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『宇治拾遺物語(日本文学全集08収録)』(池澤夏樹:編集、町田康:翻訳) [読書(小説・詩)]


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 八百年とか九百年とか前の人の心はいまの人の心とはよほど違う、と普通は思うし、実際のところ、行事や風習や信仰のあり方、また、言葉遣いなどもいまとずいぶん違うはず。
 にもかかわらずおもしろいのは、人の心がいろんなものにぶつかって振動したりはじけ飛んだりするその力の働きが昔もいまもあまり変わらないからだろう。
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単行本p.473


 シリーズ“町田康を読む!”第50回。

 町田康の小説と随筆を出版順に読んでゆくシリーズ。今回は、「日本むかしばなし」の原典にして、都市伝説の元祖、ネットロアのご先祖さま、語り継がれてきた「おもろい話」の数々を収録した『宇治拾遺物語』の現代語訳。河出版『日本文学全集08』に収録されています。単行本(河出書房新社)出版は2015年9月。


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 翻訳していて、こうしたことが最初、人の口によって話され、次に文字に書き留められ、いろんな人に写されるなどして、いま現在もこれを読めるのはすごいことだなあ、と思った。たかだか二十年前に私が書いた文章はハードディスクのなかで腐ってしまっていてもはや二度と読み出せないが、千年近く前の人の心はこれまでもこれからも、『宇治拾遺物語』のなかで動作するのである。
 そのことをたいへん尊いことと思いつつ翻訳にあたっては心の動きに重きをおいて、それをわかりやすく描くために現代的な言い回しもところどころに用いた。
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単行本p.474


 こぶとりじいさん、したきりすずめ、わらしべ長者、など有名な「日本むかしばなし」をはじめとして、大量の芋粥を供されて困惑する話、巨大な鼻を蒸して足で踏むなどしてマッサージする話、「子子子子子子子子子子子子」の読み方を即答した話、「池から龍が昇天する」という立て札を立てたら大評判になって群衆が集まってきた話、など「あ、知ってる知ってる」という話が次から次へと出てくる。とにかく理屈(説教)抜きに面白い話を集めた説話集です。

 下世話な話、というか、あけすけなシモネタも多く、とにかく「ウケる話」が並んでいるところは壮観です。チンポしごかれつつ勃起を我慢する僧の話。仏事の席で小坊主が半泣きでマスターベーションを告白し一同大笑いになった話。恋人が寝室にしのんで来たと勘違いして大喜びでチンポふり立てて全裸で踊ってたら来たのは恋人の父親だった話。秘奥義「チンポ外しの術」を会得すべく修行に励む話。

 みんな、そんなに、チンポの話が好きなのか。

 千年近く語り続けるほど好きなのか。

 そして町田康さんの現代訳がこれまたすごいのです。


「偽装入水を企てた僧侶のこと」より
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 つまり、人々のために命を捨てて往生を遂げる、ということで、普通の人間にできることではなく、「えらい坊さんや」「はっきり言うて聖人やで」「聖やで」と世間で大評判になった。(中略)その尊い姿を一目見よう、と遠くからも近くからも押し寄せて、その様は、入水の聖・狂熱のライブ、みたいなことになっていた。
「うわっ、うわっ、押すな押すな。そない押したら溝ぃはまるがな」
「別に儂が押してるわけやない。儂かて後ろから押されてんにゃ」
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単行本p.345


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顔の造作も普通ではなく、角は大体の奴にあったが、口がない奴や、目がひとつしかない奴がいた。かと思うと目が二十四もあって、おまえは二十四の瞳か、みたいな奴もおり、また、目も口もないのに鼻ばかり三十もついている奴もいて、その異様さ加減は人間の想像を遥かに超えていた。
(中略)
 その一部始終を木の洞から見ていたお爺さんは思った。
 こいつら。馬鹿なのだろうか?
 そのうち、芸も趣向も出尽くして、同じような踊りが続き、微妙に白い空気が流れ始めた頃、さすがに鬼の上に立つだけのことはある。いち早く、その気配を察したリーダーが言った。
「最高。今日、最高。でも、オレ的にはちょっと違う感じの踊りも見たいかな」
 リーダーがそう言うのを聞いたとき、お爺さんのなかでなにかが弾けた。
 お爺さんは心の底から思った。
 踊りたい。
 踊って踊って踊りまくりたい。
(中略)
もう自分に嘘をつくのは、自分の気持ちを誤魔化すのは嫌だ。私はずっと踊りたかったのだ。踊りたくて踊りたくてたまらなかったのだ。いまそれがやっとわかったんだ!
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単行本p.211、213


 活き活きとしたセリフ、共感を呼ぶ心の動き。そこに「入水の聖・狂熱のライブ」とか、「おまえは二十四の瞳か」とか、思わず笑ってしまいます。千年近く前の話が、いきなり、現場から生中継、画面右上に「LIVE」と表示されている感じに。

 会話も、時空を越えて、今そこで話された言葉になっています。


「滝口道則が術を習った話」より
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「誰かいませんか」
「はい。なんでしょうか」
「実はいまね、この廊下の突き当たりの向こうの端の右に曲がった先の左の脇にね……」
「説明、めんどくさっ」
「めっさ、ええ女が一人で寝てたんですよ」
「説明、わかりやすっ」
「で、やれるかな、と思って布団に入っていったら、やらしてくれたんですよ。すっげぇ、よかったから君も行ってみたらどうかな、と思ったんだけどどうですか」
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単行本p.316


「鼻がムチャクチャ長いお坊さん」より
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「ちょっと、なにやってんのよ。バカじゃないの。も、ちょっと考えられない。こころ病んでんじゃないの。脳ミソにギョーチュー湧いてんじゃない? なんであたしが朝からお粥浴びなきゃなんないわけぇ、も、訳わかんない。早く死んでちょうだい。っていうか、これがあたしじゃなくて、もっと身分の高い人の鼻を持ち上げるときはどうするわけぇ。それでもこんなことすんの? 信じられないようなバカね。あんたはもう追放よ。早く出てって。あたしの前からいなくなって。なに、ぼおっと立ってんのよ。さ、みんな。この猿の天ぷらを追い出しておしまい」
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単行本p.251


 原典同じでも、芥川龍之介と町田康ではこうも違ってくるのか、という驚きがあります。

 セリフ以外でも、テンポの良い、流れるような現代語の語りが、実に素晴らしいのです。


「道命が和泉式部の家で経を読んだら五条の道祖神が聴きに来た」より
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 けれども道命はお坊さんである。いくらファンのご婦人が参集して入れ食い状態だからといって、そのなかの誰かと気色の良いことをするなんてことはあるはずがない。やはりそこは戒律を守り、道心を堅固にして生きていかなければならない。のだけれども、やはりそこはなんていうか、少しくらいはいいかなあ、というか、あまり戒律を守りすぎても、逆に守りきれないというか、そこはやはり、すべてか無か、みたいな議論ではなく、もっと現実に即した戒律の解釈というものが必要、という意見も一方にあるため、道命としてもこれを無視できず、少しくらいの破戒はやむを得ないという立場をとって、必要最低限度の範囲内で女性と遊んでいた。ただし、道命くらいに持てる僧だと、必要最低限度といっても、その値は結構大きく、普通の人から見れば完全にエロ坊主、という域に達していた。
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単行本p.207


「中納言帥時が僧侶の陰茎と陰嚢を検査した話」より
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 暫くして、僧はことさら厳粛な顔つきで、「さあ、こするのはもうおよろしいでしょう」と、余裕をかました感じで言った。しかし、その語尾がかすかに震えている、そこで中納言は「いい感じになってきたようです。それ、もっとこすりなさい、それそれ」とけしかけた。したところ僧は「ああ、もう、これ以上、無理無理、やめて、マジ、無理」と言った。さっきまでの、いかにも聖人めいた声とはぜんぜん違う、悲鳴のような声だった。もちろんだからといって少年はやめるわけはなく、逆に、「なんか楽しくなってきた」とか言いながらノリノリでさすり続けると、ついに陰毛のなかから怒張した巨大な陰茎が飛び出し、勢い余って下腹にぶつかってパンという音を立てた。
 そのあまりに間抜けな様子に中納言を初め、その場にいた全員が笑った。腹筋の痛みにのたうち回る者も多くあった。そして、僧本人も、もうこうなったら笑うしかなく、陰茎を怒張させたままゲラゲラ笑っていた。
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単行本p.226


 こういう感じで、ほとんど町田康さんの新作小説を読んでいるような気分に。今昔物語にはかろうじて残っていた「説教」や「教訓」といった建前も、話の面白さを前にもうどうでもいい感じになって省略されてしまったようで、さすが「説話集の脱構築」(単行本p.482)とまで言われるだけのことはあるというか。



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