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『日本現代怪異事典』(朝里樹) [読書(オカルト)]

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 そんな私が子ども時代を過ごした1990年代は学校の怪談ブームが起きた時代で、多くの現代の怪異たちが身近に語られていました。自分が知らない過去の時代だけでなく、自分が今生きているこの時代にもたくさんの怪しげなものたちがいるのだと感じられたのは、幸いなことだったと思います。どんな時代においても怪異たちは決して消えることなく、その時代時代に合わせて新たな姿、性質で生まれ、語られるのでしょう。
 そしてそんな、我々と同じ時代を生きてきた怪異を集め、今までになかったような事典を作ろうと書き始めたのが本書です。当初は同人誌として誕生したこの事典ですが、こうして笠間書院様のお力添えを得て、改めて世に出す機会を得ることができました。
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単行本p.491


 カシマさん、口裂け女、くねくね、きらさぎ駅、……。怪談実話として、ネットロアとして、学校の怖い噂として、語られ続ける現代の怪異を1000項目以上も収録した事典。単行本(笠間書院)出版は2018年1月です。


 本書が最初に同人誌として出されたときには、通販を申し込もうと頑張ったのです。あらかじめ入力内容をまとめて、予告された発売時刻が近づくと通販予定ページを何度もリロードして、いよいよ表示が切り替わった、と思うと無慈悲な「品切れ」の文字。通販が再開されるたびにチャレンジしたのですが、いつも同じ結果でした。

 もしかしてこれはイタズラなのではないか、いや「手に入れた者はすべて行方不明になったという幻の怪異事典」といった都市伝説に今まさに巻き込まれつつあるのではないか、などと疑心暗鬼がつのる日々を過ごしたのも、今となっては悪い思い出です。


 そんないわくつきの『日本現代怪異事典』が、ついに笠間書院から単行本として出版されました。ページ数500頁、収録怪異数は1000を超え、個々の項目には解説に加えて出典も明記され、ネットロアについても可能な限り初出スレッドにさかのぼり、他の類似怪異との関係性まで言及された、決定版といってよい素晴らしい充実っぷり。

 どんな怪異が収録されているのか気になる方は、笠間書院の紹介ページに何と全項目リストが掲載されていますので、そちらを確認してみて下さい。

  笠間書院(2018年1月23日付け記事)
  ●朝里 樹『日本現代怪異事典』(笠間書院)
  http://kasamashoin.jp/2018/01/post_4078.html

 索引も充実しており、五十音順はもちろんのこと、出没した都道府県別索引、類似怪異索引(チェーンメールの怪、話してはならない怪、高速老婆の怪、異界駅の怪、など)、出没場所索引(家、池、押し入れ、トイレ、鏡、学校、高速道路、この話を聞いた人間の元、など)、使用凶器索引(鎌、血液、舌、壺、包丁、連れ去り、呪い、憑依、捕食、など)といったマニアックな索引もついています。作家やシナリオライターにとって大いに役立つのでしょうが、ただリストを眺めているだけでも楽しく、色々な発見があります。

 最後にずらりと並んだ参考資料も充実。読書欲をそそられます。とにかく500ページの分量は圧巻で、何らかの怪異が凶器として使用してもおかしくないボリューム。事典として活用することはもちろん、むしろ毎日少しずつ読み進めて長く楽しみたい一冊です。



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『Galaーガラ』(ジェローム・ベル) [ダンス]

 2018年1月21日は、夫婦で彩の国さいたま芸術劇場に行ってジェローム・ベル演出による『Gala』を鑑賞しました。世界50都市以上で上演され、それぞれの開催都市ごとに20名の出演者を募ったという話題作の“埼玉版”です。上演時間90分。


[キャスト他]

構想・演出: ジェローム・ベル

出演(さいたま芸術劇場版):
相澤陽太、新井悠汰、入手杏奈、梅村千春、Elhadji Ba、大北岬、オクダサトシ、金子紗采、川口隆夫、木下栞、佐々木あゆみ、竹田仁美、BIBIY GERODELLE、百元夏繪、星遙輝、堀口旬一朗、矢崎与志子、吉田駿太朗、吉村計、李昊


 まず、さいたま芸術劇場の写真が投影され、続いて世界各地の劇場の写真が次々と映されてゆきます。大型劇場、小劇場、円形野外劇場、公民館みたいな所、プラスチックの椅子が並べれている商用施設の一画、さらには草原に丸太を置いただけの「劇場」。どうやら「多様性」がテーマらしいと、におわせます。

 続いて、「バレエ」「社交ダンス(ワルツ)」「マイケル・ジャクソン」などのお題が掲示され、20名の出演者が、一人ずつ、舞台を左から右へと横切りながら、お題のダンスを披露してゆきます。

 20名の出演者は、バレエダンサー、コンテンポラリーダンサー、バトントワラー、俳優、高齢者、幼い子供、障がい者、外国人、など様々。個人的には、「コンドルズ」のオクダサトシさんがいたり、つい先日この劇場で『大野一雄について』を踊ったばかりの川口隆夫さんがいたりして、びっくりしました。

 ついつい「身体の多様性(の賛美)」「舞踊の多様性(の賛美)」などと演出の意図を考えてしまいますが、そこは何しろ、ジェローム・ベル。これまで個人的に観たことがある作品は二つだけですが、無人の舞台に音楽だけ流してこれはダンスだと言い張ったり、マーラーの交響曲を演奏しながら演奏者が次々と倒れて死んだり、いずれも批評性の高いというか底意地の悪い演出で、「舞台を鑑賞する、というのはどういう行為なのか」という問いを観客に突きつけて居心地の悪い思いをさせてきた、あの人です。

 今作も「素人や、障がい者や、子供が、プロのダンサーと並んで頑張って踊っている様を受け入れて感動する」「みんな違ってみんないい」といった作品ではないだろう、と半信半疑でいると……。

 それぞれの出演者が「お手本」となって自分の得意なダンスを披露し、他の出演者たちがその真似をして踊る、というのを繰り返してゆくうちに、舞台上では出演者たちがチームとしてまとまってゆき、客席では観客が高揚感と一体感でまとまってゆくのです。客席から出演者に「がんばれ」と声援が送られたり。暖かい雰囲気。

 驚くほど感動的なシーンが繰り返され、最後は出演者たちと観客が一体となって盛り上がる、というたいそう高揚する展開となります。観客を大いに楽しませ、大いに感動させ、劇場という空間でだけ成立する共犯者的熱狂の心地よさを大いに堪能させるという、まんまとジュローム・ベルにしてやられたーという一抹の後ろめたさを残す、印象的な公演でした。



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『モイラの「転生」』(笙野頼子) [読書(随筆)]

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モイラ!そのままの小柄さと目鼻立ちで(ただ四肢だけは長い)。「前世」好きだった出窓にすぐに上がり、「おとなしいです」と言われていたはずが、盛大に凄む。モイラの死んだ年の生まれである。雄と間違えられていた可憐な雌、こんな再会があるのだろうか。心の中でふと神仏を思った。ただ、「前世」そっくりの凄みは一日で消え、翌日から膝に来る。
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月刊ねこ新聞 2018年1月12日号より


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第116回。

 月刊ねこ新聞(猫新聞社)2018年1月12日号(No.215)に掲載されたエッセイです。


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十月の末、さる方のお世話で、飼主様急死の老猫を迎える、命名ピジョン。
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「群像」2018年1月号p.167


 群像に掲載された『九月の白い薔薇 ――ヘイトカウンター』のラストに書かれていた、新しい猫との出会いが、より詳しく書かれています。「最後の希望」ギドウとの別れにより「心を焼かれ立てなくなった」著者のもとに、生まれ変わりかと思うほどモイラそっくりの猫が。

 ちなみに、モイラとの別れについては、短編『モイラの事』『この街に、妻がいる』(短篇集『猫道 単身転々小説集』に収録)に書かれています。先にそちらを読んでからこのエッセイを読むと、これがもう、泣けて泣けて。


  2017年03月16日の日記
  『猫道 単身転々小説集』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2017-03-16


 なお、モイラやギドウとの出会いについては、長篇『愛別外猫雑記』に詳しく書かれています。

 そして「モイラの後継を無事に看取りたい」という、ささやかで切実な、希望や祈りすら、いちいちいちいち踏みつぶしにくる大きなもの。


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――どうか戦争よ来てくれるな、と私は祈る。また薬価を高騰させ病人を喰い殺すTPP、FTA、RCEP、流れてよ、と。モイラの後継を無事に看取りたい。平和の下でなければかなわぬ望みである。
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月刊ねこ新聞 2018年1月12日号より


 老猫と難病患者が静かに幸福に生きる。ただそれだけのことすら許さないこの国って、いったい何なのかと思う。



タグ:笙野頼子
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『生の肯定』(町田康) [読書(小説・詩)]

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 あのとき余は、生きよう、と思った。死に向かうのではなく、生の方へ向かおうと思った。
 もっと言うと、貪欲に生きよう、と思った。
 そう。これまで余は超然たらんとするあまり、ひとが天然自然に抱く欲望を意図して遠ざけていた。虚無的な冷笑主義に陥っていた。
(中略)
 しかしこれからは違う。いろんな人と触れ合い、いろんなことを自然に受け止め、心と心。真心。そうしたものを大事に生きていく。
 蓋し超然とは人間拒絶主義であった。それは虚無と絶望を産み、人を死の方へ向かわせる。事実、余は何度も死のうとした。
 しかし繰り返し言おう。
 余は生の方へ向かう。グリーンアスパラガスを塩茹でにして食べる。食べよう。
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単行本p.8、9


 シリーズ“町田康を読む!”第62回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、『東京飄然』、『どつぼ超然』、『この世のメドレー』に続く大河余小説完結編。単行本(毎日新聞出版)出版は2017年12月です。

 最近の小説はダザイ不足で物足りないとおっしゃる読者に向けて放たれた、文学とパンクロックが炸裂する抱腹絶倒の余小説。本当に完結したのか。いいのか。


『東京飄然』あらすじ

 飄然たる生き方を目指して旅に出た余は、大阪梅田の「串カツ自分だけ一本少なかった事件」に打ちのめされ、世を拗ねてしまうのであった。

『どつぼ超然』あらすじ

 心機一転、東京から熱海に引っ越し、「もはや余が目指すのは飄然ではない。“超然”である」と宣言した余は、熱海の町をひたすら放浪し、あまりに超然からほど遠い様に絶望するのであった。

『この世のメドレー』あらすじ

 悟りを開いて超然者となった余。来る日も来る日もチキンラーメンや握り飯ばかり食していたところ、小癪な若造が尋ねて来たので一緒に熱海の町に飯を喰いに。帰りにふと沖縄に飛び、なりゆきでロックバンドを結成してデビューコンサートへ。そして「余は超然者などではなかった。余はただの世を拗ねたおつさんだ」と悟るのであった。

『生の肯定』あらすじ

 自分がただの世を拗ねたおつさんだったと悟った余は、これからは生を肯定して生きようと決意する。具体的に云うとグリーンアスパラガスを塩茹でにして食べる。スーパービュー踊り子号に乗る。だが脳内参議院議員の狗井真一との出会いにより、余は超然者どころか、自然、そのものであることを悟り、神と対峙するのだった。自然主義文学大河余小説、堂々の完結編。


  2009年03月16日の日記
  『東京飄然』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2009-03-16

  2010年10月19日の日記
  『どつぼ超然』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2010-10-19

  2012年07月31日の日記
  『この世のメドレー』
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-07-31


 というわけで、まずは前作のおさらいから。


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 そも余の生の肯定は超然の蹉跌より始まった。
 絶海の孤島。そして沖縄。余は日本国中を経巡って、深く思索した。その深さは人間の精神の限界を遥かに超えていた。
 そして余は生死を超越し、この世の終わりと始まりを目撃した。
 そしてひとつのことがわかった。
 それは余がただのアホである、ということであった。普通の人間であればその時点で絶望して考えるのをやめ、ダラダラした人生を送ることだろう。しかし、余は諦めなかった。諦めないでなお思索した。
 そして得た結論が、生の肯定、である。
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単行本p.96


 生を肯定する。それはどういうことか。


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 しかし、余はなぜ、そんな恥ずかしい、自慢たらたらの文章を書いた/書く、のだろうか。
 それは、それこそが生の方向である、ということに気がついたからだ。
 もちろんいまもみたように、この、全行これ自慢、という文章は誰が見ても恥ずかしい。じゃあ、その恥ずかしい部分を改めてどうなるだろうか。まったく恥ずかしくない文章になるだろうか。恥ずかしくない生き方ができるだろうか。
 余はできないと思う。なぜなら人間という生き物の根底にそうした恥ずかしいものが間違いなくあるからで、それがなくならない限り、必ず恥ずかしい言動に及んでしまう。
 超然主義とは、その恥ずかしさに極限まで抗う姿勢であるが、その果てにあるのが個人としては死、世界としては滅亡しかないのは余が実地に体験した。
 つまり生の方向へ向かう、ということは、この恥ずかしさを丸ごと認めること、つまり欲望の肯定なのだ。自分のなかに、自慢をしたい。他に向かって誇りたい。という気持ちがあるのであれば、これを隠そうとしたり、超然主義で無化しようとするのではなく、丸ごとこれを認める。認めて自慢する。
 余はこれからはそういう生き方をしようと思ったのだ。
(中略)
 つまり、為せば成る。為さねば成らぬ。そんなことを余は言いたいのかも知れない。
 といった陳腐で無内容なことを恥ずかし気もなく、堂々と書く。それが欲望全開の生の肯定のパワーである。自分にはたいした識見もないのだが、識見があるように振る舞って、人から識見があるように思われたい。これは見栄、虚栄心である。そうしたものが自分のなかになければよいが、あるのであればこれを堂々と前面に押し出す。
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単行本p.12、17


 というわけで、生を肯定すべく余はスーパービュー踊り子号に乗る。まず駅に行く。


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 あはははは。ブラボー。踊り子号よ。そしてそれを影で操る不思議の集団よ。
 ブラボー、ブラボー。あはははははは、目がもげていく。あの梨もぎの夜のことをよもやおまえは忘れたわけではあるまいな。よいとまけをやり過ぎてヨイヨイになったあの哀れな男のことも!
 といった具合でなんだか昂奮しちまった余は、昂奮のあまり、無意識裡にちょっとした舞踊のようなことをしてしまったらしく、衆人が半ばは軽蔑したような、半ばは恐怖したような目で余を見ていた。いやなことだ。
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単行本p.75


 踊り子号に乗るためには、駅の階段を昇らねばならない。その先にあるものははたして何か。


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そうして登り切ったところは間違いなく天国である。なんてことは讃岐の金比羅様に参った人なら誰でも知っていることなのだろうか?
 という巧妙な疑問形。こんな手口に騙されてはならない。信じることと騙されること。同じことだが違うことだ。法然上人にすかされまいらされて。ということがつまり必要ということだ。
 オレオレ詐欺。という。そんなものはもう旧い。これから必要になってくるのは君君詐欺だ。あんた誰ですか。君だよ。俺は君だよ。え? 君って俺なの。そうだよ。君君。君だよ。I am you. だよ。
 ということになればもはや犯罪ですらない。なぜなら自分で自分に振り込むむけだからね。単なる資金移動。そして、その先に広がっているのは果てしない荒野のような天国。渺々たる神の国。天国。神の典獄。そんなものに敢えてなる覚悟。それが生を肯定するということなのだ。
 そんなことを心の底で本当の本当の本当に思い念じながら余は階段を昇っていった。
 さて、その先に天国が、渺々たる神の国が広がっていただろうか。
 そこにあったのは立ち食いうどん店であった。
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単行本p.80


 ついにスーパービュー踊り子号に乗った余は、眼力を往還させ、悟りに至るのだった。何だか悟ってばかりですが。


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 夢破れたそのうえで生を肯定せんとして眼力を往還させて生きる姿勢としての眼力の往還をなしたいま、それは以前の超然ではない。
 ではそれはなにか。
 余はそれを、自然、であると思う。
 それは世に言う、自然体、などという浅薄なものではない。
 余はここに宣言する。
 余は、自然、である。
 余は、自然、としてこの世に存在する。
 余は、雨や風や海や山と同じものである。
 ははは。往還する眼力でスーパービュー踊り子号車内の風景を眺める余は、あははははははははははは、自然であったのだ。
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単行本p.124


 そして、自然、となった余は、神と対峙するのだった。


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「うるせぇわ。そりゃあ、こっちは土地神に過ぎないかもしれない。でも神には違いない。けど、なんだよ? てめぇは。ヘドロじゃん、結果、出てんじゃん。そいでその前はただの自慢したいだけの生活自慢親爺じゃん。それを自然とか言って馬鹿じゃねぇの」
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単行本p.246


 あ、言っちゃった。


タグ:町田康
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『ぼくのネコにはウサギのしっぽ』(朽木祥:文、片岡まみこ:絵) [読書(小説・詩)]

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 おねえちゃんは、ものすごく“でき”がいい。なんでもできる。勉強も一番だし、ピアノもじょうずで、かけっこも速い。去年もおととしもリレーの選手だった。今年もたぶんそうだ。六年生のチャンピオンなのだ。
 だけど、ぼくの“でき”はすごく、ふつう。勉強もふつうだし、ピアノはバイエルでやめてしまった。サッカーも、試合に出られたり出られなかったり。かけっこは、ようち園のときから、いつだって三着だ。
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単行本p.6


 出来のいい姉が拾ってきたのは、ものすごく美しい猫。それに対してぱっとしない「ぼく」が選んだのは、やっぱりぱっとしない猫。でも、この子にはウサギのしっぽがついている。他にはいない、たいせつな、ぼくのネコ。自分や動物、それぞれのかけがえのなさを教えてくれる絵本。単行本(学習研究社)出版は2009年6月、Kindle版配信は2009年6月です。


 ペットが中心となる三つのお話しを収録した絵本です。最初の『ぼくのネコにはウサギのしっぽ』は猫、残り二つの話は犬、を扱っています。


『ぼくのネコにはウサギのしっぽ』
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 もし、このネコがメグくらいきれいだったら、もし、おねえちゃんがたのんだら、もし、ぼくが日曜テストで一番がとれるくらいできがよかったら、お父さんは「いいよ」っていうんじゃないだろうか。ぼくは自分でも信じられないくらいはらがたってきた。
 お父さんといいあううちに、ぼくは泣きだしてしまって、ついでに、わけのわからないことをわめいていた。
「とりかえてくればいいんだ、もっとかわいいネコにさあ。ついでに、よそからもらってきたらいい。おねえちゃんのコピーみたいな四年生をさあ。」
 家じゅうが、しんとした。
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単行本p.16

 不細工だろうが賢くなかろうが、自分の猫は世界一。猫の優劣を競うことほど無意味なことはない。だったら、自分だって、そうじゃないだろうか。他人と比べては劣等感に悩んでいる子供たちに、本当のプライドとは何かを教えてくれる物語。


『毒物110番』
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 大声で、「ダン、ダン!」とよぶと、家のうら手から、ダンが元気よく、かけてきた。
 ぼくは、ほっとした。だが、ダンが口になにかくわえて、ふりまわしているのに気がついた。
 白い粉のようなものが、おしろいをはたいたように口のまわりについている。
 わわわ。ゴキブリ用の毒えさだ! ホウ酸だんごだ!
 うそだろ。
 猛毒だからぜったいさわらないようにって、お母さんに何度もいわれていた、ホウ酸だんご!
 ぼくはあわててダンを追いかけた。
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単行本p.40

 一人で留守番をしているとき、飼い犬のダンが毒を食べてしまう。どうしよう、親に電話しても間に合わない。とっさに「毒物110番」に電話した「ぼく」だったが……。いきなり命を守る責任が降りかかってきたとき、逃げずにたった一人で立ち向かえるだろうか。勇気と責任の物語。


『おたすけ犬』
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おもちゃで遊んでいたミイの首にひもがまきついて、死にそうになっていたのに、人間はだれも気がつかなかった。
 ぐっすり寝ていた平吉が、がばっと起きあがると、めずらしくうるさくほえたてて知らせたのだ。そのときミイは、もう白目を出していた。
「あと三分おそかったら、助からなかったよ。声も出なくなっていたのに、よくわかったよなあ」と、獣医さんも感心していたそうだ。
 おかげでミイは命拾いした。でも、ちっともありがたいと思っていなくて、なにか気に入らないとすぐ、平吉にネコパンチを食らわせたり、追っかけたりするんだって。それでも、平吉は「すいません」という顔のまま、おっかなそうににげまわるだけ……。
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単行本p.77

 近所の卓ちゃんの飼い犬、平吉はとても賢い。「わたし」の飼い犬が困っていたり、ネコが死にそうになったときも、さっと助けてくれた。でも、平吉は偉そうにしない。たれ目で、たれ耳で、まゆが八の字で、いつも「すいません」っていう顔で、ネコにも道をゆずってやるんだって。優しさとはどういうものかを教えてくれる物語。



タグ:絵本
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