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『破滅の王』(上田早夕里) [読書(SF)]

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 軍隊で防疫業務に携わり細菌を研究することと、捕虜に対して生体実験を行って殺すことは、まったく別の問題であって、イコールでは結ばれない。石井の部隊が、こうも簡単に倫理を踏み越えてしまうとは考えもしなかった。多くの研究者は、罪悪感を覚えつつも、淡々と、事務作業でもこなすように、捕虜の体と命を取り扱っているのではないか。中には、この機会を歓迎し、より深く研究にのめり込んでいった者もいるかもしれない。その冷淡さは、藤邑にも身に覚えのある感覚だった。科学を通して人体を見る、人体を純粋に物として割り切って観察する。その視線は、理知的で冷静な医学者の眼差しと表裏一体なのだ。
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単行本p.188


 日中戦争当時。上海自然科学研究所の研究者である宮本は、日本軍が開発中の細菌兵器が何者かに奪われ行方不明になっていることを知らされる。予防も治療も不可能、外界に漏出すれば人類を死滅させかねない恐るべき最終兵器。治療法を見つけるためにその細菌、通称「破滅の王」を追う宮本は、いつしか731部隊をめぐる闇の核心へと踏みこんでゆく。戦争の狂気と極限状況を背景に科学と人間性の葛藤を描き、さらに返し刀を現代に突きつける長篇。単行本(双葉社)出版は2017年11月です。


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K型R2vを、予防法も治療法もあると信じている関東軍が前線で撒いてしまったら、敵軍だけでなく日本軍も感染に巻き込まれて全滅する。そればかりではない。広範囲を汚染したR2vは、自然界に無数に存在するグラム陰性菌に寄生しながら、次々と棲息範囲を拡大していくかもしれない。汚染が止まらない可能性すらあるのだ。
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単行本p.197


 ひとたび実戦投入されれば人類を死滅させかねない、コントロール不能であるがゆえに不完全な細菌兵器、K型R2v「破滅の王」。731部隊の施設で捕虜に対する非道な生体実験を繰り返していた研究者が、その細菌株とデータを持ち出し行方をくらませる。


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「いいか。よく覚えておけ。異民族を平気で殺せるような集団は、いずれ同胞に対しても同じことをする。その牙が、外を向くか内を向くかの違いだけだからな。だが、おまえは絶対にそうなるな。最後まで本物の医師でいてくれ」
「私は、もうまともな医師じゃない。ここへ来たときから」
「道義上の問題と、実際に手を下したかどうかを混同するな。おまえは未だに診療部にいて、この狂気に満ちた城の中で唯一、人の命を救う部署で働いている。それを絶対に忘れるな。いつかここから外へ出て、人々に真実を語り伝える可能性に希望を託せ」
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単行本p.191


 細菌兵器とそのデータの行方を追うことになったのは、細菌学者の宮本と、彼の監視任務にあたる軍人の灰塚少佐。科学の、そして科学者の純粋さを信じる宮本は、あくまですべての人々を分け隔てなく救うために行動しようとするが、その理想主義は外と内の両面から厳しい試練にさらされることになる。


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「あそこを調査していると、科学という学問の二面性が、くっきりと見える。同じ大学で学び、同じ知識を吸収し、同じ水準の教養を与えられた優秀な人材が、上海では大陸の民と手を取り合って理学研究に打ち込み、満州では大陸の民を殺すための研究に熱中している。(中略)あそこは科学研究の場である以前に軍隊だからな。中へ入った瞬間、誰でも人が変わってしまう。そんな医官や技術者を、私は大勢見てきた」
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単行本p.92


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正しい倫理観などいくらでも口にできる。真須木も藤邑も自分も大学の医学部で学び、正しいことと悪いことを切り分ける高度な教育を受けてきた。そんな彼らが、それでも壊れざるを得なかった現実が、いま眼前を覆い尽くしているのだ。
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単行本p.219


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 あの細菌に、どうしようもなく惹きつけられてしまう気持ちが、自分の中にも確かにある。どうすればあれを殺せるのか。感染者を治療できるのか。研究者として、あの奇妙な性質を調べてみたくて堪らない。それがR2vを細菌兵器として完成させることになっても、何もしないでいるのは耐えがたい。
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単行本p.104


 患者の命を救うための治療法を研究することが、すなわち実戦投入できる細菌兵器としてそれを完成させることになる。しかし、分かっていても研究したくて堪らない。科学者として倫理的葛藤に苦しむ宮本を冷徹に監視する灰塚。だがすべてを割り切った現実主義者に見えた灰塚は、戦争の狂気のなかで、自分の命を捨ててでも「正しいこと」を成し遂げたいと渇望する強靱なロマンティストでもあった。


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 軍人としての誇りを取り戻したい。軍人としての自分をまっとうできる場所が欲しい。他に行き場はどこにもない。まともな軍人として生き、まともな軍人として死んでいきたい。灰塚は、飢え渇くようにそれだけを望み続けてきた。この仕事を引き受けることでそれがかなうなら、拒否する理由は何もない。
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単行本p.40


 それぞれに内面に矛盾と葛藤を抱え苦しむ二人は、幾度となく衝突を繰り返すなかで互いの価値観の違いを受け入れつつ、奇妙な信頼関係を築いてゆく。


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「人間の悪意や憎悪に対して、学者が素手で闘えると思うのか」
「学者が素手とは思いません。銃を持たない者には他の手段があります」
「抗日派のすべてが、教養ある文化人や知性豊かな将官や、北京や上海の真面目な学生とは限らない。(中略)そういう連中のやり方は残虐で容赦がない」
「でも、そこだけを見ていたら、外国だけでなく、自分の祖国の本質すら見誤りませんか。人間は誰しも残酷で汚れているものです。それだけを理由に他者を排除していくなら、人類は殺し合いの果てに、やがて絶滅するでしょう」
「案外、そのほうがいいかもしれんぞ」
「私もそう思うことはありますよ。でも、いまはまだその時期じゃない」
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単行本p.100


 そして、ついに未知の疫病が前線で発生したという急報が。日中双方の兵士に感染が広がり、次々と死者が増えているという。狂気と憎悪の果てに、ついに「破滅の王」が放たれたのだ。現場へと急ぐ二人は、そこにどのような地獄が待っているのかをうすうす予感していた。


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「君にはいずれ、科学者として重大な決断をしてもらうときが来る。それを任せられるのは君だけだ。心しておいてくれ」
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単行本p.165


 というわけで、短篇集『夢みる葦笛』に収録された『上海フランス租界祁斉路三二〇号』 と同じく、上海自然科学研究所から始まる長篇です。

 それぞれに矛盾と葛藤を抱えた二人の対立というドラマ。科学と倫理と人間性に関する真摯な問いかけ。上海自然科学研究所や731部隊に関する詳細な史実を活かした臨場感あふれる描写。どの登場人物にもある程度の共感を示しつつ、決して誰かに肩入れしない、そんな冷淡ともいえる筆致で描かれる骨太の歴史小説。それが、最後の最後に、現代に切り込んでくる衝撃。私たちが今、直面している「破滅の王」とは何なのか。

 個人的には、『華竜の宮』『深紅の碑文』を超える、著者の現時点における長篇の最高傑作だと思います。


タグ:上田早夕里
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