『起請文の精神史 中世の神仏世界』(佐藤弘夫) [読書(教養)]
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私がここで扱うのは、だれもが思いつく親鸞や道元といった著名な思想家のテキストではありません。本覚思想や神道思想に関わる体系的な著作でもありません。日記などのまとまった文学史料でも、文学作品ですらありません。それは起請文とよばれるたった一枚の、およそ思想など読み取れそうもない古文書です。私はこの一通の文書から、かつてこの列島にいた人々の内面世界を再構成するという試みに挑戦したいと考えているのです。
(中略)
起請文はその作成にあたって、参加者の前で読み上げられることが重要な手続きだったのであり、その影響は文字に縁のない社会の底辺の人々にまで及んでいたのです。
起請文がそうした性格を有するものであったとすれば、身分や階層や地域を超えて広く同時代人に共有されたという点において、この右に出るものは存在しません。私が中世人のコスモロジーを解明しようとするにあたって、起請文に注目する理由はまさしくここにあるのです。
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単行本p.13、20
「私はこれこれを誓う。この誓いが真実である証として、もし破ったら神仏による罰を受けると宣言する」
日本の中世において盛んに作成された起請文。そこに「誓いを破ったものに罰を与える存在」としてリストアップされた存在とその席次を詳しく調べることで、中世において広く共有されていた神仏などを含む世界観、コスモロジーを明らかにすることが出来るのではないか。起請文という意外な資料から日本の思想史を読み解いてゆく興奮の一冊。単行本(講談社)出版は2006年4月、Kindle版配信は2015年7月です。
[目次]
序章 方法としての起請文
第1章 起請文を読む
第2章 神と死霊のあいだ
第3章 垂迹する仏たち
第4章 神を拒否する人々
終章 パラダイムに挑む
序章 方法としての起請文
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私たちの価値観やものの見方が通用しない領域が存在するのは、なにもはるかな異国の地だけに限ったことではありません。この同じ列島上においても、時間を遡っていったときに、現代人の常識では推し量ることのできない世界が忽然と目の前に現れてくるのです。
私はこれまで研究者として、そうした世界をいくたびも垣間見てきました。現代に生きる私は、その異様なありさまに繰り返し強い衝撃を受けました。そしていつのころからか、一部の研究者だけが特権的に目にすることのできるこの異界の風景を、できる限り多くの方々にもみていただきたい、この驚きを皆さんと分かち合いたい、という思いを抱くようになりました。
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単行本p.6
中世において、思想家や宗教家だけでなく、庶民にまで広く共有されていた世界観を読み解くにはどうすればいいか。そのための具体的な方法として起請文に注目したわけを解説します。
第1章 起請文を読む
――――
それぞれの起請文においてどういった神仏が勧請され、どの神仏が勧請されなかったのでしょうか。起請文に名を連ねるものたちは、どのような理由で選ばれることになったのでしょうか。――神仏の序列と同じく、この点にも、中世人が神仏に抱いていたあるイメージが反映されているように思われるのです。
起請文に登場する神仏の名前とその席次に、当時の人々が神仏の世界に対してもっていた共通のイメージを読み取ることはできないか――私たちは、この素朴な疑問を胸に抱いて、まずは神文の神仏のリストを洗い直すことから作業を開始することにしましょう。
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単行本p.28
起請文で挙げられる神仏リストには、常連というべき名前があるいっぽうで、まず登場しない名前もある。名前の挙げられる順番、つまり席次にも大きな意味がある。起請文に登場する神仏などのリストから何が読み取れるのかを解説します。
「天照大神は嘘をつく神だから、正直を旨とする起請文に勧請するのはふさわしくない。――こうした認識が、室町時代には一定の知識人のあいだで共有されていた」(単行本p.31)など意外な事実も。
第2章 神と死霊のあいだ
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梵天や閻魔や大仏が起請文に登場することについては、私でなくとも違和感を覚える方は多いのではないかと思います。違和感とまではいわなくとも、なんらかの説明は必要でしょう。その一方で、そこに日本の神々が勧請されるのはごく当然だという感覚をもつのも、私だけではないような気がします。
しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。日本の神々が「罰」を下すことを期待して起請文に勧請されるのは、それほど当たり前のことなのでしょうか。
じつは違うのです。日本の神々の果たす機能を「罰」という言葉で表現するようになるのは、起請文の成立からそれほど遡った時代ではなかったのです。さらにいえば、日本の神々は、元来起請文に勧請されるような生やさしい存在ではなかったのです。
――――
単行本p.65
日本における神のイメージの変遷。そして、御霊、死霊、モノノケ、疫神。中世日本で広く共有されていた超自然的存在のイメージや位置づけ、その変遷を、起請文から読み解いてゆきます。
第3章 垂迹する仏たち
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中世的コスモロジーの中心的位置を占めていたのは、「あの世の仏」と「この世の神仏」という二種類の超越者=〈神〉でした。所在地も役割も異なるこれら二つのグループを、中世人はどのような関係をもつものとして理解していたのでしょうか。もっと具体的にいえば、当時の人々が彼岸の極楽浄土の阿弥陀仏と、宇治の平等院鳳凰堂に鎮座する定朝作の阿弥陀仏像とを、いかなる関係性をもつものとして把握していたのかという問題です。
私のみるところによれば、その二者を結ぶものが本地―垂迹の論理でした。
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単行本p.117
起請文をベースに読み解いていった中世のコスモロジー。それをもとにして、本地垂迹、神仏習合の意味を再考してゆきます。
第4章 神を拒否する人々
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法然や親鸞の思想のラディカルさは、時代のコスモロジーそのものに正面から挑み、その改変を試みたことにありました。神祇不拝などをめぐる専修念仏と伝統仏教との対立は、まさにコスモロジーを奪い合う闘争だったのです。それは単なる机上の教義論争ではありませんでした。現実の矛盾を深く見据えながら、宗教者としての自己の全存在を賭して主体的に時代のコスモロジーを読み替えていこうとする、壮大な知的冒険にほかならなかったのです。
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単行本p.179
神祇不拝。親鸞の言葉にみられる「過激さ」を、コスモロジーそのものを読み替えようとする思想闘争、という視点から読み解いてゆきます。
終章 パラダイムに挑む
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単に既存の思想像を脱構築するだけでなく、なんらかの方法によって、過去の人々の息遣いが聞こえるような形でその精神世界を再現することはできないものだろうか。それは、従来のものに代わるグランド・セオリーを作り上げることによってはなしえません。私にそのような能力はありませんし、個別研究がこれだけ細分化・深化した現状ではそれはまして困難です。
それでは、どうすればいいのか。私たちにとっても可能な道筋は、まずはこの地球上の一つの地域に焦点をあわせて、ある時期そこに実在した小さな思想世界をできるだけ忠実に、リアルに再現していくことです。そのなかで起こった思想とコスモロジーをめぐる葛藤・闘争を、丹念に発掘していくことです。その実績の積み重ねとそこでえられた方法面での錬磨を踏まえながら、個別具体的な思想像をつなげて、少しずつ大きなものを作り上げていくことです。
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単行本p.195
思想史の全体像や歴史発展の図式をまとめる「大きな理論」。それを否定し脱構築する研究だけでよいのだろうか。起請文の読み解きからはじまった旅が見据えている先を熱く語ります。
私がここで扱うのは、だれもが思いつく親鸞や道元といった著名な思想家のテキストではありません。本覚思想や神道思想に関わる体系的な著作でもありません。日記などのまとまった文学史料でも、文学作品ですらありません。それは起請文とよばれるたった一枚の、およそ思想など読み取れそうもない古文書です。私はこの一通の文書から、かつてこの列島にいた人々の内面世界を再構成するという試みに挑戦したいと考えているのです。
(中略)
起請文はその作成にあたって、参加者の前で読み上げられることが重要な手続きだったのであり、その影響は文字に縁のない社会の底辺の人々にまで及んでいたのです。
起請文がそうした性格を有するものであったとすれば、身分や階層や地域を超えて広く同時代人に共有されたという点において、この右に出るものは存在しません。私が中世人のコスモロジーを解明しようとするにあたって、起請文に注目する理由はまさしくここにあるのです。
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単行本p.13、20
「私はこれこれを誓う。この誓いが真実である証として、もし破ったら神仏による罰を受けると宣言する」
日本の中世において盛んに作成された起請文。そこに「誓いを破ったものに罰を与える存在」としてリストアップされた存在とその席次を詳しく調べることで、中世において広く共有されていた神仏などを含む世界観、コスモロジーを明らかにすることが出来るのではないか。起請文という意外な資料から日本の思想史を読み解いてゆく興奮の一冊。単行本(講談社)出版は2006年4月、Kindle版配信は2015年7月です。
[目次]
序章 方法としての起請文
第1章 起請文を読む
第2章 神と死霊のあいだ
第3章 垂迹する仏たち
第4章 神を拒否する人々
終章 パラダイムに挑む
序章 方法としての起請文
――――
私たちの価値観やものの見方が通用しない領域が存在するのは、なにもはるかな異国の地だけに限ったことではありません。この同じ列島上においても、時間を遡っていったときに、現代人の常識では推し量ることのできない世界が忽然と目の前に現れてくるのです。
私はこれまで研究者として、そうした世界をいくたびも垣間見てきました。現代に生きる私は、その異様なありさまに繰り返し強い衝撃を受けました。そしていつのころからか、一部の研究者だけが特権的に目にすることのできるこの異界の風景を、できる限り多くの方々にもみていただきたい、この驚きを皆さんと分かち合いたい、という思いを抱くようになりました。
――――
単行本p.6
中世において、思想家や宗教家だけでなく、庶民にまで広く共有されていた世界観を読み解くにはどうすればいいか。そのための具体的な方法として起請文に注目したわけを解説します。
第1章 起請文を読む
――――
それぞれの起請文においてどういった神仏が勧請され、どの神仏が勧請されなかったのでしょうか。起請文に名を連ねるものたちは、どのような理由で選ばれることになったのでしょうか。――神仏の序列と同じく、この点にも、中世人が神仏に抱いていたあるイメージが反映されているように思われるのです。
起請文に登場する神仏の名前とその席次に、当時の人々が神仏の世界に対してもっていた共通のイメージを読み取ることはできないか――私たちは、この素朴な疑問を胸に抱いて、まずは神文の神仏のリストを洗い直すことから作業を開始することにしましょう。
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単行本p.28
起請文で挙げられる神仏リストには、常連というべき名前があるいっぽうで、まず登場しない名前もある。名前の挙げられる順番、つまり席次にも大きな意味がある。起請文に登場する神仏などのリストから何が読み取れるのかを解説します。
「天照大神は嘘をつく神だから、正直を旨とする起請文に勧請するのはふさわしくない。――こうした認識が、室町時代には一定の知識人のあいだで共有されていた」(単行本p.31)など意外な事実も。
第2章 神と死霊のあいだ
――――
梵天や閻魔や大仏が起請文に登場することについては、私でなくとも違和感を覚える方は多いのではないかと思います。違和感とまではいわなくとも、なんらかの説明は必要でしょう。その一方で、そこに日本の神々が勧請されるのはごく当然だという感覚をもつのも、私だけではないような気がします。
しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。日本の神々が「罰」を下すことを期待して起請文に勧請されるのは、それほど当たり前のことなのでしょうか。
じつは違うのです。日本の神々の果たす機能を「罰」という言葉で表現するようになるのは、起請文の成立からそれほど遡った時代ではなかったのです。さらにいえば、日本の神々は、元来起請文に勧請されるような生やさしい存在ではなかったのです。
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単行本p.65
日本における神のイメージの変遷。そして、御霊、死霊、モノノケ、疫神。中世日本で広く共有されていた超自然的存在のイメージや位置づけ、その変遷を、起請文から読み解いてゆきます。
第3章 垂迹する仏たち
――――
中世的コスモロジーの中心的位置を占めていたのは、「あの世の仏」と「この世の神仏」という二種類の超越者=〈神〉でした。所在地も役割も異なるこれら二つのグループを、中世人はどのような関係をもつものとして理解していたのでしょうか。もっと具体的にいえば、当時の人々が彼岸の極楽浄土の阿弥陀仏と、宇治の平等院鳳凰堂に鎮座する定朝作の阿弥陀仏像とを、いかなる関係性をもつものとして把握していたのかという問題です。
私のみるところによれば、その二者を結ぶものが本地―垂迹の論理でした。
――――
単行本p.117
起請文をベースに読み解いていった中世のコスモロジー。それをもとにして、本地垂迹、神仏習合の意味を再考してゆきます。
第4章 神を拒否する人々
――――
法然や親鸞の思想のラディカルさは、時代のコスモロジーそのものに正面から挑み、その改変を試みたことにありました。神祇不拝などをめぐる専修念仏と伝統仏教との対立は、まさにコスモロジーを奪い合う闘争だったのです。それは単なる机上の教義論争ではありませんでした。現実の矛盾を深く見据えながら、宗教者としての自己の全存在を賭して主体的に時代のコスモロジーを読み替えていこうとする、壮大な知的冒険にほかならなかったのです。
――――
単行本p.179
神祇不拝。親鸞の言葉にみられる「過激さ」を、コスモロジーそのものを読み替えようとする思想闘争、という視点から読み解いてゆきます。
終章 パラダイムに挑む
――――
単に既存の思想像を脱構築するだけでなく、なんらかの方法によって、過去の人々の息遣いが聞こえるような形でその精神世界を再現することはできないものだろうか。それは、従来のものに代わるグランド・セオリーを作り上げることによってはなしえません。私にそのような能力はありませんし、個別研究がこれだけ細分化・深化した現状ではそれはまして困難です。
それでは、どうすればいいのか。私たちにとっても可能な道筋は、まずはこの地球上の一つの地域に焦点をあわせて、ある時期そこに実在した小さな思想世界をできるだけ忠実に、リアルに再現していくことです。そのなかで起こった思想とコスモロジーをめぐる葛藤・闘争を、丹念に発掘していくことです。その実績の積み重ねとそこでえられた方法面での錬磨を踏まえながら、個別具体的な思想像をつなげて、少しずつ大きなものを作り上げていくことです。
――――
単行本p.195
思想史の全体像や歴史発展の図式をまとめる「大きな理論」。それを否定し脱構築する研究だけでよいのだろうか。起請文の読み解きからはじまった旅が見据えている先を熱く語ります。
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