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『モーアシビ 第33号』(白鳥信也:編集、川上亜紀・他) [読書(小説・詩)]

 詩、エッセイ、翻訳小説などを掲載する文芸同人誌、『モーアシビ』第33号をご紹介いたします。


[モーアシビ 第33号 目次]
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『風裂』(北爪満喜)
『四月のバスで荻窪駅まで』(川上亜紀)
『夏の姉のための三重奏』(川上亜紀)
『フユアケボノ、@GINZA』(森岡美喜)
『amaoto』(浅井拓也)
『水の貌』(白鳥信也)

散文
『古楽へのお誘い・・・いざなわれ編』(サトミセキ)
『カモシカ生息調査』(平井金司)
『新宿を歩く』(清水耕次)
『風船乗りの汗汗歌日記 その32』(大橋弘)

翻訳
『幻想への挑戦 7』(ヴラジーミル・テンドリャコーフ/内山昭一:翻訳)
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 お問い合わせは、編集発行人である白鳥信也さんまで。

白鳥信也
black.bird@nifty.com


『風裂』(北爪満喜)
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風にワンピースがねじられる
巻きあげられてゆく長い髪は
生きもののように逆巻いて
額を泳ぐ 乱れさせる
目を覆われていても 分けられたあなたの気配が伝わってくる
――――
モーアシビ第33号p.5

 場面が進むにつれて、うねりが段々と強くなり、渦巻き、ヒフを切り裂く。風の印象が鮮烈な詩作。読者を混乱させる人称代名詞のトリッキーな使い方も印象的です。


『四月のバスで荻窪駅まで』(川上亜紀)
――――
八重桜の枝が風に揺れ
消防車のサイレンが響き
明るい四月の光のなかを
バスは窓を開けたまま行く
――――
モーアシビ第33号p.8

 タイトル通りの、のどかな情景。その底から、地震がくればあっけなく失われてしまう日常のもろさ、人工物の儚さ、のような感慨が立ちのぼってくる詩作。


『夏の姉のための三重奏』(川上亜紀)
――――
どうしてもたどりつきたかった
そこへ その場所へ 高い空の彼方
その夏に飛んだ高度はいまも計測不可能だ

わたしは十六歳で空は青く青く広がり
手に楽譜を持たされたまま困っている
――――
モーアシビ第33号p.12

 失われてしまったものへの感傷をのせて三重奏曲が流れる詩作。J-POPの歌詞のような表現を巧みに配置することで、異なるイメージを描き出してゆく手際が見事。


『古楽へのお誘い・・・いざなわれ編』(サトミセキ)
――――
ピアノは感情をダイレクトに鍵盤に流し入れることができるが、たとえばチェンバロはそう簡単にはいかない。楽器と音と自分のあいだに、不思議なギャップもしくは空間があり、それをコントロールできないと音楽が成立しないのだ。
 古楽器の場合、「わたしが楽器を弾きこなす」のではない。わたしが楽器を弾いているのか、楽器にわたしが弾かれているのか。楽器と自分と作曲家の音楽が一体になり、空間にその響きがうまく溶け合って、初めて古楽器の演奏が人の心に届くものとなるのだ。
――――
モーアシビ第33号p.44

 古楽器にハマっているという著者が、その魅力を存分に語る随筆。ものすごく興味深くて、今号収録作品中で個人的に最もお気に入り。


『カモシカ生息調査』(平井金司)
――――
 新潟県教育委員会がカモシカの生息調査をやっていて、調査員に私も加わることになった。欠員の補充としての新任である。本誌に寄稿している浅井拓也さんは調査員を何年もやっているが、私を推薦してくれたのだ。
(中略)
 調査は各自八回、八五〇〇円の日当が支給される。全員が八回調査するとかなりの金額になるが、それだけ予算が計上されているわけだ。簡単な説明を受けただけで生態のことなど知らない私がまともな調査ができるはずはない。拓也さんに相談すると、報告書を出しさえすればいいのだという。
――――
モーアシビ第33号p.46

 国の特別天然記念物であるニホンカモシカ。その生息調査に参加したときの、わりと赤裸々な体験記。


『風船乗りの汗汗歌日記 その32』(大橋弘)
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帰宅後はスペクトルマンですよ。いよいよ流星仮面ですよ。この回はどちらも巨大化せず人間並みのサイズで戦う。仮面ライダーを見るような気分。流星仮面はそのネーミングに負けない大げさなマントがどうしても接近戦には邪魔だろうから、光線類の「飛び道具」で仕事をしているのだろう。ゴルゴみたいだね。二人とも表情がないので、ストーリー展開上随所で、とりわけ流星仮面には激しくあるはずの感情の揺れが、戦闘中もことさら表面化しない。(中略)うっかりすると見ていて目頭が熱くなる。やばいですな。ただ、ゴリやラーが邪悪なのを通り越してどうかすると無邪気な感すら覚えるのに比べると流星仮面は情に厚くて生真面目で、と何とも追い込まれやすいキャラクターなので、かえって遣る瀬無い気分になる。
――――
モーアシビ第33号p.56

 仕事のこと、書籍購入、読書録、旅など、つらつらと綴ってゆく身辺雑記。静かに、やや抑鬱的なトーンで語られる日々の暮らし。という文章のなかに「今日もスペクトルマン。午前中からスペクトルマン」「朝っぱらからスペクトルマン」「ストーリー、無理があるような気がするのは気のせいか…」などと生真面目に書かれているのが妙におかしい。


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『17's MAP』(構成・振付:近藤良平、コンドルズ) [ダンス]

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「け、け、……、け・ん・ぽ・う・か・い・せ・い!」
「い、い、……、い・み・ん・も・ん・だ・い!」
「い、い、……、……、……、い、いも!」
「……、も・ん・ぶ・か・が・く・だ・い・じ・ん・しょ・う・じゅ・しょ・う!」
(盛大な拍手)
――――


 2017年5月12日は、夫婦で彩の国さいたま芸術劇場に行って、近藤良平率いる大人気ダンスカンパニー「コンドルズ」の新作公演を鑑賞しました。毎年、この時期になるとさいたま芸術劇場にやってくる恒例の「地域の皆様にも初夏の風物詩として親しまれている」(劇場関係者談)コンドルズさいたま公演、第11回です。上演時間95分。

 当日はまさに開演の1時間前に埼京線が人身事故で全面運休するというアクシデントがあり、与野本町へのアクセスが断たれてしまいました。私たちは車内アナウンスを聞いてタクシーを探すべくホームに降りたのですが、その途端にドアが閉まって発車(とりあえず一駅だけ動かすことになったらしい)、小さな駅に取り残され、タクシー全滅、状況不明、というパニック状態に。

 とりあえず何とかぎりぎり開演時間に劇場に駆け込んだのですが、そこで開演を15分遅らせるというアナウンスがあり、とりあえずトイレ時間確保。

 勝山康晴さんが急遽登壇して「ぼくと尾崎豊」みたいなトークで場を持たせます。客席に向かって「コンドルズはどうでもいいけど尾崎豊を聞きにきた」という方はおられますか」と(たぶん冗談で)質問したのに対して、手が挙がったのには驚きました。尾崎ファンすげえなおい。

 結局、30分遅れで開演。大半の観客が何とか間に合ったようです。劇場関係者もコンドルズのメンバーも調整が大変だったろうと思います。ありがとうございました。

 というわけでようやく幕があがると、そこには観客席から見て左手前から舞台奥まで延々と伸びている「壁」が。プロジェクションにより無機質なコンクリート壁に見えたり、フェンスに見えたりします。存在感ならバットシェバ舞踊団のあの「壁」にも負けません。

 これまでのさいたま公演でも、圧倒的なまでの舞台の奥行きを利用した演出が恒例だったのですが、今回は最初から全開。

 で、この「壁」の前でいろいろとやらかすわけですが、何しろテーマが「17歳」ということで、思春期男子の間抜けと体力と妄想が炸裂。コンドルズのトレードマークとなっている学ランが見事に決まっています。

 逆光のなか、やたらかっこいい決めポーズの影となって佇む、という本来「お笑い」であるべき演出が、これが本当にかっこいい、という驚き。

 特殊影絵芝居はありましたが、今回は人形劇は省略。これまでの公演で用いた人形を与野本町駅で特別展示していたのと関係があるかも知れません。ないかも知れません。

 近藤良平さんが踊るシーンはいつもより多く、最後はかっこいいソロで決めてくれました。カーテンコール後、越えられないものの象徴として使われていた「壁」をさっと開いて(一部がドアのように開閉する仕掛け)退場したのには思わず笑ってしまいました。「壁」を前に蹉跌したり叫んだりしていた思春期とは違って、大人だからね。


タグ:近藤良平
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『巨大ブラックホールの謎 宇宙最大の「時空の穴」に迫る』(本間希樹) [読書(サイエンス)]

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 著者らは現在この本の執筆中も、電波望遠鏡で巨大ブラックホールを直接写真に収めようという国際プロジェクトを推進中です。世界中のミリ波サブミリ波帯の電波望遠鏡を束ねて「視力300万」という人類史上最高の性能を達成する、EHTプロジェクトです。本書のしめくくりでは、目前にせまったEHTによる観測と、それによって期待される「巨大ブラックホールの直接撮像」についても解説します。
――――
新書版p.5


 いよいよ目前に迫った、巨大ブラックホールの直接撮像。国際プロジェクトEHTに参加している著者が、200年に渡る巨大ブラックホール研究の歴史、現在までに知られていること、そして残された謎について、一般向けに解説する一冊。新書版(講談社)出版は2017年4月、Kindle版配信は2017年4月です。


東京新聞 2017年4月11日夕刊記事
「ブラックホール撮影 世界の望遠鏡が協力 プロジェクト進行中」より
――――
 天の川銀河の中心にあると考えられている超巨大ブラックホールを撮影しようと世界の電波望遠鏡で一斉に観測する国際共同プロジェクトが今月一日から十四日までの日程で行われている。日本の国立天文台などが運営する南米チリのアルマ望遠鏡のほか、米国や欧州、南極の望遠鏡が参加することで、地球サイズの仮想望遠鏡を形作り、見ることが不可能とされてきたブラックホールの輪郭を浮かび上がらせる計画だ。
(中略)
 チームは、重力の影響でブラックホールの周囲を回転する高温のガスが発する電波を観測する計画。この結果、光や電波を出さないブラックホールが黒い穴として見える可能性がある。本間希樹(まれき)・国立天文台教授(電波天文学)は「ブラックホールや周囲の現象の解明につながる」と期待している。

 得られたデータを数カ月かけて解析して組み合わせ、早ければ夏ごろに画像を公開できる見込みだ。
――――
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201704/CK2017041102000240.html


 巨大ブラックホールを直接撮影する、早ければこの夏に画像が公開される、という新聞記事を読んでぶったまげました。まじですか。

 というわけで、新聞記事にも登場した本間希樹先生の解説書を読んでみました。基礎知識から始まって、巨大ブラックホール直接撮像プロジェクトに至るまでの流れを分かりやすく解説してくれる本です。全体は10章から構成されています。


「第1章 ブラックホールとは何か?」
――――
シュバルツシルト半径は厳密には相対性理論を使って求めるべきものですが、本書での説明では相対性理論を使わずに、あくまでニュートン力学の範囲内で物事を考えています。それにもかかわらず、上で求めたブラックホールの半径は、じつは相対性理論を使って求めた場合とぴったり同じになります。これはある意味偶然なのですが、ここではそれ以上深く追求せず、ニュートン力学的な考察でよしとしておきます。
――――
新書版p.25

 ブラックホールとは何か、それはどのようにして誕生するのか。まずは基本となる知識をおさらいします。


「第2章 銀河の中心に潜む巨大な穴」
――――
 このようにブラックホールは、本体に加えて降着円盤とジェットの3つの成分がセットになっている、というのが現代の描像です。ところが、じつはこの3つの主要な成分のうち、ちゃんと撮像(画像の撮影)によって観測されているのはジェットだけです。(中略)ジェット以外の降着円盤とブラックホールはまだ分解して観測された例はなく、現代天文学でも重要なフロンティアとして残されています。
――――
新書版p.61

 銀河の中心核に存在すると考えられているブラックホール。太陽の100万倍から100億倍という途方もない質量、驚異のエネルギー解放効率、何もかも桁外れの天体「巨大ブラックホール」の特性にせまります。


「第3章 200年前の驚くべき予言」
――――
じつはブラックホールの可能性が科学的に初めて指摘されたのは、今から200年以上も前のことです。ブラックホール研究の歴史は意外に長いことに驚かれる読者の方もいらっしゃるのではないでしょうか。(中略)ミッチェルとラプラスは単にブラックホールの提唱者であるだけでなく、「巨大ブラックホールを初めて考えた科学者」でもあるのです。
――――
新書版p.64、71

 意外なことに200年前から存在の可能性が指摘されていた巨大ブラックホール。一般相対性理論に基づく現代的ブラックホール理解に至るまでの研究の歴史を概説します。


「第4章 巨大ブラックホール発見前夜」
――――
この数行の報告が、巨大ブラックホールに関連した「ジェット」を初めて直接的に捉えた記念碑的なものといえます。
 なお、このM87という天体は、本書の主題である巨大ブラックホールの研究において、現在注目度の最も高い天体の一つです。現在も頻繁にいろいろな波長の望遠鏡で観測されますし、本書の中でもこれからたびたび登場します。そして、うまくいけば、近い将来ブラックホールを「黒い穴」として初めて撮影できるのも、この天体かもしれません。このような巨大ブラックホール研究の重要天体であるM87の研究の原点も、カーチスの1918年の論文にあります。
――――
新書版p.99

 観測技術の発展により相次ぐ新発見。そのなかで、後に巨大ブラックホールとむすびついて理解されることになる活動銀河中心核と宇宙ジェットの発見について解説します。


「第5章 新しい目で宇宙を見るーー電波天文学の誕生」
――――
 観測可能な宇宙が一挙に広がって非常に遠い天体が見つかったことにより、これらの天体が途方もない大きさのエネルギーを放射していることが判明します。(中略)3C273の例に当てはめると、3C273はじつに太陽の2兆倍(!)の明るさを持つことになります。3C273は「準恒星状」の天体ですから、図2-5にあるように「点」にしか見えない小さな天体です。そのような狭い領域から、太陽2兆個分という巨大な銀河にも匹敵する莫大なエネルギーが出ているのです。
(中略)
そこでこのような天体の正体として有力な候補となってくるのが、エネルギーを効果的に解放することができる巨大ブラックホールです。宇宙からやってくる電波が発見されてからわずか30年、電波天文学の進歩とともに巨大ブラックホールの存在が現実のものとなっていきます。
――――
新書版p.138、139

 電波天文学の誕生、電波干渉計の原理、そして後に巨大ブラックホールものものと判明することになるクェーサーの発見にいたる流れを解説します。


「第6章 ブラックホールの三種の神器」
――――
 このように、クェーサーのエネルギーを説明するのにブラックホールが必要と考えられるようになり、またX線の観測での恒星質量のブラックホールの発見や、VLBIによるジェットの超光速運動の発見などと合わせて、活動銀河中心核の正体がブラックホールであるという説が確立されていきました。
 さらにこれと並行し、理論的なブラックホールの研究も進み、巨大ブラックホールの基本的な描像が確立されていきます。中心には巨大ブラックホールが存在し、そこへ降着するガスが降着円盤を形成しつつ莫大なエネルギーを放射するとともに、ガスの一部がジェットとしてそこから飛び出していく、というのが基本的な描像です。
――――
新書版p.169

 ついに明らかになったクェーサーの正体。そしてX線天文学が明らかにした恒星規模のブラックホールの存在。活動銀河中心核に存在する巨大ブラックホールの基本的な描像が確立されていくまでのプロセスを解説します。


「第7章 宇宙は巨大ブラックホールの動物園」
――――
1970年代中頃までに巨大ブラックホールの概念が基本的に確立し、活動銀河中心核は巨大ブラックホールとその周囲の降着円盤、そしてジェットという3つの成分からなるシステムとして考えられるようになりました。わずか3つの成分ですし、そこで行われていることといえば、重力によってガスを集めてブラックホールに落とすだけですから、きわめて単純なシステムということができます。ところが多くの活動銀河中心核を観測していくと、非常に多種多様な性質を持っていることが明らかになります。
(中略)
じつは、活動銀河中心核のこのような多様性を比較的簡単に説明するシナリオが提唱されています。活動銀河中心核の「統一モデル」というものです。
――――
新書版p.174、

 活動銀河中心核の多様性を説明する「統一モデル」の確立、そして活動性を示さない銀河(私たちの天の川銀河を含む)の中心部に存在する「隠れた巨大ブラックホール」の発見。巨大ブラックホールが観測の対象となるまでの動きを解説します。


「第8章 巨大ブラックホールを探せ!」
――――
ブラックホール存在のより確からしい証拠を得るためには、ブラックホールにより近いところで非常に大きな速度を測定することが鍵なのです。1990年代に入ってこれが実現した画期的なケースが、NGC4258という近傍の銀河にある活動銀河中心核と、私たちの銀河系の中心にある、いて座Aスターになります。速度を測る測定の原理は同じですが、前者はVLBIの手法を用いて、また後者は赤外線の補償光学(大気のゆらぎを打ち消す手法)の技術を用いて、それを実現しています。
――――
新書版p.197

 質量測定、降着円盤の回転速度の測定。銀河中心核に巨大ブラックホールが存在する証拠をつかむために行われてきた観測について解説します。


「第9章 進む理解と深まる謎」
――――
 ここまで見てきたように、巨大ブラックホールの存在はほぼ確実と考えられる一方で、現在でもまだまだ多くの謎が残されています。(中略)これらの謎がいまだ未解決で残っている最大の理由は、何よりも巨大ブラックホールそのものがとても小さくて観測できなかったからです。しかし、今後数年以内に巨大ブラックホールの直接撮像が実現する可能性が高まってきており、それが実現するとこれらの謎の解明も劇的に進むことでしょう。
――――
新書版p.232

 巨大ブラックホールの起源、中間質量ブラックホールの存在、連星ブラックホール合体、降着円盤からガスが供給されるメカニズムの詳細、ジェットの加速および絞り込みメカニズム、そして巨大ブラックホールの直接的観測。いまだ残されている謎と課題についてまとめます。


「第10 章 いよいよ見える巨大ブラックホール」
――――
 このようなミリ波サブミリ波帯での地球規模のVLBI観測網の実現を目指すのが、EHT(Event Horizon Telescope)と呼ばれる国際プロジェクトです。"Event Horizon"とは「事象の地平線」を意味し、これはブラックホールが「事象の地平線」で覆われていることにちなんだ名前です。文字どおりブラックホールを事象の地平線のスケール(シュバルツシルト半径)で分解し、本当に「黒い穴」であるかどうかを直接に証明することを目指しています。
(中略)
 日本でも、著者ら国立天文台の研究者を中心とするグループが、すでに10年近くこの国際プロジェクトで活動してきています。
――――
新書版p.243、246

 「月面に置いた一円玉を地球から撮影するのに匹敵する」という巨大ブラックホールの直接撮像。国際プロジェクトEHTとそこに用いられる観測技術について解説します。


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『痛覚のふしぎ 脳で感知する痛みのメカニズム』(伊藤誠二) [読書(サイエンス)]

――――
痛みに関する総説や専門書は数多くありますが、生化学・分子生物学の立場から、分子に基づいた痛みに関する一般読者向けの単行本がないことが、『痛覚のふしぎ』を書こうと思った最大の理由です。同時に、痛みの研究が成熟期にあり、今後、執筆内容が大きく変わることがないとも考えました。
――――
新書版p.5


 生活の質を著しく下げることになる「痛み」という苦痛。それはどのようなメカニズムで知覚されるのか。原因が除去されてもなお痛みが慢性的に続くことがあるのはなぜか。分子生物学の立場から見た「痛み」に関する最新研究成果を一般向けに紹介する一冊。新書版(講談社)出版は2017年3月、Kindle版配信は2017年3月です。


――――
痛みを客観的あるいは定量的に評価することは、いまもってできていません。患者の痛みの強さは図7Aに示す11段階で測る数値的スケール、長さ100mmの線を引いた細長い紙で痛みの程度を測る視覚的アナログ目盛法や質問表による心理的な評価など、主観的な評価方法に頼っているのが現状です。
(中略)
 痛みを理解する上で重要なことは、痛みが五感と異なり、不快な感覚的・情緒的体験で、慢性痛の多くは痛みの原因が体内にあり、原因が除去されないと持続すること、痛みの感じ方は個人差があり、意識レベルや情緒的な要因により変化することにあります。
――――
新書版p.52、59


 意識レベルや情緒的な要因の影響を強く受け、いまだ客観的・定量的な測定が出来ない「痛み」という感覚。しかし、分子生物学の発展により、受容体から脊髄を経て脳で処理されるまでの「痛み」のメカニズムについてはかなりの知識が得られており、その成果は鎮痛剤などの創薬に活かされています。

 本書は、この「痛み」という不思議な感覚、体験の研究成果を解説する一冊。全体は5つの章から構成されます。


「第1章 痛いとはどういうことだろう」
――――
 慢性痛には身体的、心理的、行動的、社会的な要因が密接に関与しますが、その関わり方は個人差があります。そのため、各要因の関係を明らかにして、慢性痛の症状を治療することから、慢性痛を持った患者を治療する全人的医療が必要になります。慢性腰痛で紹介した認知行動療法がその例でしょう。慢性痛の治療が成功するためには、心理的要因、社会的要因の比重が大きくなる前の侵害受容性疼痛、神経障害性疼痛の段階で適切に治療することが求められます。
――――
新書版p.55

 まず誰もが知っていながら、実は意外に分かっていない「痛み」という感覚、体験についての基礎知識をまとめます。痛みの役割、急性痛と慢性痛の違い、麻酔の発見と作用原理、そして痛みに関する総合的な理解へと進んでゆきます。

 個人的には、長引く腰痛などの慢性痛には脳の記憶が強く関与していることがあり、認知行動療法なども取り入れた全人的治療が有効、という指摘が印象的でした。


「第2章 痛みはどのように生じ、脊髄に伝えられるのだろう」
――――
 脊髄には、感覚受容器から受け取った情報を脳に送り出すニューロン(P)以外に、送り出すニューロンに働きかけて門番の役割をする介在ニューロンがあります。痛い時に痛い部位をさすることで痛みが和らぐことがあります。反対に、帯状疱疹後神経痛では、肌着がふれる、さわるだけで強い痛みが生じます。このように、脊髄には体性感覚のさまざまな情報が集まり、大脳皮質に情報を伝えるかどうかの門番の役割をしているのです。
――――
新書版p.119

 カプサイシン(トウガラシの主成分)の受容体が熱侵害受容器でもあることの発見から始まって、イオンチャネルと受容体の動作メカニズム、触受容体、化学侵害受容体、後根神経節ニューロンと感覚神経、先天性無痛症、脊髄ゲートコントロール説。侵害刺激(痛みを引き起こす強い刺激)が侵害受容器にとらえられ、その情報が脊髄まで到達するまでの仕組みを解説します。


「第3章 痛みの中枢はどこにあるのだろう」
――――
痛みにとって重要かつ興味深い問題は、「侵害刺激を受けた時に活性化され、痛みを識別する共通の脳の部位があるのだろうか」「人によって、時によって痛みの感じ方が違うのはなぜなのだろうか」「急性痛が慢性痛に変わる時に脳の中にどのような変化が起きているのだろうか」「慢性痛の患者の感情面に関わる共通の脳の部位があるのだろうか、いいかえると痛みの司令部はあるのだろうか」など、取り上げるとわからないことばかりです。
――――
新書版p.123

 受容器から脊髄まで到達し感受性レベルが決定した「痛み」は、さらに脊髄から脳へどのように伝わるのか、そして脳はどのような処理を行っているのか。「痛み」の脳への伝達経路、脳の「痛み」中枢、下行性疼痛抑制系とデフォルトモードネットワークの連結など、脳の中で生じている「痛み」の処理についての知見を解説します。


「第4章 なぜ痛みは増強し、持続するのだろう」
――――
痛みの研究が進歩することにより、痛みに伴う「脊髄の中枢性感作」に関係する分子・機構は、海馬の記憶学習で見られる長期増強など神経回路の可塑的変化に関わる分子・機構と驚くほど共通性のあることがわかってきました。
(中略)
痛みの原因が取り除かれないと、痛みは持続し、慢性化します。慢性痛では、痛みの役割は失われ、覚えなくてもいいことを学習し、脳に記憶することになります。その強度が強くなればなるほど痛みは弱い刺激でも感じるようになり、長く続きます。
――――
新書版p.187、188

 痛覚過敏反応、脊髄の中枢性感作、触刺激が痛みに変わる仕組み、記憶学習と慢性痛の関係など、痛みの持続・増強・慢性化の仕組みを解説します。


「第5章 痛みの治療はどこまで進んでいるのだろう」
――――
 痛みの研究成果が創薬と結びついて、新しい治療薬が次々と慢性痛の患者の治療に用いられています。(中略)これまで製薬会社は、化学合成した低分子化合物をスクリーニングして、その中から動物実験でその安全性と有効性を確かめ製品化してきました。しかし最近、治療薬として生物を起源とするモノクローナル抗体やワクチンといった高分子の生物製剤が脚光を浴びています。(中略)1980年代以降の分子レベルの痛み研究はめざましいものがあり、慢性痛の原因の的確な診断により、患者に合わせた治療ができる時代になっています。
――――
新書版p.192、193

 様々な痛みの治療薬・治療法を紹介し、今後の高齢化社会における意義、さらには精神の痛み(スピリチュアル・ペイン)まで、「痛み」と私たちの生活や社会との関わりを見てゆきます。


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『J・G・バラード短編全集1 時の声』(J.G.バラード、柳下毅一郎:監修、浅倉久志他:翻訳) [読書(SF)]

「二十一世紀の神話創造者」(柳下毅一郎)より
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 偉大な作家は数多い。だが、重要な作家は数少ない。J・G・バラードは二十世紀でもっとも偉大な作家ではないかもしれない。だが、彼が二十世紀においても指折りの重要な作家として名を挙げられるのはまちがいないだろう。バラードは二十世紀に生きる我々の生について書いた。我々の生のかたちは何に規定されているのか、未来のそれはいかなるかたちを取るのか。半世紀におよぶ作家生活の中で、バラードはその内容もスタイルもラディカルに変化させてきたが、問題意識はつねに変わらなかった。
(中略)
 メディアとテクノロジーに支配された現代人にとっての「自然」。それを問うことこそが二十世紀文学たるSFの意味だとバラードは考えていたし、だからバラードは二十世紀でもっとも重要な作家となりえたのである。
――――
単行本p.411、413


「序文」(マーティン・エイミス、柳下毅一郎:翻訳)より
――――
彼はくりかえし同じ疑問に立ち戻る。現代の状況は我々の精神にどんな影響を与えるのか?――ハイウェイの運動彫刻、空港の建築物、ショッピング・モールという文化、蔓延するポルノグラフィー、そして自分では理解できないテクノロジーへの依存。バラードは仮の答えとして「倒錯行為」を提出する。それはさまざまなかたちをとるが、そのすべてが(バラードはバラードであるから)極端な病理である。伝統的SFから距離を取りはじめたとき、自分は外宇宙を拒否して「内宇宙」を選んだのだと述べた。内宇宙こそ彼の縄張りだった。
(中略)
 J・G・バラードは二十世紀のもっとも独創的英国作家として記憶されることになるかもしれない。独創性の度合いを論じるのは無粋というものだろう(それはゼロか一かのどちらかなのだから)。だがバラードはなぜか独創的に独創的だった。彼はよく、作家というのは一人だけのチームなのだと言っていた(だから読者のサポートが必要なのだ)。だが彼は同時に一人だけのジャンルでもあった。彼は並ぶ者なき唯我独尊の存在だった。彼のような者は、わずかでも似た者も、どこにもいなかった。
――――
単行本p.9、12


 ニュー・ウェーブ運動を牽引し、SF界に革命を起こした鬼才。J.G.バラードの全短編を執筆順に収録する全5巻の短編全集、その第1巻。1956年のデビュー作から1961年の作品まで主に50年代に書かれた15編を収録。単行本(東京創元社)出版は2016年9月です。


[収録作品]

『プリマ・ベラドンナ』
『エスケープメント』
『集中都市』
『ヴィーナスはほほえむ』
『マンホール69』
『トラック12』
『待ち受ける場所』
『最後の秒読み』
『音響清掃』
『恐怖地帯』
『時間都市』
『時の声』
『ゴダードの最後の世界』
『スターズのスタジオ5号』
『深淵』


『プリマ・ベラドンナ』
――――
「ばか、わからんのか、あの女は詩的で、創発的で、原初の黙示の海からまっすぐにやってきた生物だ。おそらく女神かもしれん」
――――
単行本p.16

 テクノロジーと芸術と倦怠が支配する砂漠のリゾート、ヴァーミリオン・サンズを舞台としたシリーズの最初の作品。白昼夢のような魅惑的な女性、手を出してひどい目にあう語り手、歌う植物、暴走する芸術。最初からどうにもこうにもバラードとしかいいようのないデビュー短編。


『エスケープメント』
――――
「聞いてくれ! これまで二時間、同じ十五分が繰り返されるという事態が続いているんだ。時計は九時から九時十五分の間を行ったり来たりしている」
――――
単行本p.42

 TVのクソ番組を見ていた主人公は、同じシーンが何度も繰り返し放映されていることに気づく。最初は放送事故かと思ったが、ループしているのは時間そのものだった……。時間ループものの先駆的作品ですが、何しろループ間隔が極端に短いので、じたばたしてもすぐにまたTVの前に戻されて同じ番組を永遠に繰り返し観るはめになるという地獄。しかし、では現代の私たちの生活は、彼が陥った窮地とどこが異なるのでしょうか。


『集中都市』
――――
「この部屋を例にとろう。20×15×10フィートだ。その縦・横・高さを無限に拡張するんだ。なにができる?」
「再開発だ」
「無限にだよ!」
「機能しない空間だ」
「それで?」フランツが辛抱強く訊いた。
「その考え自体がばかげてる」
「なぜ?」
「存在できないからだ」
――――
単行本p.62

 何千階層もの巨大構造物の内部に存在する都市、それはありとあらゆる方向と高さに広がり、すべての空間を占めている。飛行を夢見る主人公は、この都市の「外」を目指して旅に出るが……。都市生活者の世界観を極端にした作品で、後の『ハイ・ライズ』の原点というか、『BLAME!』(弐瓶勉)のようなメガストラクチャーもの。


『ヴィーナスはほほえむ』
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成長率は加速度的だった。わたしたちは新芽が出るのを見まもった。筋交いの一つが丸く曲がるのといっしょに、小さい節こぶがクロームの鱗を破って顔をのぞかせた。一分たらずでそれは長さ一インチの若枝に育ち、太さを増し、曲がりはじめ、五分後には一人前の声量を持った十二インチの長さの音響コアに成長した。
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単行本p.85

 ヴァーミリオン・サンズを舞台としたシリーズの一編。例によって美人芸術家が創った音響彫刻が暴走して、音楽を撒き散らしながら加速度的に成長してゆく。ありがちなモンスター映画の筋立てにテクノロジーと芸術と美人をぶち込んでバラード化した作品。


『マンホール69』
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「人はどこまで自分自身に耐えられるのでしょうか? ひょっとすると、自分自身であるというショックを克服するために、人は一日八時間の休息を必要としているのかもしれません」
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単行本p.100

 脳の外科処置により睡眠を不要にする画期的な施術。その臨床実験に参加した被験者たちは、経過観察のために閉ざされた部屋で過ごしていたが……。人工不眠により人生を実質的に何十年も伸ばすというアイデアを扱った作品ですが、その副作用の主観描写(部屋の壁が四方から迫ってきて天井までの高さのマンホールに閉じ込められる、とか)が強迫的で神経症的で、強いインパクトがあります。


『トラック12』
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「三十秒間のリピート、四百マイクロセンス、増幅率は千倍。確かに、このトラックには少しばかり編集を加えてある。それは認めよう。だが、それでも、美しい音がこれほどまでに不快になりうるとは、何とも驚くべきことだ。これが何の音か、君には絶対に想像がつかないだろう」
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単行本p.130

 細胞分裂の音、空中を落下する針の空気摩擦音など、極端に微少な音を録音して拡大する「音の顕微鏡」、マイクロソニック。この技術を研究している科学者のもとを訪問した主人公は、実は科学者の妻と不倫関係にあった。「さえない理系男が、妻を寝取った相手に自分の研究分野の最新テクノロジーを用いた復讐を企てる」というミステリにありがちなプロットですが、マイクロソニックの描写が官能的で、生理的にぞわぞわする感覚を味わえます。


『待ち受ける場所』
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一万年、十万年、数え切れない千年紀がわたしの目の前をかすむ光となって通り過ぎてゆき、星々と銀河が玉虫色の瀑布となり、飛行と探査のきらめく軌道と絡みあった。
 わたしは深層時間に入っていった。
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単行本p.161

 荒涼とした辺境惑星で発見された異星人のモニュメント。その謎に挑む主人公は、「深層時間」と呼ばれる幻想の宇宙論的タイムスケールに放り出される。太陽系外の惑星を舞台にした宇宙SFですが、終焉を待ち受ける奇妙な場所と白昼夢的時間、というバラードらしいイメージにあふれた作品。


『最後の秒読み』
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そんなばかなことがあるわけない――日記とふたつの死とのあいだに関連など存在するはずがない。紙に記された鉛筆の跡は、気まぐれに引かれた黒鉛の曲線であって、それが表している観念は、わたしの心のなかにだけ存在するのだ。
 しかし、疑いと推論を検証する方法が目の前にぶらさがっているとあっては、避けるわけにはいかなかった。
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単行本p.174

 ターゲットの名前をノートに記入すれば、その人物は描写した通りに死ぬ。完全無欠な暗殺能力を手に入れた主人公は、保身のために次々と遠隔殺人を繰り返すが……。時間ループ、メガストラクチャー、人工不眠など、今でも人気のある題材の先駆的作品を書いていた初期バラードですが、50年代に『デスノート』を書いていたというのは初めて知りました。


『音響清掃』
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少なくとも、悪夢を見るということは、マダム・ジョコンダがまだ正気を失っていない証拠だ。彼女を崇拝しきっているマンゴンは、彼女に幻滅するとは思えない。毎晩、その日の仕事がすむと、彼はウェスト・サイドからさびれたF街のはずれにあるガード式交差点の下の打ち捨てられた放送局まではるばる音響トラックを運転してくるのだった。そして無料で、第二スタジオにしつらえられているマダム・ジョコンダの部屋を掃除するふりをしつづける。
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単行本p.186

 今や打ち捨てられた放送局に住みつきドラッグと妄想に溺れている往年の名歌手マダム・ジョコンダ。彼女の崇拝者である男は、建物に「染みついた」残響を消去するソノヴァック(音響真空掃除機)を使って、彼女の頭の中にしかない「音」を清掃してやる毎日を送っていたが……。

 かつての栄光を忘れられない元セレブの妄執と共犯者となる崇拝者。『サンセット大通り』のバリエーションですが、超音波音楽(耳には聴こえないが音楽を聴いた感動だけを圧縮して伝える技術)、音響清掃(壁や天井に染みついた音響断片を吸い込んで除去する掃除機)、音響処理場(音響清掃された音屑を集めて無害化する処理施設)などの異形の音響テクノロジーによる悪夢的サウンドスケープが何とも印象的な作品。


『恐怖地帯』
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 催眠術にかかったように、ラーセンも男の顔をじっとみつめた。まちがいなく見覚えがある。丸い顔、神経質そうな目、濃すぎる口ひげ。ついに男の顔をはっきり見ることができて、この世のだれよりも、知りすぎるほど知っている男だと気がついた。
 男は彼自身だったのだ。
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単行本p.238

 ドッペルゲンガーを見てしまう男。精神科医に相談するが、症状は悪化してゆき、ついに何人もの分身を同時に目撃するようになる。精神科医は荒治療を提案するが……。典型的な分身ホラー。


『時間都市』
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これほど多くの時計が存在するとは想像もしていなかった。いたるところにびっしりと設置された時計の数はあまりに多く、互いに重なり合って見分けるのも難しい個所さえある。盤面は赤や青、黄、緑など様々な色に塗られていた。大半に四本か五本の針がついていて、メインの針はすべて十二時一分で止まっているが、それ以外の針は様々な位置にある。位置はどうやら色によって決まっているようだ。
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単行本p.266

 計時行為および時計所持が違法となった時代。密かに時計を手に入れた少年がその魅力にとりつかれ、時計と時間省がすべてを支配していた時代の「時間都市」の廃墟に足を踏み入れる。そこには、時計修理人である老人がいた。

 時間に追われ、それこそ時計の歯車のように生きる、強迫神経症めいた都市生活を神話的に扱った作品。六年後にハーラン・エリスンが書く『「悔い改めよ、ハーレクィン!」とチクタクマンはいった』と比べると、その印象の違いに驚かされます。


『時の声』
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コルドレンは椅子に戻ると、募集品の列を眺めながら、物音一つたてずにすわっていた。半分眠りながらも、定期的に体を起してシャッターからさしこむ光を調節し、これから何カ月か考えることになる、さまざまなことを考えた。パワーズと彼の奇怪な曼陀羅のことを、マーキュリイ・セヴンとその乗員たちの月の白い庭園への旅行のことを、そしてオリオンから来た青い人々のこと、彼らが話したという遠い島宇宙の――今では大宇宙の無数の死の中で永遠に消え去ってしまった遠い島宇宙の、黄金の太陽の下にある古い美しい世界のことを。
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単行本p.314

 今や遺伝子そのものの寿命が尽きつつあった。異様な突然変異を続ける動植物たち。昏睡状態から覚めない患者の多発。宇宙からは終焉までの秒読みと推測される信号が送られ続け、水のないプールの底には謎めいた曼陀羅が描かれる。

 迫り来る終焉の気配。残された空白時間を白昼夢のように過ごす人々。筋の通った説明もなく、終末に抗うどころか対処するという発想すらなく、病的に充足したような静かな破滅の風景。まったくのバラードとしか言いようのない初期代表作。


『ゴダードの最後の世界』
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このミクロの世界は完璧で、絶対的な現実感にあふれ、まさに現実の街そのものといえる。
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単行本p.329

 平凡な都市生活者である男が金庫の中に隠してある箱。その中には男が住んでいる街そのもののジオラマがある。そこでは極微の住民たちが現実の街と同じように生活しているのだ。次第にジオラマと現実との区別は曖昧になり、シンクロしてゆくが……。ミクロコスモスと現実世界との同期、反転を扱った作品。


『スターズのスタジオ5号』
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 ヴァーミリオン・サンズでの一夏のあいだ、毎晩のように、美しい隣人の作る奇怪な詩が、スターズのスタジオ5号から砂漠を渡ってわたしのところへ漂ってきた。ちぎれた色テープの綛が、ばらばらになった蜘蛛の巣のように、砂の上でほどけていく。夜通し、それらのテープはバルコニーの下にある控え壁のまわりではためき、バルコニーの手摺にからみつき、そして朝になってわたしに掃き捨てられる頃には、別荘の南面へ鮮やかな桜桃色のブーゲンヴィリアのように垂れさがるのだった。
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単行本p.345

 魅惑的な美人詩人が書いた詩の断片が、大量の色テープに印刷され砂漠の上を舞い飛ぶ。自動的に詩を作りだす機械は打ち壊され、詩的霊感は増殖してゆく。テクノロジーにより暴走する芸術というこれまでの路線から、逆方向へ暴走する文学を描いたヴァーミリオン・サンズのシリーズの一編。


『深淵』
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「海はわれわれの共通記憶だ」と彼はしばしばホリデイにいった。「海を干上がらせることで、われわれは故意に自分たちの過去を抹消し、かなりの程度まで自分らしさを消し去ったのだ。それも、きみが立ち去るべき理由だよ。海がなければ、生命は維持できない。われわれは記憶の亡霊と変わらなくなってしまう」
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単行本p.395

 環境破壊により干上がってしまった海。人々が宇宙へと脱出してゆくなか、地球に留まることを選んだ男。彼は地球最後の魚を見つけるが……。海を人類の集合的無意識に見立て、その枯渇による内世界の変容を描くという、いかにもバラードらしい作品。



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