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『UFO手帖5.0』(Spファイル友の会)2020/11/20更新 [その他]

この記事は更新されました。以下を参照してください。

2020年11月24日の日記
『UFO手帖5.0』(Spファイル友の会)通販開始
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-11-24




タグ:同人誌
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『UFO手帖5.0』(Spファイル友の会) [その他]

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『Kindleで読める笙野頼子著作リスト(内容紹介つき)』 [読書(小説・詩)]

 電子書籍リーダーおよびアプリとして提供されているAmazon社の「Kindle」シリーズで読める笙野頼子さんの著作リストです。参考までに、それぞれの作品について紹介した日記にリンクを張ってあります。

この記事は適宜更新してゆきます。
最終更新は2020年11月18日です。
更新内容:
『水晶内制度』新版(エトセトラブックス)を追加
『水晶内制度』旧版(新潮社)を削除
『海獣・呼ぶ植物・夢の死体 初期幻視小説集』を追加


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『なにもしてない』

2013年11月01日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-11-01

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『居場所もなかった』

2013年12月06日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-12-06

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『硝子生命論』

2014年07月18日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-07-18

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『レストレス・ドリーム』

2014年07月25日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-07-25

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『タイムスリップ・コンビナート』

2013年04月02日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-04-02

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『極楽 大祭 皇帝 笙野頼子初期作品集』

2013年10月25日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-10-25

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『増殖商店街』

2013年01月08日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-01-08

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『母の発達』

2014年08月08日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-08-08

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『説教師カニバットと百人の危ない美女』

2014年08月15日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-08-15

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『笙野頼子窯変小説集 時ノアゲアシ取り』

2013年06月11日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-06-11

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『ドン・キホーテの「論争」』

2013年11月29日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-11-29

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『てんたまおや知らズどっぺるげんげる』

2013年09月11日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-09-11

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『愛別外猫雑記』

2014年08月22日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-08-22

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『幽界森娘異聞』

2013年11月08日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-11-08

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『片付けない作家と西の天狗』

2014年08月29日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-08-29

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『金毘羅』

2015年02月27日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2015-02-27

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『絶叫師タコグルメと百人の「普通」の男』

2014年09月05日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-09-05

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『だいにっほん、おんたこめいわく史』

2013年10月04日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-10-04

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『笙野頼子三冠小説集』

2015年02月26日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2015-02-26

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『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』

2013年10月11日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-10-11

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『だいにっほん、ろりりべしんでけ録』

2013年10月18日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2013-10-18

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『海底八幡宮』

2014年09月12日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-09-12

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『人の道御三神といろはにブロガーズ』

2014年09月19日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-09-19

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『小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神』

2012年10月01日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2012-10-01

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『未闘病記----膠原病、「混合性結合組織病」の』

2014年08月01日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2014-08-01

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『植民人喰い条約 ひょうすべの国』

2016年11月29日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2016-11-29

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『猫道 単身転々小説集』

2017年03月16日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2017-03-16

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『さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神』

2017年08月03日の日記
http://babahide.blog.ss-blog.jp/2017-08-03

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『ウラミズモ奴隷選挙』

2018年10月25日の日記
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2018-10-25

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『会いに行って 静流藤娘紀行』

2020年06月19日の日記
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-06-19

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『水晶内制度』

2020年08月27日の日記
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-08-27

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『海獣・呼ぶ植物・夢の死体 初期幻視小説集』

2020年11月17日の日記
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2020-11-17

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タグ:笙野頼子
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『海獣・呼ぶ植物・夢の死体 初期幻視小説集』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

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 人は自分の肉体から逃げられない。第二次性徴がずっとずっと受け入れがたく苦しんだ自分、差別される女性というものについてずっとこだわりつつ忌避していた「オレ」。「オレは男になる」、……、しかしそういう自分が実は女であればこそ、女が圧倒的多数である膠原病になった。ひとりでいる時は男になっていられる、と思いながら暮らし、生理も排泄だと言い聞かせていた。――今も昔も社会性はある方だ。つまりむしろ社会性あるが故に性的役割や女性への偏見に抵抗して一人きりでいた。若い女である時代はまったく、困難ばかりだった。京都ではその困難が病と共に顕在化していたのだ。しかし、……。
 その難儀から私は小説を書きはじめた。女であり、病名もないというのに病人の体である。差別され「社会に通用しない」その身体性が私をつくっていた。それは漲る憎しみ、怒り、恐怖、精神世界への憧れ。しかし何も気付かなかった。結局書くことは向いていても他の事は出来ない、セックスもお化粧も全部嫌だから「女が書けない」。そもそも親からさえ、時には「女だから失敗作」と言われて育っていた。すると自由になる設定が小説には必要で、……。
 随分長い間、自分の書いている人物は性別不明瞭または「男」だった。
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文庫版p.285


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第135回。


 作家デビューから最初の単行本が出版されるまでの十年。妄想と夢を武器に自らの身体性に向き合い続ける苦闘から生まれた初期作品集。文庫版(講談社)出版は2020年11月、Kindle版配信は2020年11月です。


 1994年11月に河出書房新社から出版された『夢の死体 笙野頼子初期作品集II』を中心に再構成された短編集です。解説(菅野昭正)、年譜と著者目録(山崎槇紀子)が収録されています。最新の年譜と目録は大いに助かります。特に電書版だと検索が出来るので。

 本書収録作は次の通り。

『海獣』
『柘榴の底』
『呼ぶ植物』
『夢の死体』
『背中の穴』
『記憶カメラ』

 『柘榴の底』は『増殖商店街』から、『背中の穴』は『居場所もなかった』から持ってきています。最後の『記憶カメラ』は当時をふり返る新作書き下ろし。

 単行本『夢の死体 笙野頼子初期作品集II』に入っていた作品のうち本書に収録されたのは、『海獣』『呼ぶ植物』『夢の死体』の三篇。ちなみに残り二篇のうち、『虚空人魚』は講談社文芸文庫『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』に収録されています。また『冬眠』は同じく講談社文芸文庫『猫道 単身転々小説集』に収録されています。講談社文芸文庫だけでこの時期の短篇をそろえることが出来るわけですね。

 ちなみに『冬眠』が収録された『猫道 単身転々小説集』は個人的にイチオシなので紹介記事へのリンクを張っておきます。本書の続きとして読んでください。

2017年03月16日の日記
『猫道 単身転々小説集』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2017-03-16


 さて本書の収録作、ひさしぶりに再読したわけですが、以前に読んだときとは印象がずいぶん変わっていることに驚かされました。今回特に強烈に感じたのは身体性への強いこだわり。昔は何となく、透き通るような観念的小説、などと浅はかにも思い込んでいた作品でも、今読むと「人は自分の肉体から逃げられない」という言葉が重く切実にささってきます。妄想も夢も、怒りも憎悪も、痛みも苦しみも、すべてが身体性、女性性に深く根ざしている。そんなふうに感じます。

 もうひとつ。後に書かれた長編作品との関係を妙に意識してしまいます。読書としては邪道なのでしょうが、どうしても「あ、これは後のあれに発展するやつだ」とか感じてしまう。どうにも抵抗できないので、以下の紹介では長編とのつながりについて個人的に感じたこと(恥ずかしい誤読かも知れないけど)を明記することにしました。本書および『猫道』を気に入った方は、後に書かれた長編もぜひ読んでみてください。




『海獣』
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 深海の風の吹く瞬間だけYはあらゆるものを笑い飛ばせた。海の底と背中合わせに暮らしていると、自分の背中から世界が壊れてゆくのだと信じられた。そのくせ、そんな考えは迫害されるもとだと、余計に脅えたりもしたのだった。
(中略)
 この件について、自分でも気付かない意識の底の方で何らかの解決がなされたのだ、とYが考えるようになったのはもっとあとの事で、その頃のYは自分の矛盾した感情を偏った世界観にあてはめては、非常に論理的に心が動いているのだなどと納得していた。何かが起こったのは確かだった。だがそれが何なのか納得できたのはずっと、後になってからで。
――――
文庫版p.29

 頭のなかにある海、そして水族館。自分のなかの夢の領域にいる海獣たちの記憶を“現実”と比べるためにYは郷里の水族館に向かう。水、海、深海のイメージあふれる作品ですが、海獣の体躯、黒髪をまといつかせた腐ったトマト、首だけバービー人形など、皮膚感覚にさわるモチーフが印象に残ります。深海世界への憧れ、というか深海生物としての自覚は、長編『金毘羅』につながってゆきます。


『柘榴の底』
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 今ではもう、自分の全行動をT・Kは一切信用してはいない。つまりただひたすらモチに支配されたりモチと戦ったりしながら暮らしているのである。
(中略)
 モチが強引な方法で家々の屋根や路上や脳の中を、粘りながら歩き続けている状態、それが人間社会だと今のT・Kは思いこんでいる。モチを統御するものは国を治める。個人でモチと戦えば人は狂う。
――――
文庫版p.125、135

 底の世界、と呼ぶ妄想によって生きていたT・K。脳や精神から吸血する透明虫たち、包丁で切られ内蔵を吐き出す電話器、そして斬ることが出来ないラスボスである、モチ。本書収録作品中でも妄想描写が最も強烈な一篇。
 大寺院やゾンビ、敵を包丁で切り刻んで戦うシーンなど、長編『レストレス・ドリーム』にストレートにつながります。余談ですが、T・Kとは『レストレス・ドリーム』の主人公「桃木跳蛇」のことだと勝手に思い込んだほど。後で『記憶カメラ』を読んだら「T・Kって実は「ただの記号」という名前なの」(文庫版p.294)と書かれていました。


『呼ぶ植物』
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 最後には「使途おかあさん男」、につながる言葉にきちんとつながるような言葉しか書けなくなってしまった。ところが「使途おかあさん男」、につながる言葉はそんなにたくさんはない。せいぜい「暁の死闘」とか「コアラ預かり所繁盛の巻」、そんなものだ。その上、そんなつながり具合さえも私自身にしか判らないであろう。しかも、その私個人の感覚の内側でさえ、なぜつながるか、何の意味があるかと問われればこう答えるしかない。つまり、通じない事で漸くつながるのだ、と。
――――
文庫版p.145

 文字世界、そこは植物の領域。だが他人に通じる言葉、話し言葉を得るためには、動物にならなければならない。言葉によって組み上げられた世界を読ませる作品ですが、内容とは別に「使途おかあさん男、暁の死闘」「コアラ預かり所繁盛の巻」そして「百獣の王おかあさん」といった言葉から、どうしても長編『母の発達』を連想せずにはいられないのです。


『夢の死体』
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 むろん古都を現実にしてしまったものは単なる時間の蓄積ばかりではなかった。幻が剥がれるのと反比例して、肉体が自己主張を始めていた。いや、もともとそれが古都の時間を現実のレベルに押し動かしたのかもしれなかった。
 例えば自分が女性であること、老化すること、結婚が嫌な事、痛くて、発熱し、疲れる事、思春期あたりから古都に住み着くまでYはただそれらから、肉体から逃れる事だけを考えていた。生物としての自分にYは疎かったと言える。いや、正確には生物、というよりは社会的動物とでも言った方がよかったのかもしれなかった。むろん、そうして肉体が刻む時間の感覚は無意識の内にも、Yに外の世界を見るように強制し始めたのだ。
――――
文庫版p.181、216

「外界に隔てられて暮らして来たYの嫌悪感が現実との境界に来てついに機能していた」(文庫版p.216)

 肉体から逃れるためのYの妄想や夢は、ついに崩れて死体となってしまう。踏み出すしかない現実の先にあるのは、あまねく女性差別、被害者にケガレを押しつける異様に理不尽なシステム、主体性も責任もない男から一方的な評価という権力をふるわれる呪い。

 これまでの妄想と夢がすべてを圧倒してしまう作品から、ついに手負いの獣が血を流しながら一歩踏み出すような作品。本書収録作品中で個人的に最も大切におもっている。読み返すたびに涙ぐんでしまう。『硝子生命論』や『パラダイス・フラッツ』、いやむしろ以後に書かれるすべての長編の原点ではないかという気がしています。


『背中の穴』
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 私は今さらどうしようもない恐怖に囚われていた。そう言えば、ンガクトゥが現れた時からずっとおかしかった。むしろ今まで怖くなかった方が変だったのだ。彼は、だが私の狼狽など気にも止めなかった。
 ――引っ越し、たのしーねー、オレのとこなんか九回陸へ上がって九回海へ下りて、未だに引っ越しの時だけすからねー、いいですなー背中の穴の話、ああ、わたしは椅子の話なんかもしたかったですなー。
 ――え、椅子の話ってどういう……。
 ――えーっ、そんな事言えませんよおー、言えませんから話が楽しいですよーお、でも引っ越しするんですねー、椅子のまわりに住んで、雨降らないとこに住んで砂漠の中に住んで、ストーブも焚いて陸はすごいですねー、椅子ひとつとテントひとつですぐに住める。
 恐怖の中から、自動的にまるで他人の言葉のように、ひとつの質問が出現していた。
 ――あなたは、いったいっ、どこの国の人なのっ、どのあたりから、……来たの(するとンガクトゥは)。
 ――あー、はははは、もうやめてくださいよおー、でもありますよお、いーぱいあるっす、背中の穴。
 ――いや、そういう事はオレは信じないな。
 鈴木が断定して、トラックが着いた。
――――
文庫版p.256

 散々苦労してようやく見つけた部屋への引っ越し。引っ越し業者の二人組は、あまりにも尋常な鈴木一と、黄色の布を頭から被っている謎の男、ンガクトゥ佐藤。次々とやってくる引っ越しの難儀を夢のなかにいる感覚で表現した作品。『居場所もなかった』に収録されている通り、もちろん『居場所もなかった』のスピンオフというべき短篇ですが、個人的にはむしろ『東京妖怪浮遊』のような狐狸妖怪の類が活躍する長編を連想します。


『記憶カメラ』
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 第二次性徴の頃は自殺したかった。初めて生理が来たのでこの世は終わりと思った。一方その割りには三十代、「オレは男なのに」女の子を四人欲しいと思っていた一時期もあった(無論単なる夢だった)。しかし今はもう閉経もしているしすべてオッケーである。そんな私が「ソフトじゃない売れないフェミニズムはいらない」とか言われる覚えはないしそもそも流派のあるようなフェミではない。今はただフェミ自称の乗っ取り男や侵入男、フェミ説教強盗を女の居場所から叩きだせと言いたいだけ。私? 私は文学だ、思想ごときになる前の永遠の原初だよ。なんらかの哲学や思想、政党等と親和的にしていてもいつでも捨ててやる。
――――
文庫版p.290

 デジカメのメモリに紛れ込んでくる過去の映像。作家は記憶をさかのぼってゆく。書き下ろしの短篇。いわゆる「あとがき」の代わりかと思ったら、確かにそういう面もあるけど、実は今のあれこれえぐるばりばり最新作だったりするので、気を引き締めて読まねばなりません。





タグ:笙野頼子
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『暗闇にレンズ』(高山羽根子) [読書(小説・詩)]

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 私たちは、望めばどうにかひとりずつに与えられるひとつのレンズと夜でもなお眩しい液晶と、いくばくかの記憶容量を、子どもっぽいブレザーのポケットに隠し持ってサバイブしていて、この武器はその気になりさえすれば一本のでたらめでひどいほらを吹く映画をすっかり作り上げて、全世界に配信だってできてしまえる。たとえそれが非常に危険なもので、瞬く間にアカウントごとデリートされてしまったとしても、何度だって、繰り返し、いくらでも。
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単行本p.352


――――
 あらゆる世界に住みながら姿をかじられ続ける私たちは、同時に世界のあらゆるところをかじることもできる。人の住むところにあるレンズというレンズに、自分のレンズを向けることは、今のところ犯罪とはみなされていない。それらはこんなに恐ろしい武器なのにもかかわらず。
――――
単行本p.351


 映像、それは強力な武器、そして祈り。あらゆる場所に設置された監視カメラから見られている空間を、彼女たちはレンズという武器を駆使してサバイブしてゆく。映像が持つ暴力性を背景に、三代に渡って映像制作と関わった一族の奇妙な歴史をえがく長編。単行本(東京創元社)出版は2020年9月、Kindle版配信は2020年9月です。


――――
「拳銃は鉛の弾を、相手の脳味噌や心臓にぶつけてやっつける。せやけど、こいつの出した光は、目から入って脳味噌ン中にずっと残って、内側から人間をやっつける。(中略)この光を見たもんの生き方をその後がらりと変えることかてできる。これからは鉄砲玉でやっつけるんは獣ばかりになって、人間同士はまた別の方法で戦うようになるって、わしは思とるんや」
――――
単行本p.20、21


 まず語られるのは、映画は軍事兵器として発展してきた、という偽歴史。効果的に人間の脳だけを攻撃する非道な兵器。だが危険であると同時に人を魅了する、映画というもの。その黎明期から誰もがスマホひとつで映画を撮れる現代まで。


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 建物の壁をスクリーンとして利用し、町全体を無数の映像の再生機に仕立て上げて民間人の脳を攻撃する。このおぞましい作戦は、当初の想像をはるかに超えた効果を発揮した。(中略)町じゅうに浮かんだ無数の映像に囲まれた人間は、命にこそ別状はなかったが、誰ひとりとしてその後正常な生活を送ることは出来なかった。
――――
単行本p.113


――――
 攻撃を目的とした映像コンテンツを豊富に持っていた当時の帝国は、主に映画のみをもってその戦いに終始していた。主に侵略と領土の拡大が目的である戦争では、物理的な兵器による建物破壊や、生物、放射線兵器による占領地の荒廃は可能な限り避けたい事態であるため、帝国において映画兵器の開発には、何よりも資金や人力を注がれていた。
 中でも注目すべき特徴は、映像の再生装置よりも映像内容の拡充及び多様化による武力の増大で、そのために当時、帝国の軍事施設に設置されていた映像兵器の制作部門とは実質そのまま映像の撮影および編集部隊だった。
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単行本p.179


 今日の私たちは、映像、とくにSNSで拡散される動画が簡単にそして大規模にフェイクニュースや陰謀論を定着させてゆく危険性をよく知っています。現実の一部だけを切り取り、編集し、恣意的に意味づけてしまう映像というものの暴力性。それが支配する世界。カメラとスマホのレンズに満ちた世界で、それに対抗するための武器もまた、レンズなのです。


――――
 私たちは最初の一秒から、明確な意志をもってあらゆるものを撮影していた……と、思う。撮りためたものは日常の風景を切り取るなんていう生易しいものではなくて、ずっと見ていると、ひょっとしたら私たちは世界のすべてを撮り潰そうとしているんじゃないかって、怖くなってしまうほどだった。
(中略)
 私たちはそうして、その日までに撮ったすべての映像のすべてのコマに目をとおして、ほんの数百ぶんのフレームずつを選び取る。希釈してきた世界の一部から、ふたたび一滴を濃縮して、彼女の部屋でまた一度同じ世界を造り上げるという、たぶんそうとう手間がかかってむだの多い手順を踏んでいる。
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単行本p.118、119


――――
 私たちが撮るのは結局のところ、祈りのためにだった。眩しさに立ち向かう私たちに、運命は、闇を照らすものを祈りで撮り潰すために、ほんの小さな、まるっきり玩具でしかないほどのささやかな、レンズを与えたもうた。人が光に祈り始めたのは、たぶん人が人たり得る程度に進化した、ほんの初期のころだっただろう。
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単行本p.354


 映像制作に取り組む現代の女性の話と並行して、映画に関わり続けたある一族の三代に渡る物語が展開します。戦前フランスの映画会社、戦後アメリカのアニメーションスタジオ、ベトナム戦争当時のサイゴン。世界中を舞台に、映像の時代を生き延びようとした人生が語られ、歴史小説として読むこともできます。

 しかし、何しろ高山羽根子さんの作品ですから、分かりやすくひとつの物語にまとまってゆくようなことはありません。まき散らされた様々な断片は、他のパートと無関係に感じられたり、あるいは過去の作品との隠されたリンクを暗示しているように思えたりします。重ね合わされた複数の世界が、観測により収斂することを拒絶しているような、そんな長編です。好きな読者はとても好き。





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