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『「フェミニズム」から遠く離れて』(笙野頼子)(『日本のフェミニズム since 1886 性の戦い編』(北原みのり責任編集)収録) [読書(随筆)]

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この本は男性が笙野頼子を読めないと言う。でもそれは文学に対する切断行為、私の作品の全人性をぶった切って思想の兵隊にしようとするものです。(中略)言語が文法の壁を越えることをガタリは知っていた。文学が壁を、越えられないはずはない。笙野頼子はそれを読める男性の救いなんです。
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単行本p.112


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第115回。

「『日本のフェミニズム~性の戦い編』には、笙野頼子さんが絶対に必要でした」
「笙野さんがいなければ、この国で、私は「イカフェミ」になってたかもしれない」
「笙野さんの文学は、フェミを正気に戻すんです」

 北原みのり責任編集『日本のフェミニズム since 1886 性の戦い編』に収録されたロングインタビュー(聞き手は北原みのりさん)。単行本(河出書房新社)出版は2017年12月です。


 最初から最後まで圧倒的な密度で語られる8ページのロングインタビュー。話し言葉でさえ文学、というか、何というか、隅々まで抗捕獲性の高い言葉から構成されていることに驚かされます。


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 恐れ入りますます、ていうか、ちょっと、涙……ありがとう。ならば私の肩書きは一面、野良フェミでもある文学者でいいですよ。これ、ネットの悪口用語らしいけども、別にいいよ。根本は文学者で、野良フェミの文学。清水良典さんが『レストレス~』を「フェミニズムを超えている」と評価したのはただ単にそれが文学だからです。だって文学はすべての属性から自由でなければ書けないんだから。
 とりあえずあなたはフェミかどうかと言われる前に言うと、私は様々の被害にあった人間に対して泣くなと言わないし、被害を訴えるなとは絶対言わない。
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単行本p.111


 中心となる話題は、ある種の「フェミニズム」が、女性を抑圧する側、被害者の口をふさぐ側に立っていることに対する痛烈な批判です。


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それそも一体それは誰の自由なのか。女をいつも主流男の御都合と結びつけて、男の性の自由を確保するために「性の自由」や「フェミニズム」を謳っているだけなのでは。でもだったら「フェミ」って何?
 中でも、上野千鶴子に代表されるフェミニズムなんてマーケティング兼の少女消費じゃないのと。私は結局前世紀からやむなく上野を批判してきました。
(中略)
 私が共感できなかったのは、「アカフェミ」だけではなくマスコミ・フェミにもなんです。マーケティング用フェミ、女性差別広告、性暴力ビデオ、少女消費、上野千鶴子なんてまさにこの全部の味方ですよ。ならばフェミニズムは単なる研究分野のひとつとしてすでに捕獲されてしまっているんじゃないかと。
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単行本p.108


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女性同士で温泉に行ったりも許さないし見張る、収奪する側はすべてが許せない。結果、妻、母、娼婦、妻、母、娼婦、こればっかり。とどめ、そうじゃない単身のおとなの女のことを評論家は平然と少女とか言ってくる。そういう連中から認めてもらわなきゃフェミニストになれないなら、そんな言葉自体いらないです。
 ていうかフェミのことはフェミだけ見ていては判らない。研究分野として閉じ込めるならばそれはもう差別です。だけど文学はすべてを見るからね。
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単行本p.109


 もやもやしていたものを吹き飛ばす旋風のような、いやむしろ、かまいたちのような言葉が、フェミニズムの輪郭を、すでに捕獲されてしまったものとそうでないものとの境界を、くっきりと切り裂いてゆきます。そして自身の立ち位置の表明が続きます。


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 捕獲されないで生き延びるものは、小さくても、大切です。社会が潰そうとしても潰せないものです。日本文学で言うと、私小説もそうでしょう。かつて女性の書く文学は女流文学といわれました。でもそんな中でもあらゆる差別の中でひとりひとりが生き延びてきた。
(中略)
私は要するに、普通に女性がして幸福になるぞと世間で言われていることを一切やってこなかった。だから、私はいま幸福なんです。文化の中にいることができなかったことで救われている。しかも外にいるから言えることを言うと「それこそフェミニズム」と喜ばれる。
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単行本p.109、110


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「当事者」とは何か、ということです。私は当事者をなくして上から大きく正しいことを言うことがどうしてもできません。どうしてか、私はただ、自分自身が当事者であることだけを書き、それにより本来の自分にはとても予測出来ないものを予測し、マスコミより大きい世界を理解してきたからです。
 同時に私が「性」を考えるとしたら、「性」を捕獲しているものは何かという関連性から始めなければならないんです。つまり「性」と「性暴力」を分けて、いまは暴力が「性」を捕獲しているんだと考えなくてはいけない。
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単行本p.109


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暴力で性を捕獲する感覚って、「性」ということよりも「奴隷」にして汚染するって感覚なんだと想う。
 従属させてすべてを自分たちが見張り、判断したいという願望がセックスをも覆っている。「性」を捕獲してくるものは多すぎる。フェミも、ていうか性について語らせたり、性だけ分けたり、文学者をフェミだから、フェミでないからとか言うのも全部「性」強要ですよ。マスコミが女にしてくることはひどいし汚いよ。今の時代、いちいち強要してくる性を容認することはリベラルなんじゃなくて、暴力を容認することなんですよ。肉を一人前食べられないことを容認することなんです。そもそも泣いている被害女性を黙らせるために「フェミニズム少数派」の上野千鶴子がいる。それこそ私が長年小説でも論争でも批判してきた、ロリフェミ、イカフェミ、ヤリフェミなんですよ。
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単行本p.110


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性暴力を受けて泣く女性、困る女性を黙らせる仕事がフェミニズムだというのなら、私は今まで通りアンチフェミとかミソジニストとか言われて死ぬまで上野シンパに叩かれている方がいい。
(中略)
妻、母、娼婦、をやらない少女を食品として消費するネオリベ、そして搾り取られる国民にむけては「ほら、喰われるのは少女だけどうかご安心を」ってまさに人喰い経済暴力、しかもそれに対する批判精神なんてないんでしょ? 少女依存の「アート」? すでにご清潔な便器になってひさしいのでは?
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単行本p.112


 明瞭で厳格で、曖昧さも無責任さもない、「フェミを正気に戻す」知性的な言葉が続き、まずは圧倒され、それから内省と洞察を強いられます。


 最後にまとめられている「註」では、特に『海底八幡宮』以降の作品におけるキーワードの一つとなっている「捕獲装置」とその応用について非常に分かりやすくまとめられており、お勧めです。

 また、読者としては、「ひょうすべの続きを書く」(単行本p.110)とあるのが非常に気にかかります。


タグ:笙野頼子
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