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『短歌のガチャポン』(穂村弘) [読書(随筆)]

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 電車の中で、或いはごはんを食べながら、或いは眠る前の暗闇で、誰かの短歌を思い出すことがある。(中略)本書には、ふと思い出して嬉しくなったり、たまたま目に飛び込んできて「いいな」と思った歌を集めてみました。楽しんでいただければ幸いです。
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 明治時代の歌人の代表作から最近新聞の短歌欄に投稿された作品まで、さまざまな短歌を紹介するアンソロジー。それぞれ穂村弘さんによる1ページの紹介文が書かれており、短歌入門としてお勧めの一冊。単行本(小学館)出版は2022年12月です。




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「天国に行くよ」と兄が猫に言う 無職は本当に黙ってて
山川藍
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 飼っている猫が死にそうなのだろう。家族で見守っている時、兄が優しく云った。大丈夫。こわくないよ。きっと「天国に行くよ」と。そこまではわかる。だが、その言葉に対する作中の〈私〉の反応が、あまりにも予想外で、あまりにも面白い。
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ゆるキャラのコバトンくんに戦ける父よ 叩くな 中は人だぞ
藤島秀憲
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 思わず口走った「中は人だぞ」に思わず笑ってしまった。その通りだ。と同時に、たまらなく悲しい気持ちに襲われる。笑ったのも悲しいのもどちらも本当。正反対の感情を同時に呼び起こす、そんな短歌に出会ったのは初めてかもしれない。
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野口あや子。あだ名「極道」ハンカチを口に咥えて手を洗いたり
野口あや子
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 たくさんの短歌が並んでいても、そこだけが光って見えるということがある。この歌はそうだった。多くの人にとっても同様らしく、作者の代表歌の一つとなった。だが、有名な歌にも二種類ある。その魅力が説明しやすいものとそうではないものだ。これは後者だと思う。なんだか気になる。でも、その理由がよくわからない。
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鯨のなかは熱くて溶けてしまいそうと輪廻途中の少女は言えり
渡辺松男
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 なんだか凄いことを云っている。怖ろしくて、愉快で、不安で、セクシー。その混沌に惹きつけられる。
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あの友は私の心に生きていて実際小田原でも生きている
柴田葵
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 私の心の中の友と小田原の友は、ぜんぜん違った行動を取っているのかもしれない。そう思うと何故か愉快な気持ちになる。同じ歌集の「安全のしおりにあらゆる災難の絵がありみんな長袖でした」の「みんな長袖でした」にも意表を衝かれる。え、そこ? という不思議さ。「バーミヤンの桃ぱっかんと割れる夜あなたを殴れば店員がくる」もいい。
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私には才能がある気がします それは勇気のようなものです
枡野浩一
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 何もしたことがなかった若い頃、私は才能という言葉にとても敏感だった。才能、格好いい。勇気、ださい。でも、年を取るにつれて才能への関心はだんだん低下する。八十歳になったら、完全にどうでもよくなっているだろう。勇気は違う。年齢とも立場とも関係なく、魂が生きていること、この手で何かをすることが大切で、そのための勇気の必要性はますます重くなってゆく。
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タグ:穂村弘
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『語学の天才まで1億光年』(高野秀行) [読書(随筆)]

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 通常、語学というのは入門から始まり、初級・中級・上級と何年もかけて少しずつ階段を上がっていくものと思われているが、私は決してそのような手順を踏まない。一つの言語を何年も勉強したこと自体がほとんどない。学習期間は長くてもせいぜい実質一年、短いときは二、三週間、平均すれば数カ月といったところだろうか。現地で出会った言語を即興で習いながら旅をすることもある。
 目的も普通の人とは異なる。私が語学に精を出すのは、アジア・アフリカ・南米などの辺境地帯で未知の巨大生物を探すとか謎の麻薬地帯に潜入するといった、極度に風変わりな探検的活動のためだ。この「探検的活動」が意味する範囲は広く、なかにはノンフィクションの取材も含まれるのだが、いずれにしても、目的が達成されるとその言語の学習も終了してしまう。
 要するに、私にとって言語の学習と使用はあくまで探検的活動の道具なのである。しかし、言語(語学)はひじょうに強力な道具なので、ときには「魔法の剣」のように思える。
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「はじめに」より


 コンゴで怪獣探し、アマゾンで幻覚剤探し、ミャンマーでアヘン栽培。世界中の辺境に赴き誰も経験したことのない冒険を繰り広げてきた作家が語る語学と青春。超実践的語学エッセイとしても、破天荒な青春記としても、とにかく有無を言わせぬ面白さをほこる一冊。単行本(集英社インターナショナル)出版は2022年9月です。


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 こうして書き始めたこの語学エッセイだが、期せずして次第に「青春記」の形を取り始めた。語学を通して、若い頃の私は実にさまざまなことに驚き、笑い、興奮した。とくには意気消沈したり自分に絶望したりした。そういった経験がそのまま私の血肉になっていったのである。バカな若者が賢い大人になったわけではなく、バカな若者がもっとバカになっていっただけかもしれないが、変化と成長はたしかに語学によってもたらされた部分が多い。
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「はじめに」より




目次

第一章 語学ビッグバン前夜(インド篇)
第二章 怪獣探検と語学ビッグバン(アフリカ篇)
第三章 ロマンス諸語との闘い(ヨーロッパ・南米篇)
第四章 ゴールデン・トライアングルの多言語世界(東南アジア篇)
第五章 世界で最も不思議な「国」の言語(中国・ワ州篇)




第一章 語学ビッグバン前夜(インド篇)
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 この事件は私の人生にとってひじょうに大きな転機となった。「一見不可能に思えることも頑張ればなんとか打開できる」という妙な自信を得てしまったこと。「話したいことがあれば語学はできるようになる」とわかったこと。この二つの確信が、その後の私の生き方を変えていくことになる。
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 インドで犯罪にあい無一文になって、無理でも何でも英語で助けを求めなければならないはめに陥ったとき、語学との長い付き合いが始まった。




第二章 怪獣探検と語学ビッグバン(アフリカ篇)
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 だが、それ以上に私をリンガラ語学習に向かわせたものは「先生も教材も何もない」という状況だった。日本においては「未知の言語」に近い。「探検=未知の探索」と考える私にとって、この状況がすでに「探検的」であり、ワクワクしてしまったのだ。私はときどき、主目的を外れて、目の前に現れた「探検的」なものに飛びつく傾向がある。
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 アフリカ大陸、コンゴに棲息するという謎の怪獣ムベムベを探すため現地に向かった若き日の著者。現地語の学習と使用を通じて、語学の魔力に目覚めてゆく。




第三章 ロマンス諸語との闘い(ヨーロッパ・南米篇)
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 宮澤は一文無しで行商人の下っ端生活に疲れ果てていたようだが、その姿に私は羨望を隠せなかった。私の方はお金こそ不自由してなかったが、言葉が通じず、毎日が苦痛でならなかった。私から見れば、ブラジルに入ってもスペイン語で押し通してブラジル人の客と値段交渉をして服を売っている宮澤は輝いていた。彼にはブラジル人のポルトガル語が、私よりずっと聞き取れるようだった。
 語学の天才は実在する。どこへ行ってもたちまちその中に入って言葉に苦労しなくなるような人間が。たとえ運はとてつもなく悪くても。
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 フランス語、スペイン語、ポルトガル語との出会い。南米マジックリアリズムの世界へと向かった著者は色々とトンデモナイ体験をするのだった。




第四章 ゴールデン・トライアングルの多言語世界(東南アジア篇)
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 チェンマイで第二の青春を謳歌していた私だが、このまま日本語教師に落ち着くつもりは毛頭なかった。実はチェンマイに来る前からひじょうに明確な目標があったのだ。それは「ゴールデン・トライアングルに住み込んでケシ栽培を行ってアヘンを作る」という端から見れば突拍子もないものだった。(中略)チェンマイはゴールデン・トライアングルの重要都市とされていた。シャン州で採れたアヘンがどこかで精製されてヘロインになり、このチェンマイに集まる。そして欧米やオーストラリアなど世界中に密輸される。だが、それはあくまでアンダーグラウンドの話だ。ここは南米のコロンビアではない。麻薬ビジネスはあくまで地下の世界でひっそり行われており、一般の市民はまるで無縁だということが、二、三カ月の滞在でよくわかった。
 しかたなく私はタイ語を習ったり、かわいい学生たちと恋愛マンガを読んだりして、日々を過ごしていた。
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 タイ、ラオス、ミャンマーの国境地帯(通称ゴールデン・トライアングル)。アヘンが栽培される麻薬ビジネスの中心地にして、軍事独裁政権と反政府ゲリラと民兵と各種武装勢力と麻薬マフィアが衝突を繰り返すヤバい土地に存在するという謎の「国」。そこに潜入し、ケシ栽培をしてアヘンを作ってみたい。大きな野望を抱く若き日の著者。
は、麻薬王のアジトに入り浸って語学勉強を続ける。




第五章 世界で最も不思議な「国」の言語(中国・ワ州篇)
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 二十代の後半、私は長い迷走期に入った。だが迷走している本人はなかなかそれに気づかないものらしく、当時の私も「俺は自由に生きている」と信じ込んでいた。(中略)迷走していたのは語学だけではない。大学を辞めたものの、人生の進路もやっぱり見えない。ゴールデン・トライアングルの中心であるシャン州に本格的に住み込むという目標は掲げていたものの、目処は全く立たない。漠然と「シャンの独立運動に関わっていきたい」と思うだけである。だんだん自分の先行きが不安になってきた。情緒不安定になったら新しい語学をというのも、私のお決まりのパターンだ。今回は「中国語でもやっておくか」と思った。
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 タイ語、ビルマ語、中国語、そして未知の言語「ワ語」へ。人生に迷走する若者がついに麻薬生産地帯の中心部へと続く扉を開けることが出来たのは、語学の魔法だった。外界から隔絶された土地で著者が見たものとは。「語学」を通じて開いた世界がそこに立ち現れるのだった。





タグ:高野秀行
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『じゃむパンの日』(赤染晶子) [読書(随筆)]

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 誰。これこそ誰。その張り紙の下には靴下が落ちている。わたしは割り箸でそれを拾う。靴下も捨てないでほしい。給湯室の窓はいつも開いている。窓が固くて閉まらない。風がぴゅうぴゅう入る。張り紙はめくれる。その度にごはんつぶで貼る。張り紙はびらびら音をたてる。耳障りである。新妻に集中したいのに。ごはんつぶ。あ。あなた、大変。わたし、今日のお昼はパンなの。じゃむパンなの。わたし、一番好きなパンはじゃむパンよ。
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『じゃむパンの日』より


 他人から見ると滑稽だが本人にとっては切実きわまりない、わけの分からぬ妄念に追い詰められてゆく乙女たちの姿を暴走気味のユーモアと切迫感をもってえがいた作家による初のエッセイ集。単行本(palmbooks)出版は2022年12月です。

 『うつつ・うつら』『乙女の密告』『WANTED!! かい人 21 面相』。香り立つ昭和のにおい、魅力的な京都弁、意味不明ながら切実な妄執。短い文章の積み重ねから生ずる追い詰められ感、滑稽さと哀愁、そして乙女たちの友情あるいはボケつっこみ。赤染晶子さんが繰り広げる京都乙女ワールドは中毒性に満ちています。もう新たな作品が読めないのかと思うと悲しい。

 本書はその赤染晶子さんがのこしたエッセイを集めた一冊。岸本佐知子さんとの交換日記も収録されています。小説のもとになった体験がすべて書かれているようにも感じます。つまり、ドイツ語スピーチや、仕立屋の女性や、京都花月劇場で苦境に陥る芸人や、京都や北海道やドイツのあれこれ。




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 それにしても、なぜなんでしょうか。常々、わたしは不思議に思っていました。なぜ翻訳家のあなたがそこまで面白おかしくある必要があるのでしょうか。なぜ周囲はあなたにそこまで求めてしまうのでしょうか。
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『交換日記 岸本佐知子+赤染晶子』より




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 わたしは蠅取り紙が大好きだ。蠅取り紙は美しい。あのヴィヴィッドな黄色はゴッホの「ひまわり」を超えている。そこに黒い蠅が止まることで、とても見事な色のコンストラストが生まれる。蠅は命を投げ出して、この美しさを生み出すのである。これがご飯粒では様にならない。蠅でなければならない。もしかしたら、蠅は蠅取り紙に出会うために生まれてきたのではないか。わたしには夢があった。蠅取り紙に蠅がくっつく瞬間を見たい。芸術の生まれる瞬間を見たい。
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『わたしは見た』より




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 師匠は必死だ。きっと、この人は炭坑節一筋60年以上だ。音楽が終わる。
「アンコール!」
 師匠が叫ぶ。係の人がきゅるきゅるとテープを巻き戻す。また、炭坑節が始まる。掘れ、掘るんじゃ! 師匠はどんどんヒートアップしていく。師匠の足元からはもうもうと砂埃が立っている。踊る。踊る。アンコール! 師匠は叫ぶ。どんどん、掘るんじゃ! この人は盆踊りの鬼だ。
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『闘魂! 盆踊り!』より




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 10年前のことである。わたしはドイツの大学に短期留学をした。そこで学生寮がネオナチの襲撃対象になっていると聞かされた。わたしたち留学生は不安になった。ただでさえ、お互いに面識もない。言葉も文化も違う。ネオナチといっても、誰がいつどんなふうに襲撃してくるのかわからない。わたしたちは見えない他者におびえた。(中略)
 そんな時に小さな事件があった。寮の共同使用の冷蔵庫からヨーグルトがなくなるのだ。わたしも何度か被害にあった。ある日、冷蔵庫の扉にものすごく長いドイツ語の手紙が張られていた。
「泥棒さんへ」
 A4の紙いっぱいに小さな字でぎっしりと書かれていた。ヨーグルト泥棒を避難する内容のものだった。わたしはその手紙を一生懸命に読んだ。そこへフランス人の女子学生がやってきた。
「あなたが犯人でしょう!」
 彼女が手紙を書いたのだ。思わぬぬれぎぬを着せられて、わたしは必死で自分の無実を主張した。皆が疑心暗鬼になっていた。わたしと彼女はつたないドイツ語で一生懸命口論した。つたない長い討論の結果、わたしたちはこれはネオナチかもしれないという結論に至った。
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『現代ドイツにて』より





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『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』(町田康) [読書(随筆)]

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 いい年をしてなんらの知識・教養もないというのは、格好が悪いというか、「年格好から見てこれくらいのことは当然、識っているだろう」と思った若い人に、助言を求められ、「我はアホゆえ知らぬ」と言うのはきわめて寂しく申し訳なく、それとは別に、内心に、そうして問われた際に有益な助言をして、尊敬されたい、凄い人だ、と思われたいという虚栄心もかなりあるからである。
 そこでこれまでどうしてきたかというと、いかにも知識・教養がある人、のような雰囲気を全身から発散せしめ、だけど謙虚な人間なのでこれをひけらかすようなことはしない、という卑怯未練な技法を用い、世間と自分を瞞着してきた。
 そうしたところ罰が当たった。それを真に受けたNHKカルチャーから連絡があり、十二回連続講座をやれ、と言われてしまったのである。
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単行本p.245


 シリーズ“町田康を読む!”第71回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、表紙にあるように“町田康、はじめての自分語り”ということで、NHK文化センターで行われた連続講演を記録した一冊です。単行本(NHK出版)出版は2022年8月です。

 自分語りといっても、自らの人生について事細かに語るというわけではなく、要するに自分の作品がどのように書かれたのかを解説してくれる本です。他の作家や古典の影響、笑いや文章のリズムについて、かなり詳しく手の内を明かしてくれます。


目次

第1回 本との出会いーー書店で見つけた『物語日本史 2』
第2回 夢中になった作家たちーー北杜夫と筒井康隆
第3回 歌手デビューーーパンクと笑いと文学
第4回 詩人としてーー詩の言葉とは何か
第5回 小説家の誕生ーー独自の文体を作ったもの
第6回 創作の背景ーー短編小説集『浄土』をめぐって
第7回 作家が読む文学ーー井伏鱒二の魅力
第8回 芸能の影響ーー民謡・浪曲・歌謡曲・ロック
第9回 エッセイのおもしろさーー随筆と小説のあいだ
第10回 なぜ古典に惹かれるかーー言葉でつながるよろこび
第11回 古典の現代語訳に挑む
第12回 これからの日本文学




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 ここまで文学の言葉と土俗・卑俗の言葉がメチャクチャに混ざっていて、それが小説として書かれて、普通に読めるということにムチャクチャに興奮しました。「これか。これやで!」というふうに思って。それから筒井康隆さんの本を探して貪るように読み続けたというようなことが、学校時代の自分の読書遍歴、私の文学史の一つとしてあったということです。
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単行本p.47




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 それをたとえば、もうちょっと範囲の広いことで統一感をなくして、わざと個別化してみるとか、言葉に方言を混ぜるとか。方言を混ぜることによってノイジーな要素が出たり、そこにある文体を構成しうる要素を入れて、それを配合することによって、そこに何か伝わる要素が出るというようなやり方をやっています。それが自分の文体の正体というか、一番核心なところだと思います。
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単行本p.94




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 つまり、おもしろいことというのは、実は、これはもう驚くべき暴論、極論に聞こえるかもしれないけれども、おもしろいことというのはこの世の真実であらねばならないんです。つまり、この世の真実こそがおもしろいことなんです。つまり、おもしろいことを書くということは、この世の真実を書くということなんです。と僕は思うんですね。「いや、それは暴論でしょう。極論でしょう」というのが、たぶん、おそらく差別意識の正体なんですよ。つまりそれは、だからこそ、この世の真実であるからこそ、隠されねばならないことなんです。それを隠すのが建前であり、常識です。それを破壊するときに噴出するものを描くのが、僕は文学なんじゃないか、表現じゃないかと、こういうふうに思うわけです。
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単行本p.121




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 それと逆に、感覚的な表現。要するに、文学的ではない表現、オートマチックな言葉による表現、突き詰めない表現。「感覚的」と言いましたけど、これを突き詰めない表現、オートマチックな言葉だけ使って、古典のところで言いました「情緒」とか、雰囲気だけをつくっていく、わりと安い材料で魂を形づくる。揶揄的に言ってしまえば、Jポップの歌詞のような言葉遣いは、バリアを強化していく。「ここから入ってこないでね」というものがものすごく強い。だから、傷つかないです。自分の脳内で、ずっとそればっかりを強化している。オートマチックな表現というのは、バリアを強化する。反オートマチックな文学的な表現というのは、バリアを突破していく。こういう効能があると思います。
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単行本p.239





タグ:町田康
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『ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと』(春日武彦、穂村弘、ニコ・ニコルソン:イラスト) [読書(随筆)]

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穂村
 そういえば、街角のキリスト教系の看板に「神は言っている、ここで死ぬ定めではないと」って言葉があるらしいのね。経緯はわからないけど、それがゲームの台詞とかTシャツの文言になったりして、ある種のパロディのようにひろまってるんだって。その流れで、「神」という字の一部分がかすれて「ネコ」になっていた、みたいな面白画像も目にしたよ。

春日
 「ネコは言っている、ここで死ぬ定めではないと」か。一見すると、パチンコ屋のネオンサインが1文字切れて、まったく違う意味になってしまった系の笑い話だけど、今の俺たちには、ちょっとした啓示の言葉のように響かなくもないね。
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単行本p.239


 精神科医と歌人が様々な観点から「死」について語り合った対談集。単行本(イースト・プレス)出版は2021年7月です。


〔目次〕

序章 俺たちはどう死ぬのか?
第1章 俺たちは死をどのように経験するのか?
第2章 俺たちは「死に方」に何を見るのか?
第3章 俺たちは「自殺」に何を見るのか?
第4章 俺たちは死を前に後悔するのか?
第5章 俺たちは死にどう備えるのか?
第6章 俺たちは「晩節」を汚すのか?
第7章 俺たちは「変化」を恐れずに死ねるのか?
第8章 俺たちは死を前に「わだかまり」から逃げられるのか?
第9章 俺たちは「死後の世界」に何を見るのか?
第10章 俺たちにとって死は「救い」になるのか?
第11章 俺たちは「他人の死」に何を見るのか?
第12章 俺たちは「動物の死」に何を見るのか?
第13章 俺たちは一生の大半を費やすことになる「仕事」に何を見るか?
第14章 俺たちは、死にどんな「幸福」の形を見るか?




 テーマは重いのですが、あまり深刻な会話にはなりません。両名とも自分の得意ネタを駆使して読者を面白がらせようとしてくれます。例えば、穂村さんの発言は次のようなもの。


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穂村
 うーん……僕は家でどら焼きとか食べながらコーヒー飲んで、諸星大二郎とか読んでるような生活ができるなら、それでいいかな(笑)。別にダイヤモンド要らない。でも前に、そうしたマインドを作家の友だちに怒られたことがあるよ。「世界には飢えている人もいれば、性的少数者として苦しんでいる人もいる。そういう現実がある中で、諸星大二郎読んでどら焼き食ってれば自分はいいんです、って言っちゃう人は物書きとしてダメ」って(苦笑)。自分はここでちまちま遊んでいられれば、それ以上は望みません――みたいなのは、やっぱりダメなのかな?
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単行本p.228


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穂村
 僕が嫌だと思う死に方は苦しいの全般なんだけど、そうじゃない死に方ってないのかな? 例えば、猫が可愛すぎて死んじゃうとか、そういうメカニズムはないのかしら。「可愛い!」という気持ちがある一定量を超えて、幸せのまま死に至る、みたいなの。それなら僕も「まあいっか」と思えそうなんだけど。
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単行本p.50


 春日さんの発言はこんな感じ。


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 例えば、ホテイのやきとりの缶詰があるじゃない? あれ、今は違うんだけど、昔は缶にプラスチックのキャップが掛かってて、そこに爪楊枝が2本入ってたんだよね。つまり今ここにあったら、穂村さんと俺とであれを順ぐりにつまみながらカップ酒かなんかを飲むわけ。そういう情景を具体的にイメージさせるところに、すごく感動する。1本じゃなくて2本ある爪楊枝に、いわば人間の善なるものを感じて嬉しくなるの。そういうものの方が、俺にとっては宝くじが当たった! とかより遥かに重要なの。
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単行本p.231


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春日
 産婦人科に勤めていた頃、当直してたら、急に具合が悪くなったという飛び込みの患者があって。急いで病室を用意したんだけど、そしたら突然ベッドのまわりをぐるぐる回り出してさ。とりあえず横にならせたんだけど、その後、突然鬼瓦みたいな、まるで映画『エクソシスト』(1973年)のリンダ・ブレアみたいな凄まじい表情になって、同時にうんち漏らして死んでた。
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単行本p.51


 こういう二人が、こういう風に盛り上がるわけです。


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春日
 本当は生きているうちに苦痛の原因が取り除かれたり、「負の呪縛」から逃れられたらいいんだけど、仮に問題が魔法のように解消されたとしても、面倒なことに「そんなわけがない、これは例外だ」とかも思いそうな気がするんだよね。

穂村
 ああ、にわかに信じがたい、と。

春日
 そうそう。「おかしい、罠だ!」って。

穂村
 「俺を油断させといて、何をする気なんだ!?」と思ってしまうわけね。じゃあさ、先生の本がベストセラーになって、本屋の棚一つが丸っと自著で埋まるようなことがあっても喜べない?

春日
 うん、相当に悪辣な策略が仕掛けられていると思うだろうな。

穂村
 俺をベストセラー作家にしようとする陰謀が! みたいな(笑)。

春日
 で、俺が「サインでもしましょうか」と出てきたら、上からバケツに入った豚の血が降ってくる(笑)。
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単行本p.161





タグ:穂村弘
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