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『じゃむパンの日』(赤染晶子) [読書(随筆)]

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 誰。これこそ誰。その張り紙の下には靴下が落ちている。わたしは割り箸でそれを拾う。靴下も捨てないでほしい。給湯室の窓はいつも開いている。窓が固くて閉まらない。風がぴゅうぴゅう入る。張り紙はめくれる。その度にごはんつぶで貼る。張り紙はびらびら音をたてる。耳障りである。新妻に集中したいのに。ごはんつぶ。あ。あなた、大変。わたし、今日のお昼はパンなの。じゃむパンなの。わたし、一番好きなパンはじゃむパンよ。
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『じゃむパンの日』より


 他人から見ると滑稽だが本人にとっては切実きわまりない、わけの分からぬ妄念に追い詰められてゆく乙女たちの姿を暴走気味のユーモアと切迫感をもってえがいた作家による初のエッセイ集。単行本(palmbooks)出版は2022年12月です。

 『うつつ・うつら』『乙女の密告』『WANTED!! かい人 21 面相』。香り立つ昭和のにおい、魅力的な京都弁、意味不明ながら切実な妄執。短い文章の積み重ねから生ずる追い詰められ感、滑稽さと哀愁、そして乙女たちの友情あるいはボケつっこみ。赤染晶子さんが繰り広げる京都乙女ワールドは中毒性に満ちています。もう新たな作品が読めないのかと思うと悲しい。

 本書はその赤染晶子さんがのこしたエッセイを集めた一冊。岸本佐知子さんとの交換日記も収録されています。小説のもとになった体験がすべて書かれているようにも感じます。つまり、ドイツ語スピーチや、仕立屋の女性や、京都花月劇場で苦境に陥る芸人や、京都や北海道やドイツのあれこれ。




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 それにしても、なぜなんでしょうか。常々、わたしは不思議に思っていました。なぜ翻訳家のあなたがそこまで面白おかしくある必要があるのでしょうか。なぜ周囲はあなたにそこまで求めてしまうのでしょうか。
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『交換日記 岸本佐知子+赤染晶子』より




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 わたしは蠅取り紙が大好きだ。蠅取り紙は美しい。あのヴィヴィッドな黄色はゴッホの「ひまわり」を超えている。そこに黒い蠅が止まることで、とても見事な色のコンストラストが生まれる。蠅は命を投げ出して、この美しさを生み出すのである。これがご飯粒では様にならない。蠅でなければならない。もしかしたら、蠅は蠅取り紙に出会うために生まれてきたのではないか。わたしには夢があった。蠅取り紙に蠅がくっつく瞬間を見たい。芸術の生まれる瞬間を見たい。
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『わたしは見た』より




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 師匠は必死だ。きっと、この人は炭坑節一筋60年以上だ。音楽が終わる。
「アンコール!」
 師匠が叫ぶ。係の人がきゅるきゅるとテープを巻き戻す。また、炭坑節が始まる。掘れ、掘るんじゃ! 師匠はどんどんヒートアップしていく。師匠の足元からはもうもうと砂埃が立っている。踊る。踊る。アンコール! 師匠は叫ぶ。どんどん、掘るんじゃ! この人は盆踊りの鬼だ。
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『闘魂! 盆踊り!』より




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 10年前のことである。わたしはドイツの大学に短期留学をした。そこで学生寮がネオナチの襲撃対象になっていると聞かされた。わたしたち留学生は不安になった。ただでさえ、お互いに面識もない。言葉も文化も違う。ネオナチといっても、誰がいつどんなふうに襲撃してくるのかわからない。わたしたちは見えない他者におびえた。(中略)
 そんな時に小さな事件があった。寮の共同使用の冷蔵庫からヨーグルトがなくなるのだ。わたしも何度か被害にあった。ある日、冷蔵庫の扉にものすごく長いドイツ語の手紙が張られていた。
「泥棒さんへ」
 A4の紙いっぱいに小さな字でぎっしりと書かれていた。ヨーグルト泥棒を避難する内容のものだった。わたしはその手紙を一生懸命に読んだ。そこへフランス人の女子学生がやってきた。
「あなたが犯人でしょう!」
 彼女が手紙を書いたのだ。思わぬぬれぎぬを着せられて、わたしは必死で自分の無実を主張した。皆が疑心暗鬼になっていた。わたしと彼女はつたないドイツ語で一生懸命口論した。つたない長い討論の結果、わたしたちはこれはネオナチかもしれないという結論に至った。
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『現代ドイツにて』より





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