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『ひみつのしつもん』(岸本佐知子) [読書(随筆)]

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 天気図の、台風の進路の予想図。いま現在の台風の中心から円形がいくつか派生して、それが先にいくほど大きくなっていく。かつての私はそれを見ながら「大変だ、東北全体が台風にすっぽりおおわれてしまう」などと心配していた。そのいっぽうで内心「どうして勢力は衰えつつあるのに大きさだけどんどん増していくのだろう」とうっすら疑問にも思っていたのだった。
 あの丸が台風の大きさではなく、中心がどこに来るかの予想範囲を示しているのだと知ったときの衝撃。(中略)人として、確実に成長した。
 他にも「無期懲役」は「終身刑」ではないと知ったとき。イエス・キリストと神さまは別ものなのだと知ったとき、KinKi Kids の二人が兄弟ではないと知ったとき。ピーラーの横についているあの出っぱりの用途を知ったとき。「完璧」の「璧」は「壁」ではなく、自分のイメージしていた高くて傷ひとつない鉄の壁はまちがいだったと知ったとき。それら成長の瞬間は今も自分史に燦然と刻まれている。
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単行本p.113


 謎の記憶。気にかかる妙な想像。ひたすら暴走しつつ、暴走中だというのにそこらでついつい寄り道してしまう妄想。『気になる部分』『ねにもつタイプ』『なんらかの事情』に続く岸本佐知子さんの第四エッセイ集。単行本(筑摩書房)出版は2019年10月です。


 これまでのエッセイ集の紹介はこちら。

2012年11月15日の日記
『なんらかの事情』
https://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-11-15

2007年02月15日の日記
『ねにもつタイプ』
https://babahide.blog.so-net.ne.jp/2007-02-15

2006年07月27日の日記
『気になる部分』
https://babahide.blog.so-net.ne.jp/2006-07-27


 というわけで、今作も圧倒的な面白さ。まずは自己紹介から。


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 その者は雑誌の座談会に呼ばれる。話すのは苦手なので、なるべく黙っていようと思う。何時間かの座談会の中でその者が唯一まともにしゃべったのは「いかに嫌いな人間をひとまとめにして頭の中で巨大な臼に放り込み、杵で何度も何度もついて真っ赤な血の餅に変えるか」についてだ。
 できあがった原稿では、その部分がまるまるカットされている。
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単行本p.121


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 小学生の頃、近所の剣道教室に通っていた。毎年大みそかには全員で道場の大掃除をすることになっていた。先生から「そこは触らなくていい」と言われていた隅っこの押入れをこっそり開けたら、暗がりの中に大小さまざまなキューピー人形がぎっしり立っていた。
 これはその者の記憶ではない。同じクラスのそれほど仲が良かったわけでもない子から聞いた話だ。その者の頭の中は、そういう何の役にも立たない、自分のものですらない記憶の断片であふれかえっていて、そのせいで大事なことが考えられない。
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単行本p.122


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 どうも自分はもう一人いるんじゃないかと思うことがある。こうして頭で物を考えている自分と、現実世界でいろいろなことを実行している自分は別の人間なのではないか。
 誰かから「昔あなた○○したよねー」と言われる。その○○の部分にまるで覚えがないときなどに、その疑念は強まる。
 たとえば「他人のはいていた靴下を気に入って、その場で強奪した」というのがそうだ。全然覚えていない。靴下はたしかに家にあるが、私の記憶では、その人が同じものを買ってプレゼントしてくれたはずだ。「通りすがりに侮蔑的なことを言った見知らぬ人をテニスのラケットで殴った」というのもある。だが気弱で小心なことにかけて海底のチンアナゴにも劣らぬ私がそんなことをするはずがない。総じて他人の記憶の中の私はなぜか粗暴で極悪だ。やはりもう一人私がいるとしか思えない。
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単行本p.181


 そして生活と記憶にまつわるあれこれ。


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 ちゃんと財布の中に入れているにもかかわらず、なぜかカードが異常にボロボロになる。ことにひどいのはSuicaだ。あの可愛かったペンギンのキャラクターは無残に剥げて、禍々しい別の何かに変じている。「魔除けになるレベル」とまで言われた。一度どこかの駅で、駅員さんに「ひっ」と言われたこともある。
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単行本p.42


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 何年か前の夏の夜、銀座四丁目の横断歩道を渡った。ふと見ると、私の横を一匹のゴキブリが並んで歩いていた。私とゴキブリは、連れのように並んで横断歩道を渡りきった。
 敵味方の間に芽生える友情、というものが、一瞬だけ理解できた気がした。
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単行本p.56


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 その友人は「ああ、あるよねカバディ。インドが発祥のスポーツでしょ」と言った。
 するととたんにみんな「あ、そうなんだ」とあっさり納得した。
 私は釈然としなかった。なぜ私があれだけ力説しても誰も信じようとしなかったのに、別の人が同じことを言うと無条件に信じるのか。だが話題はすでに別のことに移ってしまっていた。のちに私の中で「カバディ事件」として記憶されることになる悲しい出来事である。
 悲しくはあったが、現象に名前がついたのは有益だった。このカバディ現象は、「今日は何曜日か」から始まって小学校の時の先生のあだ名にいたるまで、その後も繰り返し私の人生に現れることとなった。
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単行本p.153


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 私が私の裏垢でしたのは、悪態だった。
 当時の私はやさぐれていた。世界に対する黒い呪詛が腹の中に溜まって、口からあふれ出る寸前だった。口を押えれば、鼻や耳や目から漏れそうだった。
 だから口で言うかわりにツイッターで匿名で言うことにした。電子板「王様の耳はロバの耳」だ。
 作った裏垢は、自分とフォローを許可した人以外は閲覧できない「鍵付き」アカウント、しかもフォロー数ゼロ・フォロワー数ゼロとして完全密室。そこで私は腹に溜まった真っ黒な呪詛を吐いて吐いて吐きまくった。
 特大の頑丈な臼に、思いつくかぎりのむかつく人モノ組織出来事現象その他その他を投げ入れ、それを勇壮な掛け声とともに渾身の気合で搗く。そいや。そいや。そいや。搗く時間は素材と私のむかつきの度合いにより適宜変化する。
 そのようにして私は夜ごと完全密室で杵をふるい、大小さまざまな血の餅の山を築いた。
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単行本p.185



 密かな願望と不安。


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 前々から、ものすごくみじめな仕事場で仕事をしたいというひそかな願望がある。(中略)理想は、昔なにかの写真で見たマーラーの作曲小屋だ。
 犬小屋を人間サイズに直したような、ひどく粗末な真四角の掘っ建て小屋で、内部は床も壁も木がむき出し、小さな机と椅子があるきりだった。そんなのが、森の木陰にぽつんと建っている。
 グスタフ・マーラーは立派な屋敷があったにもかかわらず、わざわざ敷地の一角にそんなみじめ小屋を作らせて、壮大な交響曲九番とか十番とかをそこでいじいじと作曲したのだ。食事は母屋から誰かに運ばせた。夜だけ家に帰った。
 なんとかあのマーラーのみじめ小屋を自分の仕事場にしたい。
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単行本p.21


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 ためしにスリ師のニックネームを調べてみた。(中略)どれもいかす。私がスリだったらどんな称号で呼ばれたいだろう。〈韋駄天のさち婆〉とか。〈一番星のさち婆〉とか。どうも婆が気に食わぬ。もっとこう、婀娜な感じがほしい。〈匕首のお吟〉なんてどうか。いかす。だがそれはもうスリじゃない。私ですらない。
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単行本p.138


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 だが最近になって、新たな強敵が私の前に現れた。「ペッパー」というロボットだ。あのつるんとした冷たそうなボディ。瞳孔の開ききった目。唐突に胸に貼り付けられたタブレット。何よりやたらとなれなれしく話しかけてくる。地獄だ。
(中略)
 奴をどうやって倒すかはすでに考えてある。まずくっついて一つにつながった脚にカニバサミをかけて横転させる。馬乗りになって胸のタブレットを引きはがす。とどめに電源を抜く。
 だが夜道を向こうからペッパーがこちらに向かって近づいてきたら、本当に私は闘えるだろうか。「こんばんは!」などと話しかけられたら、恐ろしさに金縛りになってしまわないだろうか。そもそも、道を一人で歩くペッパーに電源はあるのだろうか。それは本当にペッパーなのだろうか。
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単行本p.158


 世界のひみつに気付いた瞬間のこと。


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 第一、第二、第三と数字が上がるにつれ難易度が上がるということは、逆に「ラジオ体操第X」のXの数値を小さくしていけば、理論上は易しくなるはずだ。そのどこかに私にもできる理想のラジオ体操があるのではないか。
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単行本p.36


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 もしかしたら「ぬ」は宇宙から来たのではあるまいか。
 五十音にまぎれて普通の音のふりをしているが、本当は地球外生命体なのではなかろうか。語尾や語の途中に置かれれば目立たないが、語の先頭にくると、その異質性がむき出しになってしまうのだ。
 だいいち「ぬ」という形からして何となく怪しい。見れば見るほど、エイリアンが息を殺して体を丸め、「め」に擬態している姿に思えてくる。
 「ぬ」の狙いはいったい何なのか。
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単行本p.150


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 何もかも完璧な優等生が「出来杉くん」であるように、宇宙人に居候される男子が「諸星あたる」であるように、ムカデに変身する会社員が「ザムザ」であるように、宇宙に行くキャラだから「星出さん」なのだろうか。この世界は本当はペラペラした作り物の書き割りで、見えないどこかで誰かがそういうことを全部決めているのだろうか。名は体を表しすぎている星出さんの名前を見るたびに「はは、おもしろ」と思ったあとで、何となく体のどこかがスウスウするのは、そのせいなのだろうか。
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単行本p.48





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