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『氷菓とカンタータ』(財部鳥子) [読書(小説・詩)]

――――
海を越えて大陸から逃げ帰った 私は
  歌のなかに消えそうだ
私の故郷はもう消えたから
  合唱する友だちも消えたから

    仕方なく猫 猫 好きよ と
      つぶやき歌ってみた
       まぁるいまぁるい深い穴

     猫よ 胡弓を糸が切れるほどに弾いてくれ
        ――もうすぐ戦争が来るのだもの
――――
『引揚者の十月』より


 「時間はどこまでも深くて底がない」
 今はなき故郷、家族の記憶、博物館におさめられている過去。満州引揚者である詩人による、失われてしまった記憶のなかの故郷をめぐる詩集。単行本(書肆山田)出版は2015年10月です。


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その引揚者はなぜ話さないのでしょう
だれも信じないという海馬島の恐ろしいできごとを?
どこかに震えている女詩人を感じているわたしは
わざとらしい疑問符をくっつけて質問する
――――
『海馬島』より


 満州で育ち、13歳前後で引揚者となった詩人が、自らの記憶を掘り起こしてゆくような詩集です。まず深く印象に刻まれるのは、なにもかも凍りついた極寒と死の光景。


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どこかに瀧が隠れているようなヴァイオリンの振動が
ホールの天井へのぼっていく
少年だった女詩人はもう声が出なかった
凍れる江岸で「おーい!」と叫べなかった
叫びは少年の身のうちに凍りついていたのだろう
すべてが凍りついて深い瞑想に陥るそのとき
正しいのは凍死人だけだ
少年たちは氷の上を用心深く歩いて帰る
膝やひじの関節が凍り始めている
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『大江のゆくえ――フランクのソナタ・イ長調から』より


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女詩人は市街に飾られた氷の芸術をめぐりながら
そこに 色とりどりに
飾られた北方の人の恐怖を眺める
流人たちの絶望を指して氷雪文化の粋であると誇る
故郷の人々よ
極寒を生き延びてきた一人として
衰耄する女詩人は
それを哀しい詐術だとも言えない
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『大江のゆくえ――フランクのソナタ・イ長調から』より


 失われた故郷。


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練ミルク缶に開けた二つの穴に
貼りつけた紙のきれはしも砂で汚れて
 故郷は
 耳の穴までザラザラだ
街には黄砂がたちこめてなにも見えない
黄砂が立ち去ってもきっと見えない
 なぜなら街は滅びたのだから
――――
『帰郷』より


 そこに家族の記憶が挟み込まれてゆきます。母の記憶、父の記憶、そして弟の記憶。


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あなたが咲かせた花いっぱいのベランダを
わたしはいつの間にかすっかり枯らして
 荒れ野にしてしまった
わたしは凍っているのがとても好きになった

寒いのであなたが編んだセーターを着こんでいる
あなたがあの国へ行ってしまったことを
 わたしは決して納得しないだろう

あなたの後悔のような手編みのセーターがまだ三枚もある
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『荒れ野――母へ』より


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密偵阿形大尉、つまりわたしの父の日誌の多くは解読不能のままに公の書庫に収められた。ゴビからウスリーに至るまで広く大地を駆けめぐった彼は、あるいは敵に密通する者であったかもしれない。資料室はこの文書をすでに破棄することに決めていた。

二十六歳の父の残したノートのページは黄変してけば立っていた。八十年前のブルーのインキの文字は、石積みの大きな廃墟のように砕けた不確かな文字で命がけの何かを告げていた。
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『牙刷子』より


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あの鳥は弟
静かな雨 のちに晴れ
飢えがみんなに親しい時代
真っ黒い汽車に乗って
汚れた顔の
八歳の難民だったことがある

その弟が
もはや殉ずるものもなく
大きな骨を残して人世を去る日だ
毀れやすい空に
南風が青馬に乗って吹きつけている
――――
『来歴』より


 博物館に収められた過去の悲劇、そして現代も繰り返される悲劇。それらが遠い記憶と響き合いつつ、ありありと浮かび上がってくる様子には思わず息をのみます。


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楡の木の立っている博物館の窓から
目玉のない眼の穴が百年みていた大きな鳥

蒙古人たちは鬱蒼とした楡をカササギの木と呼んだ
かならずカササギが巣を隠している 大きな秘密を隠している
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『カササギ――旅順にて』より


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空色のアイスキャンデーには
何のシロップが使われているのか
幼い頃からの大切な謎である

スーパーで買った似て非なる氷菓を食べていると
村落のはずれで
キャンデー売りの
自転車の「氷」の旗が鐘を振る
あの記憶の音は
遠いカンタータに似ている
(オルガン チェンバロ ファゴット)
そこにさびしいキャンデー売りの鐘を混ぜて
地震で崩れた校舎の
石材の隙間にいる少年を
わたしは世界で一番さびしい子と認定しよう
――――
『氷菓とカンタータ――中国・四川大地震』より



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