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『彗星交差点』(穂村弘) [読書(随筆)]

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 街角や電車の中やインターネット上で、たまたま目や耳にした短い言葉によって、異次元に入り込むような感覚を味わうことがある。
 本来は短歌や詩がそういうものである筈だが、本の形で読む場合、手にした読者の側にもそれなりの心の準備ができているので、受け止めきれてしまうことが多い。自ら聴こうとしてかけた音楽と、カーラジオから流れてきた音楽とでは衝撃度が違うように、「たまたま」という偶然性が言葉を輝かせるのだろう。
(中略)
 表現の場では、作品という名の出力結果を良きものにするために、ありとあらゆる手立てが尽くされる。理解できなくても、それは出力時の「手立て」に混乱させられている可能性が高いと思う。書き手が実際に何をどう感じたのかはわからないのだ。出力結果から入力時に感受したものを逆算することはできない。
 だが、表現として書かれていない素直なツートの場合は、ちょっと事情が違っている。それらは入力と出力の直結を感じさせることが多い。にも拘わらず、振り切られてしまう時、自分自身の感受性に不安を覚えるのだ。
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単行本p.176


「心臓がもげる」「今、来月?」「さすがは日本三大京都のひとつ」「モーニングはよくあるけど、ヌーンってないね」「寒い夜にはキュリー夫人は椅子を着て寝ました」
 街角でふと耳にした会話、ツイート、落書き、子供の頃に読んだ本の一節など、たまたま出会った言葉の断片が、作品として書かれた詩や短歌よりも衝撃をもたらすことがある。そんな偶然詩歌との遭遇をあつかったエッセイ集。単行本(筑摩書房)出版は2023年3月です。




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 「さすがは日本三大京都のひとつ」

 風景に感銘を受けたらしい旅行者のおじさんの発言だが、ぎょっとした。彼が、そして私が、そのとき立っていたのは紛れもなく京都だったからだ。「日本三大京都のひとつ」って間違いとは云えないが、間違いよりも変だろう。
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単行本p.104




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 また別の或る日。飲み屋で隣の席にいた女性二人の会話をきいた。どうも職場の先輩と後輩らしかった。

 先輩「男で苦労してないでしょ」
 後輩「そんなことないですよ」
 先輩「そうかなあ。そうは見えないよ」
 後輩「にえゆ」
 先輩「飲んできたの」
 後輩「はい」

 聞き耳を立てていたくせに、私は「にえゆ」が、一瞬、変換できなかった。しかし、相手の女性は迷いなく反応した。さすが先輩。
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単行本p.61




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 私は私自身のことをいつもとても細かく意識している。その結果、微妙で複雑な存在として捉えることになる。
 だが、他人の目に映っている私はそうではない。他人は他人のことに深い関心を持たない。だから、その口を通して語られる姿もざっくりしたものだ。
 試みに、今までに私が他人から「似ている」と云われたものを挙げてみよう。

 ・とんぼ
 ・哺乳類
 ・高齢女性

 なんという、ざっくり感だろう。どれを云われた時も、かなりのショックを受けた。
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単行本p.144




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 女「でもさ、モーニングはよくあるけど、ヌーンってないね」

 一瞬、そうだなあ、と思いかけて、はっと気づく。違うだろう。でも、彼らの後ろ姿に向かって「ランチだよ!」とは叫ばなかった。代わりに、一人でぶつぶつ云う。「ヌーン」ってなんなんだ。危うく騙されるとこだったよ。彼氏も彼氏だ。どうして恋人の誤りを指摘しないのか。
 私は自分というものに自信がないせいか、相手の方が間違っていたり、おかしかったりしても、すぐに釣られそうになる。それとも、心の奥で「ヌーン」のある世界に憧れているからそうなるのか。一度も行ったことのない町に、ひっそりと「ヌーン」をやっている店があるかもしれない。店主もウェイトレスも客も、ランチを知らないのだ。
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単行本p.139




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「今、来月?」や「ねえ、ママ、舌も生え替わるの?」といった質問をした子供の心は、まだ生まれたての宇宙みたいな状態なんだろう。時間と共に、そこから少しずつ固まってゆく。正しさの認識を共有する世界の住人に近づいてゆくのだ。
 しかし、生まれたての宇宙の発する言葉たちは、口にされた一瞬、眩しさを放っている。その正体は世界の可能性の光なのだろう。
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単行本p.171





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