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『S坂』(森尻理恵) [読書(小説・詩)]

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 S坂を上がって地震研に通ったのはもう二十年も前の話である。その後、地震研を訪ねる機会は殆どなくなった。同級生の多くは地球科学をやめて、違う職種へ就職していったし、当時お世話になった東大の人たちも他の研究機関へ移ったりして散り散りになってしまった。
 学生時代のようにS坂を上がって行くと、地震研の古い壁と根津神社の緑はそのままで、ふと甘酸っぱい思いがよみがえってくる。昔の学生もきっと同じように、ある時は将来に悩みながら、ある時は友人と談笑しながら、この坂を上がっていったのだろう。
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単行本p.176


 S坂をのぼって東大地震研に通った日々。理系研究者の生活実感をしみじみやるせなく描いた研究者歌集。単行本(本阿弥書店)出版は2008年11月です。


 まず、東大地震研の様子が臨場感たっぷりに描かれているのに驚きました。個人的に、地震研と道路ひとつ隔てた東大工学部で実験に明け暮れた時期があるため、懐かしいというか何というか、どこでも同じやなあというか。


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根津駅から全ての角を左折する地震研までは足が覚えいし
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地下室へ長い階段降りてゆくぱたんぱたんと足音響かせ
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実験棟はいつでも何か回りいるどの部屋からもモーター音漏る
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足裏に長周期振動感じたり 隣の分析器動きいるらし
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測定器の前にどっかり腰おろし液晶パネルの数値を睨む
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 あれから数十年。ふと出会った歌集に、隣の敷地で同じように黙々と実験していた人がその体験をうたった作品が載っているのを発見するという不思議。


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今日一日このサンプルと過ごしおり熱磁化曲線描くを見つつ
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都合悪き値は赤で囲みおく どう扱うかはあとから決めむ
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気力そろそろ萎えて来たりき磁力計に今日六百回目のサンプルセットす
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蛇紋岩の磁性がわかってその先は何が出来るかと問いただされし
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わが論の不備を指摘し勝ち誇る男の細き指先を見る
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 研究所の地下でひたすら実験を続けるのもつらい生活ですが、屋外調査もそれはそれで楽ではありません。


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道端にしゃがみこんでは重力を測り測りぬ二百点ほど
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「何ですか」と聞かれたときに言うせりふ「国の仕事で地盤の調査」
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携帯電話の圏外表示が続く山 何も起こらず無事に抜けたし
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注意力がわれからぼろぼろ抜けていく運転と測定十時間続けて
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 地味な研究生活がいつか報われる日が来るかというと、別にそういうこともなく。


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これからは起業につながる研究に予算を回すと役人は言う
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予算とる才覚なければ頭下げ実験装置を借り歩くまで
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稼働率とランニングコストのバランスの狭間にわれはラボジプシーなり
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博士一人を育てるために注がるる国家予算の額を思えり
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たった二年雇われるために博士らが日本中から集まりて来る
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実験のことだけ気にするシンプルな幸福感あり忘れたくなし
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 同じ研究者仲間と一緒に働くのが楽しいというわけでもなく。


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にこやかに話しかけくるる人の目の奥にてわれは値踏みされおり
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必要なことだけ話す出張中 余所者はいつでも警戒されおり
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謝って欲しいんじゃないのにマニュアルの通りに頭を下げられている
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異動希望出してしまえばすっきりと腹痛も頭痛も治る気がする
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死ぬくらいなら道を替えても良かったなど正論なれど気易く言うな
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研究者の旬の季節は短しと過ぎてようやく理解しはじむ
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 やがて歳をとり、いつまでも研究生活を続けるわけにもいかず。


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苦しみて十年が過ぎ諦めてもう十年が過ぐ いま折り返し
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ぐずぐずと煮すぎた豆腐の角のよう昇格審査の辞退を決めたり
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夕焼けを帰りの電車の窓に見る かつて描きし未来は忘れた
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それじゃまたと別れてそれぞれの宿へ行く仕事のあとはひとりになりたい
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私もまだ公務員なれば世間ではいい気な人種と思われていむ
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「お疲れですね」と言って欲しくて五千円払い私はマッサージ受ける
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未来など描きしことも忘れたりあと十分でまた明日になる
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 そして、時の流れをしみじみと実感させる作品に涙することに。


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消息の途切れし幾人ふと思う 庭の辛夷の実が赤くなる
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残暑見舞いを出さずに九月も終わりゆく 忙しかったと今頃気づく
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 母親として子の成長をよんだ作品なども数多く含まれているのですが、もう個人的に、理系研究者の実感がこもった歌にノックアウトされてしまったので、そういう作品ばかり引用してしまいました。



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