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『すべての隙間にあり、隙間そのものであり、境界をも晦ます、千の内在』(笙野頼子) [読書(随筆)]



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「なんだこれ普通だよ、小説書いていれば結構知ってる事、そしてこの本は全部判らなくても、私の、味方をしてくれるようだ」
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単行本p.97


 シリーズ“笙野頼子を読む!”第102回。

 『ドゥルーズ 没後20年 新たなる転回』(河出書房新社編集部:編)に「文学者が読むドゥルーズ」の一篇として収録された小論。単行本(河出書房新社)出版は2015年10月です。


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 それは文学という具体化の起こす魔法であり哲学の卵的宇宙には成しえない誕生だ。
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単行本p.98


 『千のプラトー』をどのように小説に使ってきたか、著者自身が詳しく解説してくれる貴重な一篇です。

 たいそう失礼なことに私はいまだに千プラを読んでないのですが(本当、申し訳ありません)、それでも『居場所もなかった』『レストレス・ドリーム』『説教師カニバットと百人の危ない美女』『海底八幡宮』『だいにっほん三部作』など次々と登場する作品に、千プラがこう活かされている、振り返ってみるとこう関係していた、といった、ちらりと種明かしするような解説をつけてくれるので大興奮。


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私は今も「え? ああ、そうだ生成変化ってなんだったっけか?」とか言いながら『千のプラトー』を手に取ってみている。つまりそれは判らなくとも使えるし遊べる本だから。少なくとも広義の私小説や思弁小説を書く、私にとっては。
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単行本p.94


 導入部を別にして全体は6つの章から構成されており、それぞれテーマとなる千プラ用語が章題となっています。

 用語解説だけではなく、常に具体的な作品や社会問題をあげて、その使い方を示してくれるという親切さ。使うための千プラ。陥穽を避けるための千プラ。戦うための千プラ。

 大学で笙野教授の特別公開講座を受けているような心地。予習さぼってごめんなさい。


「0 「外」にして「内在平面」」より引用


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「ふうん、碧志摩メグ問題で海女が怒っている、何が職業差別だよ、そんなの主観でしょ、人それぞれの内面に何の意味がある?」とか言ってやがる多数派。内と外をきっちり分けられると思っていて、それを制度として押し通したい存在、それは権力だ。そして主観の集大成民主主義にこそ、少数者の切実な主観への配慮が、必要なはずなのだが。
 内にあるものは外に出てこれないか? 内にあるものは外とは違うものか? ならば、内とはゼロなのか。とんでもない!
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単行本p.95


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 心と体は分けられるか? どれが内? どれが外? 体と呼ばれるその境界自体に痛みがあり、厚みがあるのに。身体はまた、幽明を分かち、時間の流れそれ自体でもあるというのに。にも係わらず……。
 心神も因果も切断し物事をリセットし、勝ちを永遠に自分の側に留め置こうとする力、これを笙野頼子は今のところおんたこと呼んでいる。それはええとこどりにして被害者気取りであるもの。当事者を引き受けず勝ちだけを集めるもの。「鬼を外に福を内に」自分だけは「汚れ」ずにい続けながらなお、豆をぶつけられるのはいつも自分だと言い募る存在。その実態は、「捕獲装置」。
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単行本p.95


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 というか、他者とは「外」なのだ。同時に自己こそ「外」である。関係性だけで、交通だけで、論ずる事の出来る他者などどこにもない。一本の線のように文を読んでいっても、小説が読めないのと同じように。文と文を越えて単語は響きあう。
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単行本p.96


「1 プラトー」より引用


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 読む人によって意味が違い読む人によって接続が違い、主人公は主体を引き受けてぶれる事なく、読者と作者の間を多生の縁で繋ぐ。しかし描かれた日常は現実と実はまるで違う。それは言語によって隙間だらけにされ、隠れた抽象化をされたが故に普遍的膨らみを持っている世界、言表の集団的アレンジメント。読者各々の「外」を呼び込むための現実ではない現実。変容したが故にそこに他者が入る事の出来る宇宙、それが純文学=私小説、心境小説、思弁小説、他……。
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単行本p.98


「2 国家は音楽である。」より引用


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当時でさえ、国家は音楽であるというフレーズ等に納得したものだ。そう、そう、そう構造に意味はなかろう、だって、まとめる奴迷惑、鈍感だから何でも一緒くたにする。切りわけ能力がないだけのくせに、「要するにこうでしょう、何が違うんですか」。もし揚げ足取りでなければ、時に、細部は物事の本質なのだ。「なんか細かいこと怒ってるであの人また」。
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単行本p.99


「3 リゾーム」より引用


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 文とは、取るものだ、取っていくとついに自分までも取れてしまう。自分でないものが現れて発語の主体から、「俺様」がいなくなる。なのに私は残る。そういえば昔からなんとなく私はそう思っていた。自分で自分を横から殴るように批判しつつ書く時にも。
 俳句が生まれるとき、リゾームが、全ての隙間にあって隙間でもあるものがまず、接続される。リゾームだらけで隙間だらけの、それはプラトー?
 それは宇宙を呼び込む、一滴の水。
 リゾームを虫に例えると早く動く紙魚、『海底八幡宮』で私はその虫を書いた。隙間とは何か? 幅をもってそこに存在するものだ。文を削るとそこにあらわれて意味や情景を膨らませるものだ。隙間に入ってそれは隙間となる、しかも動く隙間なのでたちまち逃げ去り。交尾して繋がる。一瞬集まり一気に散る、隙間にいて隙間でもある。その隙間は逃走する。
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単行本p.100


「4 機械、マイナス一、言表の集団的アレンジメント、ニュートン批判」より引用


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「たとえばね、文学は何の役に立つのだ、という人いるよね、ああいう人にじゃあ文学って何と聞いてやると、必ずそれはストーリーと文章ですとか言ってくるの、でもそこで」。さあ使いましょう、千プラをパッと出してこういってやりなさい。
 ふーん? 小説とは? 文章? ストーリー? ソレハマタ・ナンデースカ?
 むろん、教えてやりなさい文学とは何か、それは言表の集団的アレンジメントである、と。相手は黙ります。どうせ馬鹿だから。そのような馬鹿の事を構造馬鹿と言います。芸術の本質が細部に宿る事も、知らないわけですから。構造じゃないのです「機械」というものがある。それが小説を成立させるのだ。
(中略)
 構造を越えるもの、枠組みについている色、そもそも水の流れを捕らえることが出来るか、ていうか、構造馬鹿は実は部分しか見ていない、「構造という部分」しか見ていないのです。
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単行本p.102


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 大きい問題を構造と捕らえそこからこぼれるものを無視していく、それが「革命」をつぶしてきたのでしょう。「七十年代左翼の女性差別とおばちゃんヘイトが原発を動かし、ネオリベを支えて来た」とまでは私は、今は言いません。でもむかつくからそういう小説はいくつか書きました。(中略)しかし今言った事、これはけして左翼批判ではありません。保守であれ革新であれ、エコであれフェミであれ愛護であれ、芸術であれ、その捕獲装置、つまりは大きい偽物に対する批判ということです。
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単行本p.104


「5 捕獲装置」より引用


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 碧志摩メグ問題で久しぶりにネットを見て、昔書いた「だいにっほん」シリーズに出てきたようなヲタクの人々が、少しもなくならないという事に気づいてしまった。千プラが経済の問題として書いた捕獲装置だけれど、私はこれを言説や組織、人間、全てに適用出来る考えだと思っている。結局一番気になっているのがこの捕獲装置という考え方である。つまり、
 A多くの批判が偽物しかしらぬまま本物に向けられる
 B事物の本質はいつも隠される
 C本質を隠すため偽物は大量にばらまかれる
 D本質を潰すために侮辱が繰り返される
 E核心的事物を些細な事として乱暴なコードを適用し改革は壊死していく
 とっさに書いたけどまあ、こんな感じ、もっとあるかも……。

 要するに悪貨は良貨を捕獲するのである。
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単行本p.105


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 捕獲はリセットや本質を欠いた模倣により行われる。多くは無垢な人間や土地の凌辱をともなう。そして「おんたこ」は贋の大義により「小さいもの」を殲滅するのだが、実はこの小さいものがあると連中は不安で夜も眠れない。被害と加害を逆転させてまで嫌がらせをし、攻撃して来る。実際、世界はまるでそれだけで出来ているようだ。ニセ芸術であれ悪魔の産業であれ、この穢しがなぜか大金と愚民の支持を産む。
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単行本p.105



タグ:笙野頼子
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