SSブログ

『松岡政則詩集』(松岡政則) [読書(小説・詩)]

――――
あり得たかもしれないもうひとつの生、のようなもの
それが旅の本位だろう
あるく、という宿病
詩を書く、という闇
還りの海には
ひとを孤絶させるちからがある
わたしはひきょう者の気もちがわかる
――――
「うみのたまもの、はたけのくさぐさ」より


からだが決めることはたいてい正しい
土から離れたものはみなさみしい

あるくという行為は
ことばをすてながら身軽になるということだ

たびさきではいやなことはしないですむ
めしは姿勢をただしてだまって喰う


 歩くこと、食べること、旅、土、艸。命そのもののような激しさをこめたことばを誠実に書き留める詩人、松岡政則さん。その作品から選ばれた傑作を収録した待望の現代詩文庫です。単行本(思潮社)出版は2021年4月。


 もとになった詩集は次の八冊。

『川に棄てられていた自転車』
『ぼくから離れていく言葉』
『金田君の宝物』
『草の人』
『ちかしい喉』
『口福台灣食堂紀行』
『艸の、息』
『あるくことば』


 そのうち最新の三冊については以前に紹介を書きました。


2012年09月19日の日記
『口福台灣食堂紀行』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2012-09-19

2015年10月21日の日記
『艸の、息』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2015-10-21

2018年09月03日の日記
『あるくことば』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2018-09-03


 松岡政則さんの詩はどれも好き。身体に根ざした、いのちのように激しく嘘のないことば。誠実で、土地とからだからやってくることば。あさましく取り繕う言葉や他人を扇動しコントロールする言葉にまみれて生きていると、肺が新鮮な空気を求めるように、松岡政則さんの詩集を読み返したくなるのです。

 いくつかを取り上げて、さらにその一部だけ切り出して引用することを思うと、まるで生き物をハサミで切り刻むような恐さと罪悪感があるのですが、かといって他に紹介するすべも知らず、ここは思い切ってやります。部分引用します。


 まずは、初めのころの、激しいいのちのことば。


――――
外はまた降りだしていた 舞う事もなくまっすぐに降る雪だ 降り積もうとして降る雪だ もしかしたら母はいま 雪を感じているのだろうか 絶え間なく続くザーという微かな音を じっと聞いているのだろうか 夕べの消灯の時だった 死ぬのも楽じゃなぁのぉ 母はそう言ったのだ そのあとすぐ はぶから先に笑って見せたのだ 手を握る 夕べの母の手を握る 一心に握る 握っても握ってもまだ足りない握る こんな時にだ 言葉の気配がする
――――
「ICU」より


――――
ぼくは激しく立っていた
断固として揺れなかった
花を散らした山桜
芽吹きはじめた楢の類
裏山が風を吹かせているのだと思った
誰の弔辞も聞かず
そう
ぼくはひっしで詩の言葉を探していた
そうしないと
立っていられなかった
――――
「空もゆれていた」より


 そして「歩く」という行為。嘘はなく偽もなく、まるで「祈る」のように歩こうとする姿に圧倒されます。


――――
この頃「歩く」が気になる
「歩く」ばかり考えている
ぼくの「歩く」は保護区域に収容された飼いならされた
「歩く」ではないのか
土からもどんどん遠くなって
もうどこにも帰れない「歩く」ではないのか
ときどき他者の熱がする
ペタペタと恥ずかしい音がする
それでも「歩く」でしかいっぱいになれない事があった
「歩く」でしか許せない事があった
――――
「それはもう熱のような「歩く」で」より


――――
歩くは小さな声であり
川瀬のまばゆい光であり
アオバエのたかるどでかい牛に会いに行くことであった
歩くという行為はそのように
正直な喉になることであり
口づてであり報復であり知であり
祖々を畏れながら棄て続けることであった
――――
「わたしではありません」より


――――
たとえ誰かを傷つけようと
よごしてはならないものがある
歩くでしかあらがえないことがある
ひらがなの哀しみと
ちぶさももくさみどりみどり
――――
「千艸百艸」より


――――
ひかる雨を歩いてきた
ひとはときどき無性に雨にぬれたくなるものだ
からだが決めることはたいてい正しい
雨は未来からふるのか
過去からもふっているのか
かんぶくろの艸の実、艸の実、
土から離れたものはみなさみしい
――――
「艸の実、艸の実、」より


 そして旅。個人的に、台灣にいるという体験を書いた作品が大好きなので、そればかり引用します。書き写しているだけで台灣にいる。


――――
歩くとめし。
それだけでひとのかたちにかえっていく
歩いておりさえすれば
なにかが助かっているような氣がする
荒物屋、焼き菓子屋、飾り札屋、
ちいさな商店がならんでいる
路につまれたキャベツや泥ネギ
魚屋をのぞけば漫波魚(マンボウ)の切り身
繁体字のにぎわいにもやられる
なにやらこそこそしたくなる
あおぞら床屋みたいなのがあった
ながい線香をつんだ荷車が停まっていた
ここでみるものはみなからだによい
――――
「口福台灣食堂紀行」より


――――
なにやらもう賑っている
ひとびとの聲が
地を這うように聞こえてくる
熱い豆乳に揚げパン
これでなければ台灣の朝ははじまらない
耳の奥の空ろへ
食器のぶつかる音がひびく
シャオハイ(こども)の笑い聲もひびく
血くだがいちいち嬉しがる
わたしは雑多がたりないのだ音が足りないのだ
――――
「タイペイ」より


――――
ひるめしは咸魚炒飯に海藻スープ
お玉で中華なべをたたく音が食堂を生きものにする
具材はこまかく切った鶏肉に咸魚
きざんだネギやカイランサイの茎がはいっている
ひとの舌というものを知り尽くした味で
うまいにもほどがあった
たいがいにしろだ台灣
――――
「ダマダマ!」より


――――
「我怎麼會這麼的開心(ぼくはなんでこんなに楽しいのだろう)」
クラウド・ルーの「歐拉拉呼呼」がかかっている
しらない川、しらない震え
もうからだのどこにも散文はない
――――
「民族街3巷」より


――――
嫌われないように傷つけないように誰もが器用に過剰に生きている、その不潔。名づけようのないものを哀しみといってみる、その不潔。見すぎた気がする。いいやまだなにほどのものも見ていない気がするその不潔。だまっている不潔。近くの建物に若いひとがつどっているようだ。「島嶼天光(この島の夜明け)」の大合唱が聞こえる。
――――
「南澳車站」より


 最後はこの一節を引用して終わりたい。


――――
みたことはからだのどこかにのこる
でもだいじょうぶ
こうやってあるいておりさえすれば
五月のまことがふれにくる
母のよろこびをかんじる
あとは艸の差配にまかせればよいのだ
きょうの日のあるくが
いつかおまえを救うあめになる
――――
「これからのみどり」より





タグ:松岡政則
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ: