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『イリュミナシオン ランボーの瞬き』(勅使川原三郎、佐東利穂子) [ダンス]

『ある理性に』(詩集『イリュミナシオン』収録)より
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 おまえの指が太鼓を一打ちすると、すべての音がぶっ放され、新しいハーモニーが始まる。

 おまえが一歩踏み出すと、新しい人間たちが動員され、そして彼らの進軍とあいなる。

 おまえの頭が横を向く、新しい愛だ! おまえの頭が振り向く、――新しい愛!
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『ランボー全詩集』(アルチュール・ランボー、鈴木創士:翻訳)
河出文庫版p.97


 2017年12月10日は、夫婦でシアターχに行って勅使川原三郎さんと佐東利穂子さんによる公演を鑑賞しました。2017年7月にKARAS APPARATUSで上演された作品のシアターχバージョンです。上演時間は60分。

 最初から最後まで音響が流れ続ける舞台です。クラシックからロックまで様々な音楽の断片、喧騒や生活音、虫の音、工場かエンジンの排気音を思わせるノイズ、ときおり人の声、さらにコンピュータゲームのような各種デジタル音などがごた混ぜになったような激しいノイズが叩きつける空間を、一人の苦悩する若者が彷徨います。

 KARAS APPARATUS版に比べて舞台が広くなって、特に背面の壁が広々としているので、彷徨ってる感がさらに強調されています。

 騒音のなかで苦しみ、痙攣し、のたうち、壁や床を叩き、少し穏やかになった瞬間を逃さず壁に向かって全力で言葉を書きつける。特にこの「詩を書く」という振付が印象的で、後半になると「書こうとして書けずに脱力し膝から崩れ落ちる」という動きが繰り返され、観る者の胸を打ちます。

 ダンスの動きは大きく、激しく、いかにも情熱と、舞い上がりと、その反動に苦しむ若者の姿が浮かび上がります。来ていた上着を脱いで丸めてサッカーボールにして蹴る、といった若々しい振付も印象的。というか勅使川原三郎さんが「己の才能を持て余し、自意識に振りまわされる思春期のガキんちょ」に見えるのが凄い。


『精霊』(詩集『イリュミナシオン』収録)より
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 おお、彼の息、彼の頭、彼の疾走よ。諸形態と行動の完全さの恐るべき敏捷さ。
 おお、精神の豊穣さと宇宙の広大さよ!
 彼の肉体! 夢見られた救出、新たな暴力と交叉した恩寵の粉砕だ!
 彼の視力、彼の視力! 彼の後にはすべての昔ながらの跪拝と高尚な労苦。
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『ランボー全詩集』(アルチュール・ランボー、鈴木創士:翻訳)
河出文庫版p.156


 佐東利穂子さんは、そんな若者の姿を静かに見つめる黒衣の女として舞台に登場します。いかにも若者らしい夢想なのか、詩の霊感なのか、舞台上を滑るように静かに歩き続け、消えたり現れたりしながら、若者を翻弄するかのような彼女。その存在感はハンパなく、まるで舞台を支配しているかのようにも見えます。

 KARAS APPARATUS版に比べて衣装が少し変化しているせいか、それとも演出に工夫があるのか、ときどき老齢男性に見える瞬間があり、そんなときは「傑作と引き替えにおまえの魂を渡せ」などと若き詩人に契約を迫る悪魔のような、そんな不吉な印象を残したり。


『妖精』(詩集『イリュミナシオン』収録)より
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 そして高価な輝きよりも、冷たい感応よりも、かけがえのない書割りと時の喜びよりも、さらに優れた彼女の両目とダンス。
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『ランボー全詩集』(アルチュール・ランボー、鈴木創士:翻訳)
河出文庫版p.136


 照明効果はいつもの通り素晴らしいのですが、今作では勅使川原三郎さんが彼方の光芒(イリュミナシオン)を眩しげに見つめるというシーンが何度か繰り返されるせいで、実際には見えない光芒を観た、という印象が残ります。

 KARAS APPARATUS版では最後の最後に勅使川原三郎さんが振り上げた拳で光芒をつかむ、という演出だったと記憶していたのですが、シアターχ版では暗闇に向かって堂々と拳を突き上げて終わりました。

 このラストシーンがやっぱりかっこいい。どう見ても人生経験の浅い若者が才能にまかせて書きつけたと分かるランボーの詩が、それでも多くの人々を惹きつけてやまないのは、このどうしようもないかっこよさのおかげだよなあ、と思いました。


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