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『ウイルスは生きている』(中屋敷均) [読書(サイエンス)]


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 ヒトゲノムの解読が完了して10年以上経つのですでに旧聞にはなるが、その成果の驚きの一つはゲノム中の「遺伝子」、すなわちタンパク質になる領域が約1.5%と極めて少ないということだった。一方、本書の主役であるウイルスや転移因子などは、ヒトゲノムで増殖を繰り返し、その約45%もの領域を占めるに至っていることも同時に明らかとなっている。こうなると、我々ヒトのゲノムとは一体、誰のものなのか? という気分になる。
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新書版p.125


 それは生物なのか、単なる物質なのか。生物進化史のなかでウイルスが果たしてきた役割に焦点を当て、生命観の拡張をうながす一冊。新書版(講談社)出版は2016年3月、Kindle版配信は2016年3月です。


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我々が「ウイルス」と聞いた時に頭に浮かぶ、「災厄を招くもの」というイメージは、決してウイルスのすべてを表現したものではない。生命の歴史の中で、様々な宿主とのやり取りを続けてきたウイルスたちは、「災厄を招くもの」という表現からはかけ離れた働きをしているものが実は少なくない。(中略)ウイルスは生命のようであり、またそうでないようでもあり、「生命とは何か」を考える上で実に興味深い存在である。
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新書版p.32


 宿主を利用したり、宿主の道具として働いたり、ときには宿主の遺伝子に入り込んで一体化してしまう。ウイルスという不思議な存在に関する様々な最新知見を通して、生命観の拡張をうながす本です。次々と登場するエピソードがどれも驚きに満ちており、ときに本筋を見失うほどの面白さ。

 ウイルスだけでなく、独特のテンションで語られる研究者の描写にも、多大なるインパクトがあります。


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 マルティヌス・ベイエリンクの研究者としての特徴を一言で表現するなら「枠を突き抜けた純度の高さ」ではなかったかと思う。ベイエリンクにとっては、研究が人生のすべてだった。(中略)精度の高い実験を計画遂行する能力と、そこから得られた結論がたとえ常識外れのものであっても、正しいと信じる心の強さをベイエリンクは兼ね備えていた。それは真実を求めて幾重にも積み重ねられた彼の時間が、あたかも何かの内圧を高めるように蓄積され、枠を突き破る力となったかのように、私には映る。彼は常識の枠を越えることを目的とはしていない。ただ、何が常識かというようなことが、彼には無関係であっただけである。ベイエリンクは紛れもなく「ウイルス」という存在の、この世界での在り方を初めて発見した人間であった。
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新書版p.37、44


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 転移因子は1950年前後にアメリカの植物遺伝学者バーバラ・マクリントックによって初めてその存在が提唱された。(中略)彼女は真っ暗な闇の中にある何かに、幾度も幾度も手探りで触れ、まるでそれと一体化するように、その実体に近づいていった。そしてそれを自分の内的なビジョンに少しずつ具現化していったのだ。それは冷徹な観察と沈み込むような深い思考の繰り返しにより、原木を削って仏像を削り出すような、何か形のないところから、そこに秘められた「実体」を探り出す作業であったろう。彼女は漆黒の闇の中で、目を大きく見開いて対象を見据えることができる、明らかに何か突き抜けた研究者であった。この意味で、バーバラはウイルスを発見したマルティヌス・ベイエリンクとどこか同じ匂いがする。
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新書版p.69、71


 全体は五つの章から構成されており、その前後に序章と終章が置かれています。


『第1章 生命を持った感染性の液体』
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その発見が与えた最大の驚きは、それまで自明のものと考えられていた生命と物質の境界を曖昧にしたことである。成長する、増殖する、進化するなどの属性は生物に特有なもので、生物と物質とは明確に区別できるという常識が大きく揺らいだ。
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新書版p.49

 ウイルスの発見に至る過程を解説し、それにより自明と思われていた「生物と物質の境界」が大きく揺らいだことを示します。


『第2章 丸刈りのパラドクス』
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 ウイルス、転移因子、そしてプラスミド。これらの因子たちは、発見の経緯やよく研究されてきた典型的なメンバーの性質からくる印象の違いはあるものの、実際には一つながりとなっている。(中略)言うまでもなく、人間の作った仕切りの枠内に収まるか、収まらないかは、因子たちにとってはどうでも良いことであり、ウイルスと呼ばれようが、転移因子と呼ばれようが、プラスミドと呼ばれようが、結局の所、安定して増殖し子孫を確実に残していったものが、ただそのようにして現在も増えて存在している。恐らくそれ以上でも、それ以下でもないのだ。
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新書版p.82

 ウイルスに関する基礎知識と共に、転移因子、キャプシドを持たないウイルス、プラスミドなど生命と物質の境界に位置する存在について解説。どこまでが生物なのか、という線引きの困難さ、というより無意味さが、次第に明らかになってゆきます。


『第3章 宿主と共生するウイルスたち』
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 寄生をめぐる昆虫同士の戦いの中で、寄生バチ側はポリドナウイルスを用いて寄生しようとするし、宿主側はAPSEファージを用いて、寄生者を撃退しようとする。さながら両陣営が戦闘機のミサイルのように、ウイルスを飛び道具としてバトルを繰り広げているかのようである。
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新書版p.102

 寄生バチと獲物との激しい抗争。そこには互いにウイルスを兵器として用いる巧妙な戦術がある。ウイルスと宿主が協力関係を築いている例を解説し、「災厄を招くもの」というイメージから「他の生命と相互作用している生命の輪の一部」としてのウイルスという視点へと導いてゆきます。


『第4章 伽藍とバザール』
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 2005年には我が国の国立遺伝学研究所のグループが116種の原核生物の全ゲノム配列を用いて網羅的に水平移行遺伝子を調査した結果、驚くべきことにそれらの種では平均して14%、最も多い種で26%もの遺伝子が水平移動によって獲得されたと推定された。解析されたサンプルの規模から考えて、原核生物の世界では少なくとも遺伝子の1割以上は親からではなく、行きずりの「他人」から譲り受けるようなことが「常識」となっているようである。
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新書版p.130

 ウイルスが一役買っていると考えられる遺伝子の水平移動。種を越えて遺伝子が交換され広まってゆく現象は、生物界全体にどのように影響しているのか。ウイルスが生命進化に果たしている大きな役割を見てゆきます。


『第5章 ウイルスから生命を考える』
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確かにウイルスの多くは自己ゲノム内に代謝関連遺伝子を保有しないが、それを根拠に生物から除外することは本当に妥当なのだろうかと思う。開き直るようであるがウイルスに言わせれば、自ら代謝などせずとも、そこに自らの存在を維持できる環境があれば、それを利用して増殖して、一体何が悪いのか? お前だってアミノ酸作れないだろ、となる。
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新書版p.155

 自己の維持に必要な代謝系を外部環境に依存している、ということをもってウイルスは生物ではないと見なすのは妥当なことだろうか。逆にウイルスを含む生物進化の全体を見渡した上で「生命とは何か」を考え直す方が適切ではないか。生命観の拡張あるいは刷新を提言してゆきます。



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