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『如何様』(高山羽根子) [読書(小説・詩)]

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「私がこの依頼の最初からずっと申しあげている薄気味悪さというのはね、帰ってからの平泉を見ていると、もともと目指していた偽物に、彼自身がなってしまったんじゃないかということをどうしても考えてしまうからなんです。そうして彼の本物というのは、はなっから存在などしてなかったんではないのか、と、私はそんなふうに思ってしまっているんです」
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単行本p.56


 終戦後に復員してきた画家。書類は本人だと証明しているが、その容貌は出征前とはまるで違っていた。別人によるなりすましだろうか。謎を追う記者は、そもそも本物とは何か、という問いにとらわれてゆく。『オブジェクタム』『居た場所』『カム・ギャザー・ラウンド・ピープル』に続く謎めいた表題作と、文芸誌「食べるのがおそい」最終号に掲載された短編『ラピード・レチェ』を収録。単行本(朝日新聞出版)出版は2019年12月、Kindle版配信は2019年12月です。


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 今、私が調べるよう頼まれている一連のことというのは、復員した貫一についてであった。タエの夫、画家平泉貫一は第一次、第二次復員といった大規模な一斉復員の機会と外れたまったく別の時期に、復員局からの連絡があったのちに、ひとり戻ってきた。(中略)問題であったのは、帰ってきた貫一の姿だった。出征前の貫一の写真と現在の彼の姿は、普通に考えたらまったく似ても似つかぬ、むしろ完全な赤の他人であってもこれより似せることは簡単であろうというほどのちがいようだった。
 要はどう見ても別人が帰ってきた、ということである。
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単行本p.18


 終戦とともに復員してきた画家。書類上は本人に間違いないし、画風も変わっていない。だがどう見ても顔は別人。それなのに家族は本人として受け入れている。調査を進めるうちに彼が贋作者だったことが判明し、書類も、画風も、証拠としての信頼性を失ってしまう。そもそも他人に成りすまして贋作を作る仕事。では出征前の彼は「本物」だったのだろうか。いや、「本物」とはなんだろう。


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 まったく同じもののうちひとつが本物であったとわかったとして、ほかの残りは絶対に偽物なのだろうか?(中略)本物が消え去って、あるいはそれぞれに部分的な本物があり、それの寄せ集めが完成品だとして、その本物という性質はどこに存在するのだろうか。多色刷りの版画の版木もまた、色ごとに分けられたひとつずつは単体ではなんの絵なのかさえわからない。大量に刷られた版画のほうが美しい本物だとしたら、版木はその材料でしかないとしたら。女性の美しさをうたった詩は偽物で、美しい女性だけが本物なのだろうか。それとも女性は美しい詩を作るための材料にすぎないのだろうか。
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単行本p.60


 終戦直後の混乱期を舞台にしたミステリだと思って読むと困惑することになります。これまでの作品と同じく、提示された謎は背景に過ぎず、解明されるとか、そういうことは期待してはいけません。

 本物と偽物は境界線でくっきりと分かれるものだろうか。そもそも「本物」という属性はどこに存在しているのか。それは対象に内在しているのか、それとも周囲の人々がそのように扱うという社会的状況こそが本物と偽物を分けるのか。そしてラストシーンでは、これらの問いを象徴するような紙幣(通貨)、たくさんのそれが空を舞い飛ぶ美しい情景にたどり着くのです。


『ラピード・レチェ』


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 彼のたすきはつながるんだろうか。そうして私は、いつの間にかつかんでいるこの、自分のたすきをだれに手渡そうとしているんだろう。沿道や、建物のバルコニーから何人かの人が旗を振って私たちを鼓舞しているのが、視界のはじっこに見えた。私は、視界のどこかにアレクセイがいないか、期待してしまう。アレクセイは、マオイストと私、どっちに向かって希望の旗を振ってくれるんだろう。
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単行本p.143


 日本で開発された新競技を普及させるために、とある国に、指導者として赴任してきた語り手。異文化、慣れない習慣、妙に印象的な友だち。トレーニングには真面目に取り組むものの競技を理解しているのかどうかよくわからない選手たち。かつて謎競技〈怪獣上げ〉で読者を魅了した著者が、新たな謎競技(駅伝競走がモデル)の普及活動を通じて、世界のわからなさとそのなかで生きてゆくことについて描いた短編。





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