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『神よ、あの子を守りたまえ』(トニ・モリスン、大社淑子:翻訳) [読書(小説・詩)]

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 子供。新しい命は、悪や病からは免れており、誘拐、殴打、強姦、人種差別、侮辱、痛み、自己嫌悪、放棄からは保護されている。過誤はなく、すべてが善。怒りもない。
 そう彼らは信じている。
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単行本p.228


 漆黒の肌を持って生まれたせいで母親からネグレクトされた女。変質者に兄を殺された男。幼い頃にそれぞれ深く傷つけられた二人の出会いは、彼らの傷を癒すだろうか。差別と暴力と愛を正面から描く作家の最新長篇。単行本(早川書房)出版は2016年11月です。


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 二人はこの件をしくじるだろう、と彼女は考えた。二人とも痛みと苦しみの小さな悲しい物語――昔のトラブルや、人生が彼らの純粋で無垢の体に背負わせた傷――にしがみつくだろう。そして二人ともよく知っているプロットで、主題を推定し、意味を作り上げ、その源は忘れて、永遠にその物語を書き直すだろう。なんという無駄なこと! 彼女は個人的な経験から、愛することがいかに難しいか、いかに利己的で、いかにたやすくばらばらに崩壊するかを知っていた。
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単行本p.206


 漆黒の肌を持って生まれたことで両親に疎まれ、事実上ネグレクトされて育ったルーラという若い女性が主人公です。


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産院のいちばん初めのときから、赤ん坊のルーラ・アンはわたしに恥をかかせた。生まれたときの肌の色は、アフリカ系の赤ん坊でも同じだけど、すべての赤ん坊と同じような薄い色をしていた。でも、すぐ変わったのだ。わたしの目の前で青黒い色に変わったとき、気が狂いそうになった。ちょっとの間はたしかに狂っていた――一度だけ、ほんの数秒の間、わたしは毛布をあの子の顔にかぶせて、押さえつけたからだ。だが、できなかった。あの子があんな恐ろしい肌の色をして生まれてこなかったらと、どんなに願ったにしても。
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単行本p.9


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でも、わかってくれなくては、わたしはあの子を守らなければならなかった。あの子は世間を知らなかったから。自分が正しいときでさえ、強情な態度を取ったり、生意気な口をきいたりしても得るところはない。口答えをしたとか、学校で喧嘩をしたとかいうだけで少年院に入れられるかもしれない世界、雇われるのは最後でクビになるのは最初という世界では。あの子はそんなことは何一つ知らなかった。いかにその黒い肌が白人たちを怖がらせるか、でなきゃ笑って、だましてやろうと思わせるか、ということは。
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単行本p.57


 人種差別の現実を思い知らされてきた母親は、ルーラを厳しく躾けます。白人が支配する世界で致命傷を負わずに生き延びるために。「正しい」被差別者しぐさを身につけられるように。

 そんな母親に反発して家を出たルーラは、自分の武器、すなわち類まれな美貌と性的魅力を活かして社会的に成功し、金持ちのキャリアウーマンになります。


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面接用のオフィスまで歩いて行きながら、わたしは自分が起こしている効果を目で見ることができた。大きく見開かれた賛美の眼、にやにや笑いとささやき。「うわー!」「よお、ベイビー」あっという間にわたしはリージョナル・マネージャーに昇進した。「ほら、わかっただろ?」とジェリは言った。「黒は売れるんだよ。黒は、文明社会のなかでいちばんホットな商品なんだ。白人の女の子や、褐色の女の子でさえ、その種の注意を得るためには、裸にならなくちゃいけないんだからね」
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単行本p.51


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わたしは自分の優雅な黒さをすべて子供時代の幽霊たちに売り渡し、いま彼らはその支払いをしているのだ。わたしはこう言わざるをえない。これらのわたしを苦しめた人々――本人も彼らに似たことをした追随者も――がわたしを見て、羨望でよだれを垂らすよう仕向けるのは、仕返し以上の価値がある、と。それは、栄光だ。
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単行本p.78


 もちろんその「栄光」は差別に対する勝利ではなく、ただ裏返しの人種差別と容貌差別という別の差別構造に乗っかっているだけで、彼女自身は相変わらずネグレクトされ続けるのです。


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すでに成功した男たちは、わたしを勲章のように、自分たちの武勇を証明する物言わぬ輝く証拠のように扱った。彼らのうちの一人として、与えたり、助けたりする者はいなかった。わたしが考えていることに、関心を持つ者はいなかった。わたしがどういう風に見えるかということだけだ。まじめな会話だとわたしが考えているときに、冗談を言ったり、赤ん坊をあやすような話し方をしたりして、それから自尊心をもっと満足させてくれるものを他に見つけて去って行った。
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単行本p.52


 そんなルーラの前に現れたのが、ブッカーという男。彼も、兄が変質者によって性的凌辱された上で惨殺されるという凄惨な事件のせいで深い傷を負い、自分の人生を見失っていました。

 やがてルーラが子供の頃に犯した罪、母親にかまって欲しい一心でやったことが、長い歳月を経て、彼女にしっぺ返しを食らわせることに。

 暴力をふるわれ、重傷を負い、仕事を失い、ブッカーに捨てられたルーラは、さらに自分を守ってきた美貌と性的魅力が次第に失われてゆくことに気づきます。自尊心の欠如、誰からも外見しか気にかけられないがゆえに内面が未成熟のまま、そういった現実が肉体的変容という形であらわになってゆきます。


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さらなる身体的消失はなかったものの、少なくとも二カ月、あるいは三カ月間、生理がないことが気がかりだった。胸は平たくなり、脇の下の毛も陰部の毛もなくなり、穴をあけたはずの耳たぶはふさがり、体重は安定していない。彼女はおびえた小さな黒い少女に逆戻りしたという狂った考えを忘れようとしたが、忘れられなかった。
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単行本p.185


 「おびえた小さな黒い少女」に逆戻りしてゆくルーラは、仕事も、住処も、友人も、何もかも放り捨てて恋人であるブッカーを追うことに。だがその行く手には神話的な長い苦難の道のりが待っていました。はたして彼女は試練を乗り越えて恋人と再会できるのか。傷は癒されるのか。自分の人生を、自尊心を、取り戻せるのか。


 というわけで、差別と暴力がどのように人とコミュニティを歪めてゆくかを冷徹ともいえる筆致で描き、それを癒し救う力を愛は持ち得るのかを切実に問い続けてきた作家によるこの最新長篇では、児童虐待、とくに性的虐待が子供に与える傷とその深さが語られます。多くの登場人物は、直接的であれ、間接的であれ、性的虐待による被害を受けた過去を持ち、その傷が彼らの人生を歪めているのです。

 人称を自在に切り替え、様々な登場人物の視点をゆきかいながら多声的に語られる物語。魔術的なまでに冴えた小説技法を駆使して、差別も暴力も虐待もなくならないこの世界で傷はどうしたら癒せるのか、という問いと祈りに、読者は向き合い続けることになります。中篇といってもよいほどのごく短い長篇ながら、読後に深い感動に心をゆさぶられる作品です。



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『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』(河野聡子) [読書(小説・詩)]

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快適なこの部屋にみんなであつまりテレビをみる
地獄のリビングルームにテレビセットがあるなんて
完璧に首を吊るまで
だれもしらないこと
地上の人々にはひみつだ
ぜんぶここからみている
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『アンダーグラウンド・テレビジョン』より


 1952年の接近遭遇、むかれみかんの噴射、謎のほうれんそう、エアロバイク洗濯マシーン。知的でクールな言葉とデザインで、職場の鬱憤を代替エネルギーとして活用する詩集。単行本(いぬのせなか座)出版は2017年7月です。


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「お配りした資料のうち514ページをご覧ください」
などと言われた時、いっせいにページをめくる音が鳴り響く、これをどうにかできないものかと考えるのが、代替エネルギーを思考するということです。重要なのは見過ごされたまま浪費されている力なのです。
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『資料』より


 とにかくクールでない言葉はひとつも許さない、というイキオイでそこに在るような、読んでいてとてつもない高揚感に襲われる詩集です。かっこいい。この世にはまだかっこいい言葉の使い方がいっぱいあることに気づく幸せ。


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五時。サイレン。
かごの隙間をすりぬけてレシートが滑空する、紙飛行機、アフリカの空を滑空する、わたしは墜落する、飛行機になる
スーパーのビニール袋を広げながら、ほうれんそうが謎である、と、国産契約農家栽培の冷凍ものがほんものより安いのはどうしてであるのか、と、たずねられる。
五時のアフリカに謎のほうれんそうが一面に生える
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『紙飛行機』より


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八十九年のあいだに
きみは何度かクマになり何度かヒトになる
三日経ってぼくが帰ったとき
きみがクマならたき火を焚いて
きみがヒトならおかゆをつくる
八十九年のあいだにたくさんの
こどものクマとこどものヒトが育つから
三日後のぼくの席はこどものクマに占領され
おかゆはあっという間になくなるだろう
眠りにつこうとするきみのそばで
ぼくはクマになって冬眠に入るのだ
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『クマの森』より


 中間部、黒いページに白抜き文字で印字されているのが『代替エネルギー推進デモ』という連作で、「41のパートで構成されたスクリプトに基づいて上演される」戯曲という形式で41篇の詩作が並びます。出演者は「話す人」「書く人」「動く人」の三名で、実際にTOLTAのパフォーマンスとして上演されたようです。

 内容は代替エネルギー思考により身の回りにある無駄に浪費されているエネルギーを有効活用しましょうという意識高い提言ですが、実のところ職場の無理無駄村しきたりに対する鬱憤をぶちまけているような。


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電化製品の大好きな上司や夫に向っては、シュレッダーを電動にしたからといってシュレッダー作業が楽しくなるわけではないと説得しなければなりません。電動にしてシュレッダー作業が速くなれば、その分作業が楽しくなるのではなく、するはずでなかった仕事がもっと増えるだけなのはあまねく知られた事実です。
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『シュレッダー』より


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巨大穴あけパンチに使うわたしのわたしの運動エネルギーが、書類への怒り、書類のもとになった会議への怒り、などというネガティブなものにではなく、すてきな三時のおやつへ変換されるような代替エネルギーが、求められています。具体的には、どら焼き、大福、シュークリーム、イチゴパイといったものへと変換されるのがのぞましいです。
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『穴あけパンチ』より


 怒ってます。仕事できないオヤジが偉そうにするためのしりぬぐいのようなくだらない雑用ばかり押し付けられる有能な女性の怒りが紅蓮の炎となって生みだした温度差をカルノーサイクルで電力に変換するような、そんな代替エネルギーのパワーを感じます。


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みんなが認めているにも関わらずはっきり言おうとしない、めがねが持っている絶大なパワーとは、かけた人を頭がよさそうに、あるいは間抜けに見せる強力な作用です。プレゼンや上司との駆け引き、また合コンといった場面においてめがねがどのくらい強力な力を持っていることか。代替エネルギー開発において待ち望まれるのは、このめがねパワーを持ち運び可能なエネルギーに変換する技術なのです。
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『めがね』より


 という具合に、身の回りにある無駄に浪費されているものをすべて電力に変えるという視点こそが大切なのです。ダイエット発電、おにぎり発電、ラジオ体操発電、ふとんたたき発電、母さんの夜なべ発電、ホッチキス発電、すべり台発電、そして会社の意味不明な会議発電。


 続いて、古めかしい翻訳SFの香りがする詩作へと進んでゆきます。


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私はまずヘビをむき、イヌをむき、ウサギ、トラ、タヌキ、シカ、おもいつくかぎりの動物をむいてから植物にとりかかり、自分の知っている限りの花々、木の実、草、キノコをむいた。万能ナイフをむき、レンチをむき、ドライバーをむき、ロケットをむき、宇宙船をむいた。船内のあらゆるものはみかんの香りでむせかえらんばかりだった。宇宙の総体を覆う外皮に近づけば近づくほど、みかんの香りがする。そのころには私は船内にあるみかんの大きさに飽きはじめ、あのみかんそっくりの太陽をむきたい、という欲望をおさえようもなく感じていた。みかんをむくのだ! 気がつくと、私の船はむかれみかんを噴射しながら、みかん太陽の力場からゆっくりと離れはじめていた。
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『Citlallohtihca (星々のあいだに立つ)』より


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並んだ脊椎の真ん中辺りに、奇妙な隆起があるが、何も話さない。壁に押しつけてみる。けっして痛いと言わない。コールを待っているとき、代わりに痛いと言ってやることすらある。脚は右の方が長く左の方が短い。指は節が太く、1976年に四本目の指の腹に芯を刺した痕が残っている。二本目の指は、1952年の接近遭遇で負った傷が化膿し何ヶ月も痛みつづけた。今では皺のよった新しい皮膚で覆われている。
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『ブルーブック』より


 余談ですいませんが、「1952年の接近遭遇」とかいうと無闇に興奮してしまうのです。大多数の読者はアダムスキー事件のことだと思うでしょうが、1952年には、ワシントン、クラリオン、そしてもちろんフラッドウッズ、といった有名な事件がいっぱい起きまくっているのです。「1976年」が何を指しているのかはよく分かりません。イランのやつか?


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みんなの鎖は永遠にのばすべきだ。
みんなの鎖は永遠にのびるはずだ。
きっとみんなの鎖はのびつづけるだろう。
宇宙がおわるときまで、みんな川のむこうにいる。

みんなをおぼえているよ、とみんながいう。みんなをおぼえつづけるために記録をつなぐ。失敗すれば砕けた鎖の星がふる。とおくから星がふるときは、みんなをめがけて、みんなが降りしきる。あたって砕け、砕けつづける。もう夕暮れで、山口さんのエレベーターがほのあかるい海中塔にしずみ、海藻をつつくさかなたちが、海のふかいほうへおりていく。砂漠のような波のレリーフが刻まれた地層を佐々木さんの非常階段が這いながらのびる。急角度で見おろしたさきに船着き場と釣り人。そこへつうじる表階段はとてもとおい。優雅に手すりをつかみながら鈴木さんが階段をのぼる。佐々木さんの岩壁の道は木のトンネルと岩のトンネルにつづいている。くぐるとエスカレーターの銀色がひかる。小川のように一方向へながれつつ、にぶい輝きを放っている。
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『遠くから星がふる』より


 あまりのかっこよさに悶絶しそう。

 というわけで、最初から最後まで知的でクールな言葉が並ぶしびれるような詩集。付録小冊子として「いぬのせなか座/座談会5 『地上で起きた出来事はぜんぶここからみている』をめぐって」がついています。

 お問い合わせはいぬのせなか座まで。

いぬのせなか座
http://inunosenakaza.com/

通販申し込み
http://inunosenakaza.com/works.html#tsuhan



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『アスモスノクラス』(東京ELECTROCK STAIRS、KENTARO!!、高橋萌登) [ダンス]

 2017年7月17日は夫婦で吉祥寺シアターに行ってKENTARO!!率いる東京ELECTROCK STAIRSの公演を鑑賞しました。KENTARO!!を含む東京ELECTROCK STAIRSのメンバー4名、ゲスト3名、計7名で踊る90分の舞台です。

[キャスト他]

振付・音楽: KENTARO!!
出演: KENTARO!!、横山彰乃、高橋萌登、泊舞々、
山本しんじしんじ、川口真知、吉田特別


 小芝居や発話など織りまぜつつも、全力で踊り続ける90分。メンバー間の精神的連帯感の表現(体育会系だったりヒップホップだったりする)を極力排したクールで乾いた演出のもと、みんなとにかくがんがん踊ります。ひたすらかっこいい。

 各人にそれぞれソロで踊るシーンが用意されています。後半に入ってまず横山彰乃さんのソロがかっちょ良かった。怒濤の安定感というか、ゆるぎない炸裂というか、その肝の据わった強靱な動きからは凄みが感じられて、シビれます。

 続いて高橋萌登さんのソロですが、これがまた感動的で。魂吹き飛ぶような激しいダンスから一所懸命さがひしひしと伝わってきて、高揚感と不思議な切なさに目頭が熱くなります。マジで涙にじんだ。このシーンのために前半は体力を温存してたな、などと思ってしまう振り切れっぷり。

 初めて東京ELECTROCK STAIRSの公演を観た頃には、横山彰乃さんと高橋萌登さんのダンスにあまり明瞭な差を感じとれなかったのですが、今やもうまったく別物にそれぞれ進化しているよう。すげえな。

 そしてKENTARO!!さんの超絶ソロになるわけですが、ここが問題で、あまりの凄さにほとんど何も覚えてないのです。とにかく凄かった。もうヒップホップがどうのとかこうのとか関係なく、いい具合に力の抜けた飄々とした動きで、ひょいと、妖怪、なんですわ。来週のソロ公演が楽しみです。

 個人的にはこの三名に突出したインパクトを感じたのですが、泊舞々さんを始めとする他の出演者もそれぞれに気合が入っていて、圧倒される舞台でした。観客席には子供もたくさんいて、おそらくダンス教室の生徒たちだろうと思うのですが、みんな最後まで舞台に集中していたのが印象的。90分という長丁場、子供も飽きさせない演出と振付はさすがです。


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『あかむらさき』(小川三郎) [読書(小説・詩)]

――――
新月の光を浴びながら
人間的な感情など
どこかに行ってしまった様子のあなたは
自分の小魚を食べ尽くし
私の指にまで
手を出そうとするので
あまいキスをし
また海へ行こうというと
しょんぼりとうなずいたのだ。
――――
『秋夜』より


 2017年7月9日は、夫婦で江戸東京博物館に行って、詩の同人誌即売会「第21回 ポエケット」に参加しました。そこで購入したものです。あかむらさきのカバーにタイトルと目次を印刷し、その上からオレンジのカバーを(タイトルだけ見えるように)かぶせた手作り感あふれる装幀。八篇を収録した詩集です。発行は2017年7月9日。

 リズミカルな散文のような作品が並びます。奇妙なシチュエーション、どこかしんみりとした味わい。奇妙な味のショートショートとして読むことも出来そうです。


――――
どこかのじじいが
私の最後を見て
口を開けていた。
なにか意見を言いたいらしかったが
私は私の最後を遂げていただけで
なにかを訴えたいわけではなかった。

最近の若者たちは
私の最後など興味がないようで
いくら苦しいうめき声を上げようと
平然と横断歩道を渡っていく。
腕組みなんかして
なんとも偉そうだ。

私は最後をいったん停止して
自転車に乗ってもう一度手紙を出しに行った。
ポストの前でしばらく待ってみたが
やはり返事は来なかった。
――――
『路上にて』より


――――
穴の底には
穴以外には空しかなかった。
ここはもしかすると私が
ずっと来たかった場所ではなかったろうかと
しばらく考えたが
どうやらそうであるらしかった。

妙な違和感が穴にはあって
私はそこで寝そべって
空を眺めていたのだけれど
ときおり誰かが
穴の縁から覗き込んで
いぶかしげに底を見回してから
まだ誰もいない
とつぶやいて引っ込むのだった。
――――
『穴』より


 もしかして社会風刺かしらんと思わせつつとぼけた味わいで煙に巻いてしまう作品が個人的にお気に入りなのですが、不気味なシチュエーションでじわじわおびやかしてくるような作品も印象的だと思います。


――――
ふたりが挙げた手に応えるように
銀杏は身体全体でふたりに覆いかぶさった。
そのそばで両親だか他人だかが
その様子を見守っていた。

それは秋の午後
この季節には恒例の
微笑ましい光景として公園の端にあったわけだが
私にはやはり恐ろしいことのように見えた。

私はそのような決めごとになじめない。
どうにもこうにも
あってはならないことのような気がして仕方がない。
考えてみれば私は生まれてこの方
銀杏の樹に触れたことすらない。
――――
『銀杏』より


――――
部屋の外を
夜がすっぽりと包んでいた。
それは当たり前のことなのだと
いくら自分に言い聞かせても
駄目だった。

私は下着ではない。
私は下着にはなれない。
私は下着になるのがこわい。

下着は
少しずつ少しずつ乾きながら
鴨居の下にぶら下がっていた。
――――
『下着』より


 不安としんみりという相性悪そうな感情が無理なく一体化しているようで、最初に読んだときより後からじんわり気になってきます。


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『おばけ詩篇』(暁方ミセイ、装幀:カニエ・ナハ) [読書(小説・詩)]

――――
じっとり赤い牛が
むこうの木の間で見ている
顔のない人たちが
白い円盤を追い続けて
見えなくなったり
また現れたりする
――――
『赤牛記念公園』より


 2017年7月9日は、夫婦で江戸東京博物館に行って、詩の同人誌即売会「第21回 ポエケット」に参加しました。そこで購入したものです。いわゆるフランス装というのか、アンカット(袋とじ)の詩作6篇を、一冊、一冊、手作りで装幀したのはカニエ・ナハさん。発行は2017年7月9日。

 なにしろフランス装なので切らないと読めないわけですが、手元にペーパーナイフといったおしゃれな道具はなく、そこらのハサミでじょきじょき切り開いて、この世に一冊しかない自分だけのおばけ本が完成しました。能動的に読書してるなー、って実感です。

 おばけ詩篇といっても、ねないこだれだ的オバケが出てくるわけではなく、むしろ精霊や自然神のような人間と隔絶した存在に対する畏怖の念を引き起こす作品が多くなっています。


――――
木は従う
強いものに従う
わたしの命を隠しながらじろじろ眺め
ちっぽけな魂だけを
ビリジアンに落ち窪んでいく
森から追い出そうとする
夕方、夕方、
背中をおおきな掌で
どおうっと
押すもの。凄まじいもの。
――――
『天狗』より


――――
生物の構成を覗き込むような
雲の模様は
わたしの認識できる
ものの縮尺をずっと小さくしてしまって
二相にわかたれた世界の間に
光のたおやかな境界をはる
すさまじい
放射の音楽だ
巨大な横顔はけして
地上のほうに目をくれない
――――
『巨眼』より全文引用


 幽霊の気配を描いた作品も印象に残ります。決して怖いわけではないのですが、どこか置き去りにされたような心もとない感触。


――――
影に
どしん、どしん、と響くものがある
わたしの命を
突然取るもの
それを正しい瞬間に
変えるもの
――――
『七月三十日』より


――――
今朝方の雨は
こめかみを刺し
庭の濡れた草の匂いに
タイの山奥の民家や
またドイツの温泉宿の
古びた窓辺が
ここに現れるが
少し線香の香りがして
やがて途絶える
――――
『仲春暗影』より


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