『生の肯定』(町田康) [読書(小説・詩)]
――――
あのとき余は、生きよう、と思った。死に向かうのではなく、生の方へ向かおうと思った。
もっと言うと、貪欲に生きよう、と思った。
そう。これまで余は超然たらんとするあまり、ひとが天然自然に抱く欲望を意図して遠ざけていた。虚無的な冷笑主義に陥っていた。
(中略)
しかしこれからは違う。いろんな人と触れ合い、いろんなことを自然に受け止め、心と心。真心。そうしたものを大事に生きていく。
蓋し超然とは人間拒絶主義であった。それは虚無と絶望を産み、人を死の方へ向かわせる。事実、余は何度も死のうとした。
しかし繰り返し言おう。
余は生の方へ向かう。グリーンアスパラガスを塩茹でにして食べる。食べよう。
――――
単行本p.8、9
シリーズ“町田康を読む!”第62回。
町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、『東京飄然』、『どつぼ超然』、『この世のメドレー』に続く大河余小説完結編。単行本(毎日新聞出版)出版は2017年12月です。
最近の小説はダザイ不足で物足りないとおっしゃる読者に向けて放たれた、文学とパンクロックが炸裂する抱腹絶倒の余小説。本当に完結したのか。いいのか。
『東京飄然』あらすじ
飄然たる生き方を目指して旅に出た余は、大阪梅田の「串カツ自分だけ一本少なかった事件」に打ちのめされ、世を拗ねてしまうのであった。
『どつぼ超然』あらすじ
心機一転、東京から熱海に引っ越し、「もはや余が目指すのは飄然ではない。“超然”である」と宣言した余は、熱海の町をひたすら放浪し、あまりに超然からほど遠い様に絶望するのであった。
『この世のメドレー』あらすじ
悟りを開いて超然者となった余。来る日も来る日もチキンラーメンや握り飯ばかり食していたところ、小癪な若造が尋ねて来たので一緒に熱海の町に飯を喰いに。帰りにふと沖縄に飛び、なりゆきでロックバンドを結成してデビューコンサートへ。そして「余は超然者などではなかった。余はただの世を拗ねたおつさんだ」と悟るのであった。
『生の肯定』あらすじ
自分がただの世を拗ねたおつさんだったと悟った余は、これからは生を肯定して生きようと決意する。具体的に云うとグリーンアスパラガスを塩茹でにして食べる。スーパービュー踊り子号に乗る。だが脳内参議院議員の狗井真一との出会いにより、余は超然者どころか、自然、そのものであることを悟り、神と対峙するのだった。自然主義文学大河余小説、堂々の完結編。
2009年03月16日の日記
『東京飄然』
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2009-03-16
2010年10月19日の日記
『どつぼ超然』
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2010-10-19
2012年07月31日の日記
『この世のメドレー』
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-07-31
というわけで、まずは前作のおさらいから。
――――
そも余の生の肯定は超然の蹉跌より始まった。
絶海の孤島。そして沖縄。余は日本国中を経巡って、深く思索した。その深さは人間の精神の限界を遥かに超えていた。
そして余は生死を超越し、この世の終わりと始まりを目撃した。
そしてひとつのことがわかった。
それは余がただのアホである、ということであった。普通の人間であればその時点で絶望して考えるのをやめ、ダラダラした人生を送ることだろう。しかし、余は諦めなかった。諦めないでなお思索した。
そして得た結論が、生の肯定、である。
――――
単行本p.96
生を肯定する。それはどういうことか。
――――
しかし、余はなぜ、そんな恥ずかしい、自慢たらたらの文章を書いた/書く、のだろうか。
それは、それこそが生の方向である、ということに気がついたからだ。
もちろんいまもみたように、この、全行これ自慢、という文章は誰が見ても恥ずかしい。じゃあ、その恥ずかしい部分を改めてどうなるだろうか。まったく恥ずかしくない文章になるだろうか。恥ずかしくない生き方ができるだろうか。
余はできないと思う。なぜなら人間という生き物の根底にそうした恥ずかしいものが間違いなくあるからで、それがなくならない限り、必ず恥ずかしい言動に及んでしまう。
超然主義とは、その恥ずかしさに極限まで抗う姿勢であるが、その果てにあるのが個人としては死、世界としては滅亡しかないのは余が実地に体験した。
つまり生の方向へ向かう、ということは、この恥ずかしさを丸ごと認めること、つまり欲望の肯定なのだ。自分のなかに、自慢をしたい。他に向かって誇りたい。という気持ちがあるのであれば、これを隠そうとしたり、超然主義で無化しようとするのではなく、丸ごとこれを認める。認めて自慢する。
余はこれからはそういう生き方をしようと思ったのだ。
(中略)
つまり、為せば成る。為さねば成らぬ。そんなことを余は言いたいのかも知れない。
といった陳腐で無内容なことを恥ずかし気もなく、堂々と書く。それが欲望全開の生の肯定のパワーである。自分にはたいした識見もないのだが、識見があるように振る舞って、人から識見があるように思われたい。これは見栄、虚栄心である。そうしたものが自分のなかになければよいが、あるのであればこれを堂々と前面に押し出す。
――――
単行本p.12、17
というわけで、生を肯定すべく余はスーパービュー踊り子号に乗る。まず駅に行く。
――――
あはははは。ブラボー。踊り子号よ。そしてそれを影で操る不思議の集団よ。
ブラボー、ブラボー。あはははははは、目がもげていく。あの梨もぎの夜のことをよもやおまえは忘れたわけではあるまいな。よいとまけをやり過ぎてヨイヨイになったあの哀れな男のことも!
といった具合でなんだか昂奮しちまった余は、昂奮のあまり、無意識裡にちょっとした舞踊のようなことをしてしまったらしく、衆人が半ばは軽蔑したような、半ばは恐怖したような目で余を見ていた。いやなことだ。
――――
単行本p.75
踊り子号に乗るためには、駅の階段を昇らねばならない。その先にあるものははたして何か。
――――
そうして登り切ったところは間違いなく天国である。なんてことは讃岐の金比羅様に参った人なら誰でも知っていることなのだろうか?
という巧妙な疑問形。こんな手口に騙されてはならない。信じることと騙されること。同じことだが違うことだ。法然上人にすかされまいらされて。ということがつまり必要ということだ。
オレオレ詐欺。という。そんなものはもう旧い。これから必要になってくるのは君君詐欺だ。あんた誰ですか。君だよ。俺は君だよ。え? 君って俺なの。そうだよ。君君。君だよ。I am you. だよ。
ということになればもはや犯罪ですらない。なぜなら自分で自分に振り込むむけだからね。単なる資金移動。そして、その先に広がっているのは果てしない荒野のような天国。渺々たる神の国。天国。神の典獄。そんなものに敢えてなる覚悟。それが生を肯定するということなのだ。
そんなことを心の底で本当の本当の本当に思い念じながら余は階段を昇っていった。
さて、その先に天国が、渺々たる神の国が広がっていただろうか。
そこにあったのは立ち食いうどん店であった。
――――
単行本p.80
ついにスーパービュー踊り子号に乗った余は、眼力を往還させ、悟りに至るのだった。何だか悟ってばかりですが。
――――
夢破れたそのうえで生を肯定せんとして眼力を往還させて生きる姿勢としての眼力の往還をなしたいま、それは以前の超然ではない。
ではそれはなにか。
余はそれを、自然、であると思う。
それは世に言う、自然体、などという浅薄なものではない。
余はここに宣言する。
余は、自然、である。
余は、自然、としてこの世に存在する。
余は、雨や風や海や山と同じものである。
ははは。往還する眼力でスーパービュー踊り子号車内の風景を眺める余は、あははははははははははは、自然であったのだ。
――――
単行本p.124
そして、自然、となった余は、神と対峙するのだった。
――――
「うるせぇわ。そりゃあ、こっちは土地神に過ぎないかもしれない。でも神には違いない。けど、なんだよ? てめぇは。ヘドロじゃん、結果、出てんじゃん。そいでその前はただの自慢したいだけの生活自慢親爺じゃん。それを自然とか言って馬鹿じゃねぇの」
――――
単行本p.246
あ、言っちゃった。
あのとき余は、生きよう、と思った。死に向かうのではなく、生の方へ向かおうと思った。
もっと言うと、貪欲に生きよう、と思った。
そう。これまで余は超然たらんとするあまり、ひとが天然自然に抱く欲望を意図して遠ざけていた。虚無的な冷笑主義に陥っていた。
(中略)
しかしこれからは違う。いろんな人と触れ合い、いろんなことを自然に受け止め、心と心。真心。そうしたものを大事に生きていく。
蓋し超然とは人間拒絶主義であった。それは虚無と絶望を産み、人を死の方へ向かわせる。事実、余は何度も死のうとした。
しかし繰り返し言おう。
余は生の方へ向かう。グリーンアスパラガスを塩茹でにして食べる。食べよう。
――――
単行本p.8、9
シリーズ“町田康を読む!”第62回。
町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、『東京飄然』、『どつぼ超然』、『この世のメドレー』に続く大河余小説完結編。単行本(毎日新聞出版)出版は2017年12月です。
最近の小説はダザイ不足で物足りないとおっしゃる読者に向けて放たれた、文学とパンクロックが炸裂する抱腹絶倒の余小説。本当に完結したのか。いいのか。
『東京飄然』あらすじ
飄然たる生き方を目指して旅に出た余は、大阪梅田の「串カツ自分だけ一本少なかった事件」に打ちのめされ、世を拗ねてしまうのであった。
『どつぼ超然』あらすじ
心機一転、東京から熱海に引っ越し、「もはや余が目指すのは飄然ではない。“超然”である」と宣言した余は、熱海の町をひたすら放浪し、あまりに超然からほど遠い様に絶望するのであった。
『この世のメドレー』あらすじ
悟りを開いて超然者となった余。来る日も来る日もチキンラーメンや握り飯ばかり食していたところ、小癪な若造が尋ねて来たので一緒に熱海の町に飯を喰いに。帰りにふと沖縄に飛び、なりゆきでロックバンドを結成してデビューコンサートへ。そして「余は超然者などではなかった。余はただの世を拗ねたおつさんだ」と悟るのであった。
『生の肯定』あらすじ
自分がただの世を拗ねたおつさんだったと悟った余は、これからは生を肯定して生きようと決意する。具体的に云うとグリーンアスパラガスを塩茹でにして食べる。スーパービュー踊り子号に乗る。だが脳内参議院議員の狗井真一との出会いにより、余は超然者どころか、自然、そのものであることを悟り、神と対峙するのだった。自然主義文学大河余小説、堂々の完結編。
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『東京飄然』
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2010年10月19日の日記
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2012年07月31日の日記
『この世のメドレー』
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というわけで、まずは前作のおさらいから。
――――
そも余の生の肯定は超然の蹉跌より始まった。
絶海の孤島。そして沖縄。余は日本国中を経巡って、深く思索した。その深さは人間の精神の限界を遥かに超えていた。
そして余は生死を超越し、この世の終わりと始まりを目撃した。
そしてひとつのことがわかった。
それは余がただのアホである、ということであった。普通の人間であればその時点で絶望して考えるのをやめ、ダラダラした人生を送ることだろう。しかし、余は諦めなかった。諦めないでなお思索した。
そして得た結論が、生の肯定、である。
――――
単行本p.96
生を肯定する。それはどういうことか。
――――
しかし、余はなぜ、そんな恥ずかしい、自慢たらたらの文章を書いた/書く、のだろうか。
それは、それこそが生の方向である、ということに気がついたからだ。
もちろんいまもみたように、この、全行これ自慢、という文章は誰が見ても恥ずかしい。じゃあ、その恥ずかしい部分を改めてどうなるだろうか。まったく恥ずかしくない文章になるだろうか。恥ずかしくない生き方ができるだろうか。
余はできないと思う。なぜなら人間という生き物の根底にそうした恥ずかしいものが間違いなくあるからで、それがなくならない限り、必ず恥ずかしい言動に及んでしまう。
超然主義とは、その恥ずかしさに極限まで抗う姿勢であるが、その果てにあるのが個人としては死、世界としては滅亡しかないのは余が実地に体験した。
つまり生の方向へ向かう、ということは、この恥ずかしさを丸ごと認めること、つまり欲望の肯定なのだ。自分のなかに、自慢をしたい。他に向かって誇りたい。という気持ちがあるのであれば、これを隠そうとしたり、超然主義で無化しようとするのではなく、丸ごとこれを認める。認めて自慢する。
余はこれからはそういう生き方をしようと思ったのだ。
(中略)
つまり、為せば成る。為さねば成らぬ。そんなことを余は言いたいのかも知れない。
といった陳腐で無内容なことを恥ずかし気もなく、堂々と書く。それが欲望全開の生の肯定のパワーである。自分にはたいした識見もないのだが、識見があるように振る舞って、人から識見があるように思われたい。これは見栄、虚栄心である。そうしたものが自分のなかになければよいが、あるのであればこれを堂々と前面に押し出す。
――――
単行本p.12、17
というわけで、生を肯定すべく余はスーパービュー踊り子号に乗る。まず駅に行く。
――――
あはははは。ブラボー。踊り子号よ。そしてそれを影で操る不思議の集団よ。
ブラボー、ブラボー。あはははははは、目がもげていく。あの梨もぎの夜のことをよもやおまえは忘れたわけではあるまいな。よいとまけをやり過ぎてヨイヨイになったあの哀れな男のことも!
といった具合でなんだか昂奮しちまった余は、昂奮のあまり、無意識裡にちょっとした舞踊のようなことをしてしまったらしく、衆人が半ばは軽蔑したような、半ばは恐怖したような目で余を見ていた。いやなことだ。
――――
単行本p.75
踊り子号に乗るためには、駅の階段を昇らねばならない。その先にあるものははたして何か。
――――
そうして登り切ったところは間違いなく天国である。なんてことは讃岐の金比羅様に参った人なら誰でも知っていることなのだろうか?
という巧妙な疑問形。こんな手口に騙されてはならない。信じることと騙されること。同じことだが違うことだ。法然上人にすかされまいらされて。ということがつまり必要ということだ。
オレオレ詐欺。という。そんなものはもう旧い。これから必要になってくるのは君君詐欺だ。あんた誰ですか。君だよ。俺は君だよ。え? 君って俺なの。そうだよ。君君。君だよ。I am you. だよ。
ということになればもはや犯罪ですらない。なぜなら自分で自分に振り込むむけだからね。単なる資金移動。そして、その先に広がっているのは果てしない荒野のような天国。渺々たる神の国。天国。神の典獄。そんなものに敢えてなる覚悟。それが生を肯定するということなのだ。
そんなことを心の底で本当の本当の本当に思い念じながら余は階段を昇っていった。
さて、その先に天国が、渺々たる神の国が広がっていただろうか。
そこにあったのは立ち食いうどん店であった。
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単行本p.80
ついにスーパービュー踊り子号に乗った余は、眼力を往還させ、悟りに至るのだった。何だか悟ってばかりですが。
――――
夢破れたそのうえで生を肯定せんとして眼力を往還させて生きる姿勢としての眼力の往還をなしたいま、それは以前の超然ではない。
ではそれはなにか。
余はそれを、自然、であると思う。
それは世に言う、自然体、などという浅薄なものではない。
余はここに宣言する。
余は、自然、である。
余は、自然、としてこの世に存在する。
余は、雨や風や海や山と同じものである。
ははは。往還する眼力でスーパービュー踊り子号車内の風景を眺める余は、あははははははははははは、自然であったのだ。
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単行本p.124
そして、自然、となった余は、神と対峙するのだった。
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「うるせぇわ。そりゃあ、こっちは土地神に過ぎないかもしれない。でも神には違いない。けど、なんだよ? てめぇは。ヘドロじゃん、結果、出てんじゃん。そいでその前はただの自慢したいだけの生活自慢親爺じゃん。それを自然とか言って馬鹿じゃねぇの」
――――
単行本p.246
あ、言っちゃった。
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