゆきます。
さて、千葉のS倉に引っ越した沢野千本は、様々なものに悩まされています。『愛別外猫雑記』に書かれた猫騒動のときに見てしまった人間のおぞましい悪意、現在の隣家の執拗な嫌がらせ、一人住まいの女性など存在しないかのように扱われる街、そして土地が変わったことにより「担当」の神が変更になるという信仰上の危機。
土地と持ち家を手に入れても、やはり彼女は、社会からも人間からも疎外され、居場所がない存在であることに、変わりはなかったようです。
本作で彼女の悩みの中心にあるのは、「わけの分からない殺意」です。具体的に特定の人間を殺したいわけではない、でも殺さずにはいられない、でも殺さない、そもそも避妊手術をしないまま猫を捨てた人間を殺してはなぜいけないのか、そういった迷いが書かれます。
沢野千本は、この殺意をなんとかするために、風水などの呪術、私的な信仰心、といったもので対抗しようとします。が、どうにもならず、元の飼い猫が病気になるに及んで、ついにクルってしまい、化け猫から教えてもらった通り、人を殺して、その生き肝を猫と一緒に喰います。
ここで、語り手である沢野千本は、作者である笙野頼子に反発します。なんで笙野頼子の救済のために自分が使われなければならないのか。
とは言え、作中人物である彼女に何が出来るでしょう。彼女に出来るのは、せいぜいカッコ内注釈を付けたり、笙野頼子に電話をかけて文句を言うことくらいだったのですが(『てんたま』ではそうしていました)、本作では新たな対抗策を見いだします。作中小説を書くという技法、いわゆるメタフィクションです。
というわけで、沢野千本は「猫が化け猫になり、自分が猫になり、人を殺して生き肝をとることで、猫を救済する」という小説を、小説内で書きます。(この作中小説が異様に面白い)
次に沢野千本は、作者と存在論的に対等になるために、今度は作中小説「小説笙野頼子」を書きます。そこでは、日本神話を私的に読み替え再構成する、という文学の力によって、救済を得ようとする企てが語られるのです。
という紹介を読んで頂いてもお分かりの通り、決して読みやすい分かりやすい小説ではありません。というか、正直に言うと私にもよく分かりませんでした。
が、文学に対する作者の真面目さひたむきさ正直さに、滑稽なほどの崇高さを感じ、強く心打たれる作品です。そして、猫写真の可愛いさに癒される本でもあります。猫たちのその後が書かれているので、『愛別外猫雑記』を読んだ方は、ぜひこちらもどうぞ。
1999年を起点に、笙野頼子の著作を単行本出版順に読んでゆきます。今回読んだ『S倉迷妄通信』、単行本出版は2002年9月。
この本、帯に飼い猫の写真がどどーんっと掲載されており、しかもぱらぱらめくってみるとカワイイ猫写真が満載(宣伝によると77枚)、アオリには“芥川賞作家の「猫人生」その後”などと書いてあるし、どう見ても猫エッセイ本です。
タイトルも、「捨て猫たちを拾って千葉に引っ越した笙野頼子の近況を書いた軽い読み物」という感じで、すっかり騙されました。
実際には、これは小説です。語り手は、作者の分身である“沢野千本”で、私にとっては『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』以来の再会。とにかく沢野千本が語り手だということは、気合を入れて慎重に読まないと『てんたま』のときのように迷子になってしまうということです。
本作もまた『てんたま』と同じく、心境やら妄想やら近況やらが、虚実の区別なく、一貫した筋道もなく次々に語られるため、まるで夢の論理に翻弄されているような戸惑いを覚えます。
が、さすがにこちらも慣れてきたので、挫折はしません。とにかく丹念に文章を追ってゆきます。
さて、千葉のS倉に引っ越した沢野千本は、様々なものに悩まされています。『愛別外猫雑記』に書かれた猫騒動のときに見てしまった人間のおぞましい悪意、現在の隣家の執拗な嫌がらせ、一人住まいの女性など存在しないかのように扱われる街、そして土地が変わったことにより「担当」の神が変更になるという信仰上の危機。
土地と持ち家を手に入れても、やはり彼女は、社会からも人間からも疎外され、居場所がない存在であることに、変わりはなかったようです。
本作で彼女の悩みの中心にあるのは、「わけの分からない殺意」です。具体的に特定の人間を殺したいわけではない、でも殺さずにはいられない、でも殺さない、そもそも避妊手術をしないまま猫を捨てた人間を殺してはなぜいけないのか、そういった迷いが書かれます。
沢野千本は、この殺意をなんとかするために、風水などの呪術、私的な信仰心、といったもので対抗しようとします。が、どうにもならず、元の飼い猫が病気になるに及んで、ついにクルってしまい、化け猫から教えてもらった通り、人を殺して、その生き肝を猫と一緒に喰います。
ここで、語り手である沢野千本は、作者である笙野頼子に反発します。なんで笙野頼子の救済のために自分が使われなければならないのか。
とは言え、作中人物である彼女に何が出来るでしょう。彼女に出来るのは、せいぜいカッコ内注釈を付けたり、笙野頼子に電話をかけて文句を言うことくらいだったのですが(『てんたま』ではそうしていました)、本作では新たな対抗策を見いだします。作中小説を書くという技法、いわゆるメタフィクションです。
というわけで、沢野千本は「猫が化け猫になり、自分が猫になり、人を殺して生き肝をとることで、猫を救済する」という小説を、小説内で書きます。(この作中小説が異様に面白い)
次に沢野千本は、作者と存在論的に対等になるために、今度は作中小説「小説笙野頼子」を書きます。そこでは、日本神話を私的に読み替え再構成する、という文学の力によって、救済を得ようとする企てが語られるのです。
という紹介を読んで頂いてもお分かりの通り、決して読みやすい分かりやすい小説ではありません。というか、正直に言うと私にもよく分かりませんでした。
が、文学に対する作者の真面目さひたむきさ正直さに、滑稽なほどの崇高さを感じ、強く心打たれる作品です。そして、猫写真の可愛いさに癒される本でもあります。猫たちのその後が書かれているので、『愛別外猫雑記』を読んだ方は、ぜひこちらもどうぞ。
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