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『IC』(カニエ・ナハ) [読書(小説・詩)]

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ここから矩形の水槽のガラスの三面が見えていて、二匹泳いでいるはずの金魚が、場所によって、四匹に見えたり六匹に見えたりする。ときに頭と頭が重なり合って、頭のない、ふたつの尾ひれをもったひとつの生きものになったりする。「気づかずに、偶然、あなたの前の席に座ってしまって、けれどしばらくあなたの声だと気づかなかったの。外国映画の日本語の吹き替えみたいに、別のひとの声のようだった。」
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「私は私を降りるガラス窓の向こうの声をさえぎって雨」より全文引用


 標題は短歌、目次は歌集。縦書きと横書きが織りなす奇妙な建造物のような詩集。単行本出版は2017年10月です。

 まずタイトルページや目次がどこにあるかを探さなければならない、というのは前作『馬引く男』と同じなのですが、今作ではさらに、標題がすべて短歌になっていて本文である詩と呼応しあう、そうかその手があったか、という意表を突いた仕掛けに感心させられます。

 タイトルだけ拾い読みしても、歌集として楽しめます。


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私は私を降りるガラス窓の向こうの声をさえぎって雨
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心臓で私は眠れよく眠れ。光が悲しみ、部屋が病んでも
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私のもういない部屋 廻りつづける換気扇
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どうぶつがみなしずんでるみずうみできうい(とりの)がおおきいこわい
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ここからは水を泳いで重なって首のない生きものになる
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お月さまこっちを見ているねあたしのかわいい浴衣見にきたんだね
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 映画、病院、水、死、そして戦争や虐殺、といったモチーフが繰り返され、全体として一つのストーリーがあるのでは、といった印象も受けます。


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ほんとうに映画館で死んでしまったひともいてむかしN県で
積雪のおもたさに耐えきれず落ちてきた屋根の
下敷きになり生き埋めになり映画を見ていた何十人ものひとが亡くなった
そのときなんの映画をやっていたのか調べてもわからなかった
下敷きになったひとたちを、あわててスコップですくいだそうとして
たくさんの腕や脚がちぎれてしまったという
崩落したスクリーンの代わりにふりしきる雪の点状の壁にむかって
映写しつづける光
あまたの
叫び声や
うめき声が
そこかしこ響いているはずなのだが
まるで無声映画のように雪に吸い込まれてしまって無音だ
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「どうぶつがみなしずんでるみずうみできうい(とりの)がおおきいこわい」より


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崩壊した映画館にまつわる映画。スクリーンは鏡。あるいは海。スクリーンを眺めるひとをうつしつづける。「映画化不可能と言われた」などというが(誰が言うのか)、映画化できないことなどなにもないのだ。そもそも私たちが映画の中の人物でないなどと誰にいえる? スクリーンの中の私たちを見ている人たちがどこかにいないなどと。あるとき眠たい映画の(すべての映画は眠たい。)途中でうとうとして、目ざめるとスクリーンがルチオ・フォンタナの絵画のように切り裂かれている。私はその傷口から、スクリーンの向こう側へと半身をすべりこませる。「帝王切開だったの。」「ぼくも。」それぞれ産みかたと産まれかたについて話している。抜きだすとき押しだすようにしめつける。そのたびに、産んで、と私はいった。
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「秒針のない腕時計に耳あててせせらぎを聴く水無川の」より全文引用


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ほうこくがあるんだけど。バケツの底によこたわっている。いきちゃん、と名づけられた。金魚をつまみあげようとする。割り箸で。身体のやわらかさが、指さきにつたわってしまう。力を入れないとすべり落ちてしまうが、あまり力を入れると身体を潰してしまいそうで。尾ひれなら、あるていど力を入れても潰れたりしないだろうか。きんぎょはすぐしむんだよ。土を掘る。安物のプラスチックでできたおもちゃのスコップのやわらかい尖端が土にはねかえされて折れる。どうにかやっと浅い穴ができるが、半透明のビニール袋のうちがわに貼りついてしまっている。土をかぶせると、またたくまに闇にのみこまれる。おげんきでかみさまになってください。ごめんね、いきちゃん。もうすこし、まってて。
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「眠りとはたくさんの水 声のない目から目へと旅をしている」より全文引用


 構成の妙で、それぞれの詩が以前に読んだ詩と関連しているような気がしてきて、ついには『MU』や『用意された食卓』など以前の詩集から真っ直ぐに続いているような気さえしてくるのです。


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ところで、
あなたはテレビを見ますか?
いいえ私はテレビを見たことがありません。
笑ったあなたの表情を見てみてどうですか?
私は新聞でそれを見ました。私はそれを後悔しました。
自分でそのようなことをするつもりはありませんでした?
はい。
恐怖のない笑い。恐怖のない顔を食べ、娑婆で食事をする。
その時の笑い声も反映された、深くそこに、これまで
みたされてきたものに触れ、呼びたいと思って報復された。
この考え方はどう思いますか? この事実は?
私たちはそのような信念を実践しようとしたが、
彼が病気ではなかった、と仮定すると、核心が、
世界中で発展しつつある新興の外性と、どのように結びついているか?
「新しい洪水を引っ張った影を広げて、暗くなる。」
彼のメモを見ると、断片的ないろいろな言葉の、そのような通路があり、
「山で働いていた時、演説はテレビで放送されました。」
「世界は戦争を通じて、人びとの山岳地帯です。」
「そこでは、そこでだけ、真実が語られている。」
昨日、テレビで演説を見て、あの事件を見て、あなたはどう思いましたか?
どのような話をしましたか?
その時、話しましたか?
なぜ、どう思いますか?
いいえ。
私はテレビを見たことがありません。
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「病院の一日が過ぎぼんやりと火が近づいてくるガラスの海に」より


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