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『時間はどこから来て、なぜ流れるのか? 最新物理学が解く時空・宇宙・意識の「謎」』(吉田伸夫)

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 空間が物理現象の担い手と同一視できる実体だとすると、時間はどうなるのだろう? 空間は実体だが時間は形式にすぎないのか? 時間の流れは現実に生起する物理的な出来事なのか? 実は、この問いに答えることが、本書の最大の目標である。
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新書版p.7


 時間の「流れ」とは、現実に生起している物理的な出来事なのか、それとも私たちの心の中にだけある世界認識の方法なのか。決定論、量子脱干渉、タイムパラドックス。時間にまつわる難問が、現代物理学ではどのように考えられているのかを語る一冊。新書版(講談社)出版は2020年1月、Kindle版配信は2020年1月です。


[目次]

はじめに――時の流れとは
第1章 時間はどこにあるのか
第2章 過去・現在・未来の区分は確実か
第3章 ウラシマ効果とは何か
第4章 時間はなぜ向きを持つか
第5章 「未来」は決定されているのか
第6章 タイムパラドクスは起きるか
第7章 時間はなぜ流れる(ように感じられる)のか




第1章 時間はどこにあるのか
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 場所によって時間の尺度が異なるのだから、宇宙全域に単一の時間が流れるのではなく、あらゆる場所に個別の時間が存在すると考えなければならない。
 本章のタイトルとして掲げた問い――「時間はどこにあるのか?」――に答えるならば、時間は「その場所」にある。決して、どこからともなくすべての物体に作用するのではない。
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新書版p.44


 まず相対性原理から導かれる時間の局所性、つまり宇宙全体に渡って均一に流れるニュートン時間などというものはなく、時間の経過は場所や観察者に依存していることを解説します。


第2章 過去・現在・未来の区分は確実か
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 「未来」はまだ実現されず「過去」はすでに過ぎ去ったのだから、どちらもリアルでなく、ただ「現在」だけがリアルだ――そうした見方は、時間について多くの人が共有する考え方だろう。だが、この主張に、実験や観測で検証できる根拠があるのだろうか?
(中略)
 相対性原理を認めるならば、「現在」だけがリアルなのではなく、「過去」も「未来」も同じようにリアルだと考えざるを得ない。「現在」という物理的に特別な瞬間など、もともと存在しないのである。どこからともなく作用して運動や変化を生み出す「時間の流れ」も、あえて想定する必要がない。
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新書版p.76、77


 空間の広がりと同じく時間の広がりにも特別な点や方向はなく、「過去」「現在」「未来」は同じようにリアルである。空間が特定の方向に「流れ」てはいないように、時間の「流れ」も想定する必要はない。相対性原理に基づいた時間と空間のイメージを解説します。


第3章 ウラシマ効果とは何か
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 物理学では、座標を変換しても物理法則が変化しないことを「対称性がある」と言う。平面世界は、空間内部での回転に対して対称性がある。ミンコフスキーの幾何学に従う時空は、どの方位を向いても世界が同じように見えるので、時空の構造に対称性があると見なされる。
 時空の対称性を物理法則にまで拡張し、時空の内部でどの方位を見ても世界が同じ物理法則に従う場合、この世界には「ローレンツ対称性がある」と言う。アインシュタインが提唱した相対性原理とは、幾何学の観点からすると、「世界にローレンツ対称性がある」という主張になる。
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新書版p.98


 時間と空間はあわせて「時空」を構成しており、ミンコフスキーの幾何学に従う。座標軸を回転させると時間と空間は混じり合うが、時間と空間の幾何学的構造は変化しない。つまり物理世界にはローレンツ対称性がある。基礎知識の総仕上げとして、ミンコフスキー幾何学で表現される時空の構造について解説します。


第4章 時間はなぜ向きを持つか
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 物理的な不可逆変化の向きが逆転しない理由は、時間が一方向的に流れるからではなく、「時間の端っこ」となるビッグバンが、きわめて特殊な状態だったせいである。
 ビッグバンがほとんど揺らぎのない状態だったため、そこから重力によって引き起こされる変動は、必然的に、揺らぎを増す方向に制限される。
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新書版p.140


 時間の広がりに本質的な方向性はないとすると、なぜ「過去」から「未来」に向かって流れているように感じられるのだろうか。それは「時間の端っこ」にビッグバンという特殊な境界条件があるためだ。この宇宙における時間の「向き」がどのようにして決定されているかを論じます。


第5章 「未来」は決定されているのか
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 詳細を決定するのが、ビッグバン直後から無数に繰り返される脱干渉である。脱干渉が見られる局面では、特定の世界線だけが「実現された歴史」として、言わば“選ばれる”ことになる。(中略)
 観測の有無を問題としない客観的な量子論は、1950年代から多くの物理学者によって研究され、80年代のグリフィス-オムネスによる整合的歴史の理論など、興味深い成果を生んできた。脱干渉を重視する議論も、その流れの中にある。
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新書版p.169


 時間の広がりにおいて「過去」も「未来」も同等だとすると、未来は過去と同じく完全に決定されているのだろうか。量子状態の脱干渉(デコヒーレンス)に基づいた、世界線の量子揺らぎについて論じます。


第6章 タイムパラドクスは起きるか
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 パラドクスを解決するためには、ニュートン力学のような「物理現象は時間に関する微分方程式によって決定される」という考え方を止める必要がある。ワームホールを通って自分自身とすれ違う無数の軌道があり、各軌道ごとの作用に応じて互いに干渉し合うとすれば、そのすべての効果が併さって、整合的・全体的な過程になると予想される。
 パラドクスは、「まずワームホール通過前の軌道だけがあり、これが通過後の軌道とすれ違うと……」と順番に扱うことによって生じた。はじめから二種類の軌道を併せて考えれば、パラドクスが起きる余地はない。
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新書版p.190


 ワームホール型タイムマシンの「入口」に飛び込んだ粒子が、過去の「出口」から飛び出してこれから「入口」に向かう過去の自分自身と衝突し、その結果として粒子の軌道が変わって「入口」に入れなくなったとすれば、これはタイムパラドクスを引き起こすのではないか。それとも、それはニュートン力学的(微分方程式的)な世界観から生ずる錯覚なのだろうか。タイムパラドクスとその解釈について論じます。


第7章 時間はなぜ流れる(ように感じられる)のか
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 時間は物理的に流れるのではない。では、なぜ流れるように感じられるかというと、人間が時間経過を意識する際に、しばしば順序を入れ替えたり因果関係を捏造したりしながら、流れがあるかのように内容をするからである。
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新書版p.198


 物理的には時間は空間と同じく広がりであって「流れ」てはいない。では人間の意識はどのようにして「時間が流れている」という錯覚を生み出すのか。時間の流れを作り出す意識のはたらきについて論じます。





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『たべるのがおそい Little 8』(西崎憲:編集) [読書(随筆)]

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『文学ムック たべるのがおそい』は2019年の春刊行の vol. 7 で終刊になりました。同誌はもしかしたら全巻でひとつの巨大なアンソロジーだったのかもしれません。
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 小説、翻訳、エッセイ、短歌など、様々な文芸ジャンルにおける新鮮ですごいとこだけざざっと集めた文学ムック「たべるのがおそい」、全巻購入特典の電子書籍(PDF, mobi, epub, kepub, azk, などの形式でダウンロード可)。公開は2020年3月です。

 申し込み方法など詳しくは以下のページでご確認ください。

『たべるのがおそい』全巻購入特典『Little 8』と全作ガイド 西崎憲
https://note.com/kioku_to_onsoku/n/n6958a2ceded6


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 終刊の理由をよく訊かれるのだが、わたしが時間を工面できなくなったことが一番大きい。とにかく自分の作品は書けないし、訳せないし、仕事が停滞する一方だったのである。
 予想外だったのは、二度芥川賞の候補作が出たことである。どうしてこのような小さな文芸誌にまで目を配ってくれたのか、いまでも狐につままれたような気分である。
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 各巻の個人的な紹介はこちら。


2019年05月16日の日記
『たべるのがおそい vol.7』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2019-05-16

2018年10月23日の日記
『たべるのがおそい vol.6』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2018-10-23

2018年04月12日の日記
『たべるのがおそい vol.5』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2018-04-12

2017年10月19日の日記
『たべるのがおそい vol.4』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2017-10-19

2017年04月18日の日記
『たべるのがおそい vol.3』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2017-04-18

2016年10月19日の日記
『たべるのがおそい vol.2』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2016-10-19

2016年04月18日の日記
『たべるのがおそい vol.1』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2016-04-18


[Little 8 目次]

「『たべるのがおそい』全作ガイド」(西崎憲)

「並行世界の『たべるのがおそい』ギャラリー」(片岡好)

挿画部作品&挨拶(ありかわ りか、片岡好、小林小百合、佐藤ゆかり、重藤裕子、寺澤智恵子、三紙シン、宮島亜紀)

連載エッセイ〈眠れない夜のために1〉
「昨日あったもの明日あるもの」(西崎憲)

翻訳
「恋する男」(レオノーラ・カリントン、西崎憲:翻訳)

片岡好デザイン事務所ウェブサイト連載写小説「モジャ!」

「始まりも終わりも突然に」(田島安江)




「『たべるのがおそい』全作ガイド」(西崎憲)
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 届いたときに、すぐには書肆侃侃房に送らず、結局一日自分のところに止めておいた。一日だけ世界中で自分だけがその作品を知っているという状況を楽しみたかったのだ。たべおそにはそうしたくなる作品がいくつかあった。
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 前述したWebページでも全文公開されている(誤植修正もされている)作品ガイドですが、Little 8掲載版だと縦書きで読めるというのが大きい。まさに『たべおそ』の新刊を読んでいる気分になるのです。


「昨日あったもの明日あるもの」(西崎憲)
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 大きな非合理は時に大きな禍を起こす。しかし小さな非合理というものは時々うまい形で、人には限界があることをやんわりと教えてくれる。それはわたしには恩寵であり、慰めであるようにも見える。
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 たべおそ連載の予定だったが方向性の違いで没になったというエッセイシリーズ〈眠れない夜のために〉、幻の第一作。


「恋する男」(レオノーラ・カリントン、西崎憲:翻訳)
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「お嬢さん、自分はこういう機会を四十年間待っていたんですよ。四十年間オレンジの山の陰に隠れていたんです、誰かが店の果物を盗っていかないかって思いながら。なんで待ってたかっていうと、自分は話したいんです。話を聞いて欲しいんです。あんたが聴かないって云うんだったら、警察に引きわたします」
「聴いてる」わたしは云った。
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 メロンを万引きしたところ、オレンジの山の陰で四十年間ずっとその機会を待ち続けてきたという男につかまった。男は見逃す代わりに自分の話を聞けという。えっ、と思わず読み返したくなる奇妙なディテールがなにげなく散りばめられ、どこに向かうか見当もつかないへんちくりんでなぜか気になる物語がそこから始まる。これ一篇があるだけで『たべるのがおそい 8号』だなあと読者を納得させてしまうパワフルな短編。





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『フレドリック・ブラウンSF短編全集2 すべての善きベムが』(フレドリック・ブラウン:著、安原和見:翻訳) [読書(SF)]

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 フレドリック・ブラウンはSFファンの心の故郷である。
 まあ、正確には“短編SFファンの”と言うべきかもしれないが、ジャンルSFの本籍地がSF雑誌(に発表される短編SF)だという前提に立てば、ブラウンを故郷と見なすことに(少なくとも四十代以上のSF読者のあいだでは)そう異論は出ないだろう。
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単行本p.367


 奇想天外なアイデア、巧妙なプロット、意外なオチ。
 短編の名手、フレドリック・ブラウンのSF短編を発表年代順に収録した全集、その第二巻。『闘技場』『狂った惑星プラセット』『さあ、気ちがいになりなさい』など1944年から1950年に発表された作品が収録されています。単行本(東京創元社)出版は2020年1月、Kindle版配信は2020年1月です。

 子どもの頃、繰り返し繰り返し飽きずに読み返したフレドリック・ブラウンのSF短編。今でもアイデアからオチまですべて憶えているというのも凄いことだけど、それでも今読んでやっぱり面白い、というのが素晴らしい。既刊の紹介はこちら。

2019年07月31日の日記
『フレドリック・ブラウンSF短編全集1 星ねずみ』
https://babahide.blog.ss-blog.jp/2019-07-31


[第二巻 収録作品]

「不まじめな星」
「ユーディの原理」
「闘技場」
「ウェイヴァリー」
「やさしい殺人講座全十回」
「夜空は大混乱」
「狂った惑星プラセット」
「ノックの音が」
「すべての善きベムが」
「ねずみ」
「さあ、気ちがいになりなさい」
「一九九九年の危機」
「不死鳥への手紙」
「報復の艦隊」
「最終列車」




「闘技場」
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 きみたちふたりはここで戦うのだ。どちらも裸で丸腰で、どちらにとっても等しく異質で、等しく不快な環境において。時間制限はない、なぜならここには時間が存在しないからだ。勝ち残った者は種族の防衛に成功したことになり、その種族は生き残る。
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単行本p.56


 神のような超越存在によって人類代表として選ばれてしまった男が、同じ境遇の異星人と、一対一の決闘を行う。負けた方の種族は全滅させられる。今や彼の闘いに人類の命運すべてかかかっているのだ。
 後に様々な作品で応用されることになる見事な設定を打ち立てたブラウンの代表作の一つ。


「夜空は大混乱」
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 無数にある星々から選ばれたいくつかの星が、それぞれ地球からの距離に応じてぴったりの日付に動きだしたわけだ。ぴったりもぴったり、光秒まで一致している。一昨日の夜に撮影した写真乾板を調べてわかったのだが、この新たな星の動きはすべて、グリニッジ時にして午前四時十分に始まっていたのだ。なんと目茶苦茶な話だ!
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単行本p.150


 あるとき、夜空の目立つ星たちがいっせいに動き始める。星座は歪み、北極星はさまよい、南半球でしか見えないはずの恒星が北半球に出張してくる。狂乱する天文学者、パニックに陥る一般大衆。いったい夜空に何が起きているのか。風刺のきいたスラップスティックコメディ作品。


「狂った惑星プラセット」
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 もううんざりだ。プラセットは狂った惑星で、長期間滞在していると頭がおかしくなる。〈アース・センター〉のプラセット支部の職員のうち、十人にひとりは精神病の治療のために地球に戻る破目になる。それもたった一年か二年プラセットで過ごしただけで。それなのに、ぼくはここに来てもうすぐ三年だ。契約期間は切れるし、堪忍袋の緒も切れた。
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単行本p.184


 プラセットは狂った惑星だ。定期的に起こる幻覚症状。地下を「飛んで」建物を倒壊させる「鳥」たち。だが語り手の悩みはそれだけではない。地球に向けて辞職申請を送った直後に愛しい人がプラセットに赴任してきたのだ。何という悲劇的なすれ違い。
 目茶苦茶なのになぜか説得力のある惑星プラセットの設定、次々と起きるトラブル、そしてそれらが鮮やかに解決してゆくプロットが素晴らしいユーモア作品。


「さあ、気ちがいになりなさい」
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 ちくしょう。正気でないのならどんなによいか。それなら話はすっきり単純になるし、いつかはここを出ていけるかもしれない。また〈ブレイド〉で働けるようになり、そこで働いていた年月の記憶も蘇ってくるかもしれない。ジョージ・ヴァインの記憶が。
 問題はそこだ。彼はジョージ・ヴァインではない。
 そしてもうひとつの問題は、彼は正気だということだ。
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単行本p.296


 「自分がナポレオンだ、という妄想にとらわれた患者」として精神病院に潜入する仕事を引き受けた新聞記者。だが問題は、彼は本当にナポレオンだということだった。これは罠だ。誰が仕掛けたのか。そしてなぜ?
 新聞の風刺マンガなどでよく使われた定番のナポレオン妄想ネタを使いながら、息も詰まるような見事なサスペンスに仕上げた作品。SFとしても当時としては先駆的なアイデアが使われており、最後の最後、読者に向かって吐き捨てるように放たれる言葉は、内容と共鳴しながら強烈な印象を残します。若い、というか幼い頃に読んだときの衝撃を今でも覚えています。


「一九九九年の危機」
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 ジョード、わたしは気が狂いそうだ。いったいどうやって、暗黒街の連中は嘘発見器を出し抜いているんだろう。それをきみに突き止めてもらいたいんだ。(中略)このまま行けば、そして答えを突き止めることができなければ、新たな暗黒時代に突入することになり、もう男も女も安心して街を歩くことができなくなる。社会が土台から崩れていこうとしているんだ。
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単行本p.316


 嘘発見器の信頼性が飛躍的に向上し、法廷でも強力な証拠として採用されるようになった二十世紀末。ところがあるとき、容疑者が次々と嘘発見器を出し抜くようになる。証拠は揃っているのに、嘘発見器の検査を堂々とパスして無罪を勝ち取ってゆく暗黒街のボスたち。いったいどうやってそんなことが出来るのか。暗黒街への潜入捜査を開始した探偵は、意外な真相にたどり着く。


「最終列車」
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「わかってないな」駅員は言った。
 初めて駅員はこちらをふり向いた。ヘイグはその顔を見た――燃えあがる真紅の空を背景にして。「わかってないな」彼は言った。「あれが、最終列車だったんだよ」
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単行本p.358


 すべてを捨てて新しい人生に踏み出すために、列車に乗ってこの街を出る。何度も決意してはそのたびに乗り遅れている男が、もう列車は来ない、と知らされる。何もかも手遅れになってから。
 やったことは取り返しがつかない、やり直すチャンスはない。謎めいた異色作ながら、短編作家としてのブラウンの真骨頂を示すような作品。個人的には「さあ、気ちがいになりなさい」をも凌駕する傑作ではないかと密かに思っています。





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『SFマガジン2020年4月号 眉村卓追悼特集』 [読書(SF)]

 隔月刊SFマガジン2020年4月号の特集は「眉村卓追悼特集」でした。また星敬追悼エッセイも掲載されました。


『白萩家食卓眺望』(伴名練)
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 共感覚者そのものが稀であり、味覚刺激から視覚情報を得るという遥かにマイナーな共感覚の存在について、理解している人間が周囲にいるはずもなく、たづ子にそれが特別な知覚であると教えられる人間はいなかった。
 けれどもたづ子は、彼女が今日まで食事時に見てきた幻が「味」によってもたらされた秘密の感覚であること、その感覚が家族にさえ理解してもらえぬであろうこと、母が遺した料理帖が奇跡の産物であることを、天啓のように知ったのである。
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SFマガジン2020年4月号p.12


 特定の味覚刺激により、幻の風景がありありと浮かび上がる。他人には決して理解されない特殊な能力を持っていることに気づいた女性が手にした料理帖。そこには自分と同じ能力を持っていたに違いない先人たちが、それぞれに開発していったレシピが何代にも渡って書き綴られていた。「味覚と視覚の共感覚」を持った人々による「視覚芸術のための料理レシピ集」という魅惑的なアイデア。そして泣ける。


『博物館惑星2 ルーキー 第十一話 遙かな花』(菅浩江)
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 乗降口の分厚い扉の前で、健は嘆息する。
「これはもう、崖の上のマツヨイグサが復活でもしない限り、あの二人を心穏やかにしてあげることなんかできそうにないですね」
 孝弘も吐息混じりだ。
「たとえ復活しても、どうだか判らないよ」
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SFマガジン2020年4月号p.322


 既知宇宙のあらゆる芸術と美を募集し研究するために作られた小惑星、地球-月の重力均衡点に置かれた博物館惑星〈アフロディーテ〉。生物種の隔離施設周辺に無断侵入したプラントハンターを逮捕したものの、ある富豪が司法取引を申し出る。できれば穏便に解決したいところだが、二人は過去のいざこざで反目しあっていた。こじれた人の心を解決するにはどうすればいいのだろう。若き警備担当とその相棒であるAIが活躍する新シリーズ第11話。


『降りてゆく』(草上仁)
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 大事なことに夢中になっている八歳の少女にとっては、タブーなどないも同然だ。
 だから、ユリエは、家からハンマーを持ち出すことにも、そのハンマーでプラスティックのカバーを叩き破ってボタンを押すことにも、何のためらいも覚えないのだった。
 降りてゆく。何と言っても、チロが落っこちてしまったのだ。
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SFマガジン2020年4月号p.339


 雲の上まで伸びる超超高層ビル。その上層階に住んでいる少女は、千階に近い階段をひとつひとつ降りてゆく。屋上から落っこちてしまった愛犬を取り戻すために。格差社会とその住民の心象を扱ったショートショート。





タグ:SFマガジン
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『息吹』(テッド・チャン、大森望:翻訳) [読書(SF)]

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 商業デビューして以降、現在までの29年間に出した本は、本書を含めてわずかに2冊。数ページの掌篇4篇を含め、全部で18篇の中短篇しか発表していない。なのに、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、シオドア・スタージョン賞、星雲賞など世界のSF賞を合計20冠以上獲得。短篇1本書くだけで世界中のSF読者のあいだでセンセーションを巻き起こすのはこの人くらいだろう。(中略)
 そのテッド・チャンの待望ひさしい二冊目の著書が、本書『息吹』。チャンの全小説作品のちょうど半数にあたる9篇が収録されている。(中略)この一冊をまとめるのに17年の歳月を費やしただけあって、作品の質の高さは『あなたの人生の物語』にもひけをとらない。最近10年のSF短篇集では、おそらく世界ナンバーワンだろう。
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単行本p.415、416


 『あなたの人生の物語』でセンセーションを巻き起こしたテッド・チャン、待望の第二作品集。単行本(早川書房)出版は2019年12月、Kindle版配信は2019年12月です。


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 著者がここで語っている問題を、「避けられない困難に直面したとき、知性はどうふるまうか」と言い換えれば、本書のほとんどの作品がこのテーマに関連している。理解しようと努力することに意味があるという表題作のポジティブなメッセージと、知性が持つポテンシャルに対する信頼が通奏低音となって、それぞれタイプの違う9つの物語をひとつにまとめあげる。科学と技術の問題だけでなく、つねに心の問題を中心に置く点が、ジャンルの垣根を越えてテッド・チャン作品が広く読まれつづける理由かもしれない。
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単行本p.420


[収録作品]

『商人と錬金術師の門』
『息吹』
『予期される未来』
『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』
『デイシー式全自動ナニー』
『偽りのない事実、偽りのない気持ち』
『大いなる沈黙』
『オムファロス』
『不安は自由のめまい』




『商人と錬金術師の門』
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 過去と未来は同じものであり、わたしたちにはどちらも変えられず、ただ、もっとよく知ることができるだけなのです。過去への旅はなにひとつ変えませんでしたが、わたしが学んだことはすべてを変えました。そして、こうでしかありえなかったのだということを理解しました。もしわたしたちの人生がアラーの語る物語なら、わたしたちはその聞き手であると同時に登場人物でもあり、そうした人生を生きることによって教訓を学ぶのです。
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単行本p.45


 未来や過去は完全に決まっており、何一つ変えることが出来ないとしたら、私たちは何のために生きるのだろうか? アラビアンナイトの世界にワームホール型タイムマシンを導入し、未来や過去を訪問した者たちの物語を語りながら「決定論的宇宙を生きる」ことの意味を問う作品。『あなたの人生の物語』の発展形。


『息吹』
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 どのぐらい遠い未来のことかは知る由もないが、あなたがたの思考もいつか停止すると仮定しよう。あなたがたの命も、われわれの命とおなじように終わる。万人の命が必ずそうなる。どんなに長くかかるとしても、いつかはすべてが平衡状態に達する。
 願わくば、そのことを知って悲しまないでほしい。願わくば、あなたがたの探検の動機が、たんに貯蔵槽として使える他の宇宙を探すことだけではなく、知識への欲求、宇宙の息吹からなにが生まれるかを知りたいという切望であってほしい。なぜなら、たとえ宇宙の寿命が有限であっても、その中で育まれる生命の多様性には限りがないからだ。
――――
単行本p.67


 微細構造メカニズムを通って高気圧領域から低気圧領域へと大気が移動するときのパターンそのものが「意識」として存在する生命とその文明。だが宇宙における気圧格差は次第に失われてゆく。いずれは大気圧が完全な平衡状態に達し、あらゆる意識が維持できなくなるときが来るだろう。そしてこの原理は、すべての宇宙、すべての生命にとって普遍的な運命ではないだろうか。物理法則によって終末が運命づけられた宇宙で、私たちの命が束の間存在することにどんな意味があるのか。SFでしか書けない思弁によって「人生の有限性」の意味を問い直す作品。


『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』
――――
 経験は最上の教師であるばかりか、唯一の教師でもある。もしアナがジャックスを育てることでなにか学んだとすれば、それは、近道などないということだ。この世界で20年生きてきたことから生まれる常識を植えつけようとすれば、その仕事には20年かかる。それより短い時間で、それと同等の発見的教授方法をまとめることはできない。経験をアルゴリズム的に圧縮することはできない。
――――
単行本p.188


 経験によって学び、成長してゆくAI。仮想ペットとして売り出されたAIの知能は、何年もかけて人間と交流することで、子供に匹敵するまでに育ってゆく。しかし売れ行きは頭打ちとなり、開発元によるサポートは打ち切られ、AIが走るインフラ仮想空間も時代遅れになって見捨てられる。長年かけて大切に育ててきた「子供」を簡単に廃棄することなど出来ないユーザたちは、彼らを最新インフラ上に「移植」するプロジェクトに期待するが、それには多額の資金が必要だった。

「真に自己学習するAIが登場すれば、それはコンピュータ時間で超高速学習を継続するため、ごく短期間に人類を越えるまで知能を高め続けるだろう」という、いわゆるシンギュラリティ論の前提に異議をとなえ、経験から学ぶこと、AIに対する人間の愛情、そしてAIとの交流が人間を変えてゆくことについて、様々なエピソードを通じて思弁する作品。


『偽りのない事実、偽りのない気持ち』
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 わたしたち全員が、さまざまな状況であやまちをおかし、残酷な行動や偽善的な行動をとるが、そのほとんどを忘れてしまう。それはわたしたちが、ほんとうの意味では自分を知らないことを意味している。自分の記憶を信用できないとしたら、わたしがいくら個人的な内省に時間を費やしているといっても、どれだけ説得力があるだろう。あなたの場合はどうだろう?
――――
単行本p.264


 自分が過去に体験したことをすべて映像として記録し続けるライフログ。そしてライフログを検索して求める過去のシーンをすばやく再生してくれる検索エンジン。それらは非常に便利なツールだが、問題はないのだろうか。私たちは実際の体験をほとんど忘却して、勝手に作り上げた記憶から自分に関する「物語」を作り上げることで生きている。アイデンティティの中核となっている「過去の記憶」や「自分のイメージ」の虚構性が明白にされるとしたら、私たちはどう反応するだろうか。


『オムファロス』
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 たとえこの宇宙がつくられたのが人類のためではないとしても、わたしはやはり、宇宙の仕組みを理解したいと願っています。わたしたち人間は、“なぜ”という疑問の答えではないかもしれませんが、“どんなふうに”という問いの答えを探しつづけるつもりです。
 この探求がわたしの目的です。主よ、あなたがわたしのためにお選びになったからではなく、わたしが自分でそれを選んだからです。
 アーメン。
――――
単行本p.315


 この宇宙のすべては、今からおよそ9000年ほど前に創造された。神による天地創造が科学的に証明された宇宙で、科学者たちは「神の意図を明らかにする」という明確な目標を持って研究に取り組んでいた。しかし、神がこの宇宙と人類を創造したということと、神が人類のことを気にかけているということとの間には、実は大きな違いがあったのだ。信仰の危機をむかえた一人の科学者を語り手にして、信仰と科学と自由意思について問い直す作品。


『不安は自由のめまい』
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「わたしは自分の決断に意味があるかどうかを知りたいのよ!」その声は思った以上に大きく響いた。ナットは息を吸ってから先をつづけた。「殺人のことは忘れて。そういうことを話したいんじゃなくて、正しいことか、まちがったことか、どちらかをする選択肢があるとき、わたしはいつも、さまざまな分野で両方を選んでいるの? もし毎度毎度、だれかに親切にするのと同時に、いやなやつみたいに振る舞っているとしたら、どうしてこのわたしは親切にしなきゃいけないの?」
――――
単行本p.383


 起動する度に量子論的世界分岐を起こすデバイス。このデバイスを通して、分岐した二つの世界の間での通信が可能になるのだ。何か決断する前にデバイスを起動して、別々の選択肢を選んだ自分同士が会話できるとしたら、それは私たちの倫理にどのような影響を与えるだろうか。量子論的多世界解釈を前提に、人生における選択の意味を問い直す作品。





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