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『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』(高野秀行) [読書(随筆)]


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 外国人に納豆について諄々と諭されてしまったのである。最大級の衝撃だった。納豆は日本独自の食品ではないとは思っていたものの、日本人に面と向かって訊かれるとそう答える自信がない。かたや、シャン族の人の話を聞いていると、あたかも日本が納豆文化圏における後進国のような気がしてくる。
 一体全体、シャンやカチンの納豆とは何なのだろう。
 今から考えれば、これが“アジア納豆”という未知なる大陸への入口だった。
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単行本p.9


 ミャンマー、ブータン、インド、ネパール、中国。アジアの様々な場所で食されている「納豆」。それはときに民族のアイデンティティになっているほどである。そして納豆を食べる「納豆民族」には、意外な共通点があった……。誰も行かないところへ行き、誰もやらないことをする辺境作家、高野秀行氏がアジア各地の納豆作りの現場に取材した、旨みが糸を引く一冊。単行本(新潮社)出版は2016年4月です。


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 私も妻も彼の話に圧倒された。日本人の納豆など、全く太刀打ちできない世界だからだ。日本人は納豆が好きだといっても大半の人は朝、副食としてご飯にかけるだけである。中には納豆を使った創作料理もあるが、あくまでそういう食べ方をする人もいるという程度だ。でも、シャン族はさまざまな形で食べる。おやつとして食べ、調味料として料理に入れ、結婚のときにお寺に寄進する。シャン族にとって納豆は単なる食べ物ではない。文化だ。
 感嘆する私たちにとどめを刺すように彼は言った。
「トナオは僕たちのソウルフードなんだ」
 グルは二十年前、シャン独立の夢を語ったときより自信に満ちていた。そしてなんだか得意気だった。
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単行本p.23


 日本人の多くは「納豆は日本特有の食品。ガイジンにはその旨さは分からない」「我らは納豆に選ばれし民」などと漠然と思っていますが、いやいや納豆はアジア各地で作られ、食べられていますよ、むしろ日本より豊かな納豆文化がありますよ、日本もその納豆文化圏の一員なんですよ、ということを明らかにしてくれる本です。


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 アジア納豆とは一言でいえば「辺境食」である。
 東は中国湖南省から西はネパール東部に広がる、標高五百から千五百メートルくらいの森林性の山岳地帯やその盆地に住む多くの民族によって食されている。(中略)
 納豆民族はアジア大陸部でも日本でも、納豆に対して抱く感情が驚くほど似通っている。(中略)彼らは納豆に対して「身内」のような思いを抱いている。心の中では「うちの納豆がいちばんおいしい」とか「うちの納豆こそ本物」という手前納豆意識に満ちている。シャン族やナガ族のように、「民族のアイデンティティ」としている人たちもいる。最近の日本人も同列である。
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単行本p.304、309


 とはいえ学術研究書ではなく、何しろ著者が高野秀行氏なので、とにかく現地に行って、そこの納豆を食べ、実際に作る現場と過程を見せてもらい、自分でも納豆作りや納豆料理に挑戦し、という具合に体当たりで取材してゆく、いつものめっぽう面白い探検本・体験記になっています。


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 ふつう、料理の体験取材など一、二回やれば十分だろうが、どうにもやめられないのはシャンの納豆料理には無限とも思われるバリエーションがあり興味が尽きないからだ。というより単純に「もっと食べたい」と思ってしまうのだ。(後で先輩は「いくらなんでももういいだろうと途中から思った」と語っていた)。(中略)
 十日もすると、恐ろしいことに私たちにも各地のトナオのちがいがわかるようになってしまった。豆の匂い、発酵の深さ、香りと微妙な臭み……。なぜこの明らかな違いを認識できなかったのか、今はそちらのほうがわからない。以前、ムンナイの納豆は「風味が薄すぎる」と思ったが、それも全くの無知だった。薄いのではない。品がいいのだ。
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単行本p.99、100


 どんどんアジア納豆にハマってゆく高野氏と先輩。納豆菌が脳にまわったのではないかという「発酵」具合が香ばしい。


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 私の内面に構築された納豆観は広く展開し、外側にもあふれ出した。他の人にものべつまくなしに納豆について語るようになったのもこの頃からである。妻が迷惑顔をするのは序の口で、飲み会の席上で納豆の話が止まらなくなり、ふと気づいたら他の人々全員が無言でこちらを見つめていたという状況も一度や二度ではない。(中略)
 とはいえ、私などは他人に若干の迷惑をかけるだけだから、まだマシだ。中には納豆観どころか人生観まで変わってしまった人がいた。
 竹村先輩だ。
 先輩はシャン州滞在中から、妙な思いつきにとらえられていた。それは「テレビのディレクターを辞めて、シャンのせいべい納豆売りになる」という不可解なものだった。(中略)真剣な顔で嘆く先輩を、しかし私は笑うことはできなかった。気持ちはわからないでもないのだ。いや、今やとてもよくわかるようになっていた。
 納豆はどこか人を「童心」に戻らせるところがある。それは納豆が持つ“単純なのにすごく奥深い”という性質と関係があるのかもしれない。納豆にはまだ日本人の知らないすごい可能性がある。そしてそのすごい可能性を自分で開拓できるんじゃないか、という気がするのだ。
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単行本p.128、129、130


 こうしてほぼマタンゴ状態となった著者は、ミャンマーのシャン州・カチン州、インドとミャンマーの国境地域、ネパール、中国湖南省、さらには日本各地を飛び回ることに。

 食品技術センターにミャンマーとブータンの納豆を持ち込んでその納豆菌が日本の納豆と同じであるか否かを確認してもらったり、様々な植物の葉を使った納豆作りを試してみたり、ついには日本納豆の起源を求め「日本人は縄文時代から納豆を食べていた」という大胆な仮説を検証すべく「縄文納豆」作りに挑戦したり。

 好奇心だけでどこまでも突き進む様はいつものように痛快です。その姿勢を著者はなかば無理やり納豆の起源にからめてこう記します。


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 人間は昔から未知のものに対する好奇心をもっていたと思うのだ。知らない場所に行ってみる。知らないものを探索してみる。そして、知らない植物や腐ったように見える種をなんやかんや工夫して食べられるようにしてみる。その好奇心やチャレンジ精神こそが縄文時代からの最強のサバイバル術であり、現代にまで至る人間の文化や文明をはぐくむ原動力だったのではないか。
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単行本p.135


 というわけで、全篇これ納豆づくしの本です。当初、知られざるアジア山岳部の民族を「納豆」をダシにして日本の読者に紹介するつもりだった(のに納豆そのものにハマってさあ大変)というだけあって、アジア辺境各地の旅行記としても素晴らしく、納豆を通じて世界の多様性と共通性が見えてくるところは感動的。納豆そのものが好きではない方にもお勧めします。



タグ:高野秀行
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