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『誰でもない』(ファン・ジョンウン、斎藤真理子:翻訳) [読書(小説・詩)]

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 ファン・ジョンウンの狩りは激烈で切実だが、リリシズムとユーモアの補給線が途切れることはない。彼女は、人々の物語が湯気をたて、血をしたたらせている瞬間をねらい、暴力ののっぴきならなさと喪失の大きさを、一撃でしとめる。彼女の筆は仮借ない。しかしこの仮借ない作家が隣国にいてくれることは、私を心強くさせる。彼女の小説を読むことは、微細な暴力の粒子が溶け込んだこの世界、日常とディストピアが地続きになった今を歩き続けるために必要なエネルギーを私たちに与えてくれる。
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単行本p.253


 途方もないストレスを抱え、容赦なく他人を踏みつけることでかろうじて生きている人々。苛烈な格差社会のなかで、誰でもないものとして扱われ、ささいなことで互いに傷つけあい憎しみ合いながら生きる他はない私たちの姿を、切り裂くようなリアリティと激しいまでの詩情をこめて描く短篇集。単行本(晶文社)出版は2018年1月です。


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「誰でもない」人々の現実は、まぎれもなく二十一世紀の韓国のものだ。だが、人物の名前などは無国籍風で、ときには性別も判然とせず、具体的な地名もあまり出てこない。彼女の作品世界は韓国に根ざしながらも、同時に全方向に向かって開かれており、世界のどこにでも通じる、ときに古典のような趣を感じる。(中略)このような普遍性をたたえた彼女の小説が今後、日本だけでなく、世界の「誰でもない」人々のもとに届くであろうことを信じる。
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単行本p.252、253


 ますます格差が広がりつつある社会。その下層のあたりで、這い上がる手段も希望も奪われ、互いに足を引っ張り憎みあいながら、ただただ搾取され続ける人々の苦しみ、怒り、絶望、そしてかすかな希望。現代に書かれた多くの小説が扱っている、いわばありふれたテーマですが、しかし本書に収録された作品は格別です。傑作としか言いようがないものばかりで、その出来栄えはもう衝撃的。一つ一つの作品が、心を切り裂いてきます。

 見ないように、想像しないように、心に刺さらないように、注意深く目をそらしていた現実に容赦なく向き合わされる瞬間が次々と訪れます。しかし、なぜか、読後感は意外に暗くなく、むしろ不思議な「肝の据わった」ような感触が残る話が並びます。ハズレも凡作も一つもない、とてつもない短篇集。とにかく何がなんでも読んでほしい一冊です。


[収録作品]

『上京』
『ヤンの未来』
『上流には猛禽類』
『ミョンシル』
『誰が』
『誰も行ったことがない』
『笑う男』
『わらわい』


『上京』
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誰かが私の腕をとんとんたたいた。老婦人が私の顔をしっかりと見て、言った。
 泊まってけ。
 ごはん、やるから。
 誰か助けてと思って見回したが、オジェもオジェのお母さんも荷物の確認で忙しい。何と答えたらいいのかわからず立ちすくんだあげく、つぎに来たとき泊まりますと言った。幾重にも重なって渦巻きになっためがねの中で、老婦人の目が悲しそうに歪んだ。
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単行本p.40

 知り合いの家族といっしょに、田舎に唐辛子摘みに出かけた語り手。特に何か事件が起きるわけでもなく、なにげない描写の積み重ねが、見捨てられた田舎とそこで生きる他ない人々の現実を、少しずつ浮き彫りにしてゆく。


『ヤンの未来』
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 何をしたかって私に訊かないで。誰も私にかまわないのに、なんで私が人のことにかまわなくちゃいけないの? チンジュね、おばさんの娘、あの子がいったい誰だっていうの? 誰でもないのよ。私にとっては、誰でもないの。
 そんなことはひとことも言えないまま私が彼女を見おろして口をつぐんでいるあいだ、セミが鳴いていた。ひぐらしのシルルルルルルという声だけが聞こえた。降り注ぐ陽差しのせいで、首筋が熱かった。
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単行本p.71

 深夜、娘が殺された。コネも金もない若い娘が殺されたくらいで警察はろくに捜査もしない。最後に被害者を目撃した語り手は、あのとき通報しなかったことを後悔し続けている。そして被害者の年老いた母親が現場に毎日やってきて、祈り続ける。無言で責められているようでいたたまれない。忙しかった、ひたすら疲れていた、こづき回され踏みつけられ人として扱われない生活のなかで、他人のこと見て見ぬふりをしても仕方ないじゃないの。でもそんなこと言えない。言えるはずがない。引きちぎられるような苦しみ。そして男の上司が、すごーく気軽に、語り手に命じる。営業妨害だからあの母親に出てゆくように告げろ、と。
若い女性が社会からどのように扱われているかを静かに告発する強力な作品。


『上流には猛禽類』
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こういうところに来たらこんな水ぎわでごはんを食べるものだよと、元気いっぱいの表情で食べ物を渡し、ことばをかけてくれていたチェヒの両親も、だんだん口数が減っていった。チェヒはほとんど食べなかった。顔がまっ青で、お母さんがおにぎりを差し出して早くお食べと言うのに、何ともいいようのない表情で両親を見つめており、そんな彼の表情を見ていると私は心が痛んだ。それは何て変な光景だったことか。妙な場所に陣取ってごはんを食べている老夫婦と、そのかたわらで憂鬱そうに彼らを見守っている若い男、そして彼らから離れて座っている女。
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単行本p.99

 恋人の家族といっしょにピクニックに出かけた語り手。いつかこの家族の一員になるのだと信じていたが、小さな出来事の積み重なりが、溝の深さを次第にあらわにしてゆく。家族のなかにあってもひとりひとり孤独で、その現実から目をそむけようとする人々、厳しい歴史のなかで傷つけられた人々の姿を、陰鬱なユーモアをこめて描いた作品。


『ミョンシル』
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 こうやって座ったまま、あと何度の冬を迎えることになるのだろう。そして何度の春と何度の夏を。彼女は考える。死んだあともシリーに会えるという思いが、なんて手におえない想像であるかを。なんて手に余る、空しい思いであるかを。そして空しいながらにそれは、なんて美しかったろう。それが必要だった。すべてのものが消えてゆくこのときに。暗闇を水平線で分ける明かりのようなもの、それがあそこにあるという、しるしのようなものが。
 その、美しいものが必要だった。
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単行本p.130

 もう寿命も尽きようとしているとき、亡くなった恋人のことを考え続ける老婦人。二度と会えないと分かっていながら待ち続けることの、何という空しさ、そして美しさ。彼女は書き始める。すべてが消えてゆくこのときに。圧倒的な感動をもたらすラブストーリー。


『誰が』
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 私、お金ないもん。やんなっちゃうけど、いまお金ないし、ひょっとすると永遠にないんだもん。だからまあ、手段がないのよ私には。私の未来なんてあっさりあのじいさんみたいに……なるはず。そんな予感がするし、予知もできるぐらいだわ、そんなときにあんたらみたいな人間に苦しめられてさ……あんたらみたいなお隣さんに悩まされてさ……そうやってずーっと……生きてくんだ。あんたら、自分は違うと思ってんでしょ? 違うと思ってるし、実際違ってる感じがするんでしょ? だけどねあんたらと私、何も違わないんだよ、完全にいっしょだよ、おたがいがおたがいのお客さまなのさ、そうやって苦しめ合うのさ、一生、百パーセントのお客さまなんかでいられないくせに。こういうの私、嫌でしょうがないのよ、なのにあんたらにはこれがぜーんぶ冗談みたいで、あたしだけが狂ってると思って、おかしいんでしょ? 笑いな、おかしいなら笑ってな。おかしかったら笑えばいい、ずーっと笑ってたらいいわ、ずーっと笑ってな、もっともっと、笑ってみな。
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単行本p.156

 社会階層を昇る手段もなく、ただ搾取され踏まれる毎日。安アパートの隣人との間で、通勤の駅で、職場で、どこでも軽んじられ、ストレスをぶつけられる女性。自分たちは頭おかしいおばさんとは違うし人生の成功は約束されていると信じて、ノリで嫌がらせをしてくる若い娘たち。どうせすぐ同じ境遇になるのに。社会の仕組みがそういう風になっているのに。たまりゆくストレスに堪え続け、毎日が限界ぎりぎりで生きる女性の姿を苦々しいユーモアも込めて切実に描いた作品。


『誰も行ったことがない』
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 彼は急に口をつぐんで振り向き、彼女を見た。彼女が悲しそうな顔で彼を見ていた。彼はまた怒りがこみあげてきて、首を横に振った。あの顔。うんざりだと言うかわりに、そんなに見るなと彼は言った。そんなふうに見るな。人を観察しないでくれよ。何も悪いことをしてないのに殴られたみたいな目で。
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単行本p.184

 かつて子どもを事故で失った老夫婦。そばにいたのに気づかなかった夫は、そのことで負い目を感じつつ、いつまでも無言で責めるような妻の態度に腹もたてている。それからずっと関係がぎくしゃくしている彼らが、海外旅行に出かける。だが、旅先で知らされたのは、韓国が通貨危機によって事実上の経済破綻をしたというニュース。子ども、未来、そして今や帰るべき祖国まで喪失した二人。喪失感とともに旅を続ける老夫婦に、さらなる危機が訪れる。


『笑う男』
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 長いあいだ、僕はそのことについて考えてきた。
 考えて、考えて、なんとかして最後には理解したいと思って、僕はこの部屋にとどまっている。ずっと前、この部屋の外で僕の背中をたたき、僕を理解できると言った人がいるのだが、それが誰だったかわからない。その人の名も、どうやって出会ったのかも、その人が僕にとって大切な人だったかそうでなかったか、男だったか女だったかさえ思いだせない。夜だったということははっきりしている。私はあなたを理解できる。まっ暗なところでそのことばを聞いた瞬間、僕はえっと驚いた。この人が理解できるという僕を、僕はなぜ理解できないのかと。
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単行本p.189

 過去にあった出来事のせいで、世捨て人同然の生活を続けている男。自分はあのとき、なぜそうしたのか。あるいはなぜそうしなかったのか。ひたすら自問自答する毎日。祖父、父、恋人、男が抱えるトラウマに関係する人々のエピソードを積み重ね、個人とそして社会が抱えている絶望と希望を描き出す作品。


『わらわい』
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 ……笑ってますね。画面の中で私が笑ってるわ。あの口見てごらんなさい、あれはわらわいですね、見えます? なんであんなに笑うんだろ……狂ってるわけでもないのに。狂った女は笑うね、私がいままでに目撃した狂った女はみんな笑っていましたよ。ところでさ、なんで人間は狂うと笑うんでしょ。答えてみてよ。いったいぜんたいどうして笑うのかしら、狂ったら。泣く方が当然よね、狂ってるんだから。狂ったら怖くなるはずでしょ。狂うということは、殻がすっかり壊れてしまって、中身がむき出しになってしまうことで、中身がむき出しになった人間は怖いでしょうからね何もかもが。世の中は角と尖端でいっぱいなんだから。世の中はこんなに、とんがったものや角ばったものだらけなんだから、怖いものだらけなんだから、泣くべきでしょ、怖かったらさ。なのにどうして笑うんだろ、狂った女は。
 あなたはどんなふうに笑いますか。
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単行本p.241

 理不尽なクレーマー、同僚から向けられる憎悪と敵意、理不尽な謝罪、ぱっとしない客のみみっちい自尊心を満たすためのドゲザ(とてもべんりな日本語)、そして笑顔。何をされても言われても、笑顔を忘れないように、笑顔を絶やさずに。デパートの寝具売り場で接客業をつとめる女性が、自尊心も尊厳も奪われ、激しいストレスのために笑顔が止められなくなってしまう。コネも金もない人々が就くしかない過酷な感情労働、その果てに常軌を逸してゆく女性をサイコホラー風に描いた強烈な作品。



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