『会いに行って――静流藤娘紀行(第三回)』(笙野頼子)(『群像』2019年9月号掲載) [読書(小説・詩)]
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私小説とは自己だ。特権的自我を自らの言語能力で宮中から奪還し、陋屋に祭る、オオカミ神である(うちのは猫神)。
師匠はけしてこの特権的自我が手に入るその特権階級の地位が欲しかったわけではなく、ただ志賀さんの書く夢の描写のような凄い文章に魅せられただけだ。
(中略)
夢にも負けないほどソリッドな描法を装備した志賀直哉の文章に、若い頃から師匠はついていった、習練し正直に極めてから、違う様態の自我と向き合い、藍よりも青くなった。
天皇も、戦争も、論理だった実利的な克服方法は、けして有効ではないと師匠は思っていたのか? それとも文学なんだから搦手から攻めるのが正しいと思っていたのだろうか。どっちにしろ剛直の師匠に逆張りはない。
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『群像』2019年9月号p.265、266
シリーズ“笙野頼子を読む!”第127回。
「必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分。千の断片としての自分。」(『群像』2019年9月号p.266)
群像新人賞に選んでくれた恩人であり、また師と仰ぐ「私小説」の書き手、藤枝静男。渾身の師匠説連載その第三回。
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天皇という捕獲装置を挟んでケンカをした、志賀直哉、中野重治。
それは所有に基づく特権的自我の個人主義=志賀直哉と無私を目指す国家対抗的な自我=中野重治とのあり方の違いである。
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『群像』2019年9月号p.244
いよいよ『志賀直哉・天皇・中野重治』に入ってゆく連載第三回です。その前に、まずは前回(第二回)の予告を振り返っておきましょう。
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次回も書くけれど、ここにまず書いておく。志賀は特権階級で天皇に親しく、既にそこに捕獲されてしまっているのである。なので制度と知り合いを分ける事が出来ない。一方中野は人間と制度をきちんと分けている。しかし分ける事によって、人間をその行為ではなく人間性によって判断するという、文学としてもっとも適切な行為を禁じられてしまったのである。これもまた政治に捕獲されてしまった。
噫、平野も師匠も本多も好きな、大切な志賀さんと大好きな中野、それをなんという悲しい分断であろう。
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『群像』2019年7月号p.200
今回(第三回)はこれを受けて、『志賀直哉・天皇・中野重治』に沿うかたちで志賀直哉と中野重治、そして師匠、それぞれを読み解いてゆきます。
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どんな障壁があっても忖度せず迎合せず「正しい」事をする志賀。それは結局好きなことが出来て自分で判断が出来る、何の偏見もなく権力を批判出来る王者の特権、特権的自我。広大な土地や財産や高い地位を以て例えばヴィーガンポリコレセレブが貫く「当然の義務」その一方、……。
平等をとく彼の主人公時任謙作、そんな彼に対し中野だけではない師匠だって、刷り込まれた特権意識については何度も言っている。師匠は時任イコール志賀の立場、中野は作者と本人が違うという立場だけど。
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『群像』2019年9月号p.246
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そんな、捕獲もされず勝ち馬にも乗っていない中野の姿は自分の人間関係もすべて忘れ、公共のためになんでも批判する義務、という悲劇でしかない。批評機械中野、精一杯口悪く頑張っているよ、ねえ? 自分を殺してでも「公器」になっている。技術の快感で?
(中略)
そして公共的憎悪の器に、天才的な罵倒を盛る事も出来る。でも、そんなのいつまでもずっとしていてはいけないよ。本人はいいけど、まねしてやってる人々、その無私はいつか最悪になるから。
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『群像』2019年9月号p.243
天皇論争とは別筋ですが、中野重治による『暗夜行路』批判にからめるかたちで、評論家に対する作家としての苦言をストレートに書いた箇所も印象的です。
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まあそういうわけで結果全体を通すと、結局こんなのいくら優れた批評機械だとて、私でさえ、「ふーんこれ批判なの? なんでー・べつにー」、と思うだけである。そもそも徹底批判っていらんよ特に邪魔でもないけどあればついつい気になって見るけれど、普通、時間の無駄だ、次を書くからね、そしてどんな偉くたって別に一次生産者は自分を支えて同行してくれる以外の評論家なんか気にしないから。無論こういう作品だ、ってすーっと構造や筆致を解説してあるものは普通に役に立つし、時には尊敬だ。そもそも丁寧に読んでくれているだけでもその読みは作者が有効に使える指針。
でも自分がしてもいない事をいちいちあれもやれこれもやれて言われてもねえ、出来ないことやしたくないことを指導されたって、うるさい、というよりそれは作家にとってはゼロだ。妖怪阿霊喪夜礼、狐霊喪夜礼だ。例えば女権拡張運動(既に今のフェミニズムとは違う昔のもの)の横へ「忠義面」で来て「おい男性差別にも配慮しないとだめだろ」って「被害者面」もする寄生妖怪。
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『群像』2019年9月号p.251
こう書いた直後に「この中野はもしかしたら、好きで好きでたまらない対象を好きになってはいかんと思うような禁欲性に支配されていたのではないかと私はつい思う」(『群像』2019年9月号p.252)と駄目押しするのもすごい。
というわけで、『志賀直哉・天皇・中野重治』を読み解きながら、天皇、天皇制、師匠、自身、そして私小説について書く、師匠説にして私小説でもある連作は、次回に続きます。
私小説とは自己だ。特権的自我を自らの言語能力で宮中から奪還し、陋屋に祭る、オオカミ神である(うちのは猫神)。
師匠はけしてこの特権的自我が手に入るその特権階級の地位が欲しかったわけではなく、ただ志賀さんの書く夢の描写のような凄い文章に魅せられただけだ。
(中略)
夢にも負けないほどソリッドな描法を装備した志賀直哉の文章に、若い頃から師匠はついていった、習練し正直に極めてから、違う様態の自我と向き合い、藍よりも青くなった。
天皇も、戦争も、論理だった実利的な克服方法は、けして有効ではないと師匠は思っていたのか? それとも文学なんだから搦手から攻めるのが正しいと思っていたのだろうか。どっちにしろ剛直の師匠に逆張りはない。
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『群像』2019年9月号p.265、266
シリーズ“笙野頼子を読む!”第127回。
「必ず自分であってけして自分ではない。しかし、自分の肉体、経験と分かちがたくしてなおかつ、自分さえ知らぬあるいはもう忘れてしまった自分。千の断片としての自分。」(『群像』2019年9月号p.266)
群像新人賞に選んでくれた恩人であり、また師と仰ぐ「私小説」の書き手、藤枝静男。渾身の師匠説連載その第三回。
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天皇という捕獲装置を挟んでケンカをした、志賀直哉、中野重治。
それは所有に基づく特権的自我の個人主義=志賀直哉と無私を目指す国家対抗的な自我=中野重治とのあり方の違いである。
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『群像』2019年9月号p.244
いよいよ『志賀直哉・天皇・中野重治』に入ってゆく連載第三回です。その前に、まずは前回(第二回)の予告を振り返っておきましょう。
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次回も書くけれど、ここにまず書いておく。志賀は特権階級で天皇に親しく、既にそこに捕獲されてしまっているのである。なので制度と知り合いを分ける事が出来ない。一方中野は人間と制度をきちんと分けている。しかし分ける事によって、人間をその行為ではなく人間性によって判断するという、文学としてもっとも適切な行為を禁じられてしまったのである。これもまた政治に捕獲されてしまった。
噫、平野も師匠も本多も好きな、大切な志賀さんと大好きな中野、それをなんという悲しい分断であろう。
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『群像』2019年7月号p.200
今回(第三回)はこれを受けて、『志賀直哉・天皇・中野重治』に沿うかたちで志賀直哉と中野重治、そして師匠、それぞれを読み解いてゆきます。
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どんな障壁があっても忖度せず迎合せず「正しい」事をする志賀。それは結局好きなことが出来て自分で判断が出来る、何の偏見もなく権力を批判出来る王者の特権、特権的自我。広大な土地や財産や高い地位を以て例えばヴィーガンポリコレセレブが貫く「当然の義務」その一方、……。
平等をとく彼の主人公時任謙作、そんな彼に対し中野だけではない師匠だって、刷り込まれた特権意識については何度も言っている。師匠は時任イコール志賀の立場、中野は作者と本人が違うという立場だけど。
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『群像』2019年9月号p.246
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そんな、捕獲もされず勝ち馬にも乗っていない中野の姿は自分の人間関係もすべて忘れ、公共のためになんでも批判する義務、という悲劇でしかない。批評機械中野、精一杯口悪く頑張っているよ、ねえ? 自分を殺してでも「公器」になっている。技術の快感で?
(中略)
そして公共的憎悪の器に、天才的な罵倒を盛る事も出来る。でも、そんなのいつまでもずっとしていてはいけないよ。本人はいいけど、まねしてやってる人々、その無私はいつか最悪になるから。
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『群像』2019年9月号p.243
天皇論争とは別筋ですが、中野重治による『暗夜行路』批判にからめるかたちで、評論家に対する作家としての苦言をストレートに書いた箇所も印象的です。
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まあそういうわけで結果全体を通すと、結局こんなのいくら優れた批評機械だとて、私でさえ、「ふーんこれ批判なの? なんでー・べつにー」、と思うだけである。そもそも徹底批判っていらんよ特に邪魔でもないけどあればついつい気になって見るけれど、普通、時間の無駄だ、次を書くからね、そしてどんな偉くたって別に一次生産者は自分を支えて同行してくれる以外の評論家なんか気にしないから。無論こういう作品だ、ってすーっと構造や筆致を解説してあるものは普通に役に立つし、時には尊敬だ。そもそも丁寧に読んでくれているだけでもその読みは作者が有効に使える指針。
でも自分がしてもいない事をいちいちあれもやれこれもやれて言われてもねえ、出来ないことやしたくないことを指導されたって、うるさい、というよりそれは作家にとってはゼロだ。妖怪阿霊喪夜礼、狐霊喪夜礼だ。例えば女権拡張運動(既に今のフェミニズムとは違う昔のもの)の横へ「忠義面」で来て「おい男性差別にも配慮しないとだめだろ」って「被害者面」もする寄生妖怪。
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『群像』2019年9月号p.251
こう書いた直後に「この中野はもしかしたら、好きで好きでたまらない対象を好きになってはいかんと思うような禁欲性に支配されていたのではないかと私はつい思う」(『群像』2019年9月号p.252)と駄目押しするのもすごい。
というわけで、『志賀直哉・天皇・中野重治』を読み解きながら、天皇、天皇制、師匠、自身、そして私小説について書く、師匠説にして私小説でもある連作は、次回に続きます。
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