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『会いに行って――静流藤娘紀行』(笙野頼子)(『群像』2019年5月号掲載) [読書(小説・詩)]

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 どんな事も恐れずに師匠は、私小説に書いてきた。「自画像」を書くのなら「醜く」書くという決意のまま、要するに恐るべき私小説の書き手として進んだのだ。おそらくはその必然としていつしか、この「私小説」を書くようになった。しかもそのどちらも彼にとっては一続きのゆるぎない文の世界であって、自然な行為だった。彼は技術や経験の蓄積に伴って疑うべきものを疑い、その技術を武器に自分の疑いの範囲を広げたのだ。
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『群像』2019年5月号p.127


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第125回。


「私はこれから私の「私小説」を書いてみたいと思う、もとい、私の師匠についての、師匠説を書いてみたい」「師匠について判っていないという事をこそ、もがきながら書く」(『群像』2019年5月号p.124)
 群像新人賞に選んでくれた恩人であり、また師と仰ぐ「私小説」の書き手、藤枝静男。渾身の師匠説ついに連作開始。


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 3 これを書く時間があればいいのだが、藤枝静男氏について、『幽界森娘異聞』のような大リスペクトセッションをささやかに書きたい。藤枝静男論というのは力が及ばないから。七十過ぎて老人の体になってから書こうと思っていた。しかしあるいは私の老化、人より早いかも。
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『金毘羅』電子版後書き「深海族よ永遠に」より
Kindle版No.4364


 『金毘羅』電子版の後書きで「死ぬまでにやっておくべきこと」として「神変理層夢経」や「ひょうすべ」と並んで挙げられていたのが、藤枝静男版『幽界森娘異聞』でした。だいにっほん三部作のなかでも、作中人物たる「笙野頼子」が書いていた作品です。執念、というか強い責任感がうかがえます。


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 この男から命ぜられたものの他に笙野が書きたいのは藤枝静男論である。が、男は異様に恩着せがましく日本の論畜の歴史について早くやれと言って他を禁じてくる。パソコンに向かって、笙野は気兼ねしつつ、隠しながら少しは藤枝論も書こうとする。
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『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』単行本p.155


 それが、ついに、実際に連載が開始されました。私たちが今、だいにっほんにいるからかも知れません。


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 文というものは両刃の剣どころか、切っ先が絶えず、こっちに向かって突っかかってくる妖刀のようだ。というか刃物に囲まれて書いている感覚なら私さえもあるけど。師匠はいつも自分の眼球に向かって刃物を突きつけている。慣れた近くから初めて世間や西洋が当然だと思うものを取り払って進んでいく。一回一回勝負。
 しかしそうして出てきた「でたらめ」、『田紳有楽』はまさに現実そのものである。
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『群像』2019年5月号p.143


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 師匠にとってある種の現実は偏見でしかない。この偏見を取り払うのに座標軸を消す。遠近をなくす、それはまた文章で描く定型的な私を疑うことだ。
 彼は構造を苦しみと感じ、遠近や線のような時間を拒否する体で自分の体から湧いてくる性欲の構造化を厭い、買春には適応出来なかった。ただ芸術を通じて事物の本質に触れるときに、苦しいフレームを抜けて幸福になり、その刺激を受けて執筆した。
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『群像』2019年5月号p.136


 「師匠、この池はこれから百年後もその底を探られます」(『群像』2019年5月号p.148)

 切々と思い詰めるような声、疾走感と高揚感を伴う声、覚悟と強い意志がにじむ声、さまざまな声を駆使して、自らの資質とも比較しながら、藤枝静男とその作品について底を探ってゆきます。もちろん単純な評伝ではなく、藤枝静男の娘さん(タイトルにある「藤娘」は彼女のこと。ですが、もしかしたら、ご自身のことでもあるのかも)に会ったときのこと、師匠への語りかけなど、複数の流れが配置されてゆきます。


 原点に戻ったような気持ち。藤枝静男が、書き手について名前も年齢も性別もなにひとつ知らされないまま『極楽』という一篇を評した言葉、それから四半世紀後に笙野頼子さんが師匠への敬意と感謝を込めて書いた言葉、を思い出して。


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こういう形の具体性をそなえた純観念小説は現今稀である。その意味で作者は大変苦労しただろうが、また真面目な寧ろ純私小説だと思った。
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1981年群像新人文学賞選評「『極楽』を推す」(藤枝静男)より


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受賞後十年、苦しかった。家族の愛情や、彼に選ばれた事が私を支えた。
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「たいせつな本・上 藤枝静男『田紳有楽』」より
2007年2月25日「朝日新聞」朝刊


 個人的な話で恐縮なのですが、上の記事が掲載されたのと同時期に、私ははじめて笙野頼子さんの文章を読み、そしてぶっとんだのです。


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まあどっちにしろ文章には出会うしかありません。ひとりの人とひとつの文章が会うか合わないかにはその人の心身のすべてが掛かっているかもしれない。
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『群像』2019年5月号p.146



タグ:笙野頼子
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