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『世界中が夕焼け  穂村弘の短歌の秘密』(穂村弘、山田航) [読書(随筆)]

 「短歌を読まず、エッセイだけ読んで満足していてはいけないのだ。穂村弘は歌人だ。(中略)散文の本を何冊書こうが、それらはみな短歌の補足説明にすぎないのだ」(単行本p.11)

 若い歌人が“平成最大の歌人”こと穂村弘さんの短歌を50作も取り上げ、それぞれ解釈と鑑賞のポイントを指南。それに対して穂村弘さんがコメント(自作解説、というか種明かし)するという、まことに贅沢な一冊。単行本(新潮社)出版は、2012年06月です。

 穂村弘さんの『共感と驚異』というエッセイ(『整形前夜』収録)には、こう書いてあります。

 「私の場合、20年以上詠みまた読み続けている短歌でも「わかる」のは全体の60パーセントくらいである。俳句が25パーセント、現代詩では10パーセントくらいだろうか」

 「つまり専門的にやっている人間にとっても、詩歌は「わからない」のが普通。作品の紹介や解説をするときは、自分にとって「わかる」ものを選んでやっているに過ぎない」

 詩歌は「わからない」のが普通、と断言してしまう穂村さんも凄いのですが、そういう穂村さんの短歌を50作も取り上げて解説してしまう山田航さんも勇敢。

 では、山田さんによる解釈と、穂村さんによる回答が、どれほど合っているかを確認してみましょう。

「海光よ 何かの継ぎ目に来るたびに規則正しく跳ねる僕らは」

 例えばこの作品について、山田さんはこう解釈します。

 「「海」は生者の世界と死者の世界をつなぐ境界線として機能しているのだろう。「何かの継ぎ目」というのも生と死の間を強く思わせるフレーズである。人生の節目節目という意味合いもあるだろう。「海光よ」という重々しい呼びかけからはじまるこの歌は、穂村自身の人生に対する内省となっている」(単行本p.218)

 これに対する穂村さんの自作解説は次の通り。

 「この歌は『攻殻機動隊』のラストシーンですね。なんか未来の戦車みたいなのに乗って移動していくんだけど、道路の継ぎ目が来るたびにちょっとずつ上下動するっていう場面です」(単行本p.220)

 うーん。深読みがあっさり外れています。

「酔ってるの?あたしが誰かわかってる?」
「ブーフーウーのウーじゃないかな」

 この作品についての山田さんの解説は次の通り。

 「この歌のポイントはやはり「ブーフーウー」が酔っ払いの呻き声にも聞こえること、呻いているようにみせかけて彼女を子豚呼ばわりして実ははっきり意識を持っていることをばらしてしまうという日常の中のどこかずれた一風景を活写してみせたことにあるのだと思う」(単行本p.99)

 「彼女は自分が子豚呼ばわりされていることに気が付かず、「何をわけのわからないことを言っているんだろう」と戸惑ったりする。その戸惑う様を見て穂村は内心ほくそ笑んでいたのかもしれない。(中略)穂村弘の歌にはライトなサディズム感覚が渦巻いているが、この歌もその一つと言えるのだろう」(単行本p.99)

 これに対する穂村さんの回答はこう。

 「要は一番賢いんだよね、ウーは。だから、これは豚なんだけど賢い豚だという、そこにシンパシーがあるし、まあ、可愛いイメージですから、スイート感がある(笑)。そこが恋愛なんです。(中略)賢くてかわいい子豚でしたね」(単行本p.100)

 どうも、難しく考えてかえって外れることが多いように見えます。

「春を病み笛で呼びだす金色のマグマ大使に「葛湯つくって」」

 この作品についての山田さんの解説はこう。

 「真に描こうとしているのはその裏にある男の情けない意地っ張りさであろう。強いマグマ大使だって、いなくなった恋人の代わりになんてなりえない。本当は恋人のつくった葛湯を求めているのである」(単行本p.198)

 そして穂村さんの回答。

 「恋人を求めているという山田さん評ですが、それは僕の意識にはなかったですね。むしろ季節を歌うということ、この「金色のマグマ大使」っていうのは、春なんですよね。春の風邪の体感」(単行本p.199)

 こんな具合に、どうもどんぴしゃり的を射た解釈というのがありません。

「ティーバックのなきがら雪に投げ捨てて何も考えずおまえの犬になる」

山田
 「「犬」は純粋かつ無知であるというもっとも端的な存在として象徴化されている。無垢で無知な存在として生きていくことの決意。それはある種のプロテスト精神だったのだろう」(単行本p.239)

穂村
 「この歌の「何も考えずおまえの犬になる」ってたしか、遠藤ミチロウさんの歌詞そのまんまなんです。(単行本p.240)

「ググったら人工知能開発者として輝いていたキャロライン洋子」

山田
 「穂村の中にある「昭和とは何だったのか」という問題意識が浮き彫りになっている」(単行本p.183)

穂村
 「ある日ふと、キャロライン洋子って昔いたなって思い出して、グーグルで検索してみたら人工知能の研究者になっていて、とても不思議でしたね」(単行本p.184)

「夏空の飛び込み台に立つひとの膝には永遠(えいえん)のカサブタありき」

山田
 「カサブタというものを通じて、自己の身体性へのまなざしを広げているのだ」(単行本p.144)

穂村
 「これ「永遠」にふりがなを振っています。普通「永遠」は読めるでしょう、ふりがな振らなくても。でも、そこにわざと振ってあって、それはこの部分をカサブタみたいな感じにしたかったんです」(単行本p.146)

 結局のところ、「詩歌は「わからない」のが普通」という穂村さんの言葉を裏付けてしまった印象が強い一冊です。どうも「表面的に書かれている事象の裏にある切実な問題意識」とか、「言葉のイメージがはらむ象徴性」とか、そういうものを深読みしようとすると大外れ、という傾向を感じます。

 というわけで、まずは穂村さんの短歌の入門書としてお勧め。また、「詩歌の解釈」というものについて、特にその困難さと滑稽さについて、色々と率直に学ぶことが出来ることから、詩歌読解入門書としても興味深く読めました。


タグ:穂村弘
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