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『半島の地図』(川口晴美) [読書(小説・詩)]

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本当は晴れ渡った青空だとしても
蜂蜜瓶のなかに落ちた薔薇が溶けてゆくような青空だったとしても
わたしにはわからない
そのことを悲しいと感じているわけではないのに目尻から
涙がこぼれて
あたたかいと一瞬だけわかる
だけど頬に張りついた髪の毛に遮られながら首筋まで伝う頃には感覚がぼやけて
わたしの涙はわたしのものではなくなった
いいえこれまで一度だってわたしのものだったことがあっただろうか
いいえいいえわたしのものだった何かなどひとつでもあっただろうか
思い返してみようとすると何もかもが滲んで
体も体のなかにあったものもぼんやりしてくる
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『サイゴノ空』より


 こちらとあちらの境界を滴り流れゆくわたしの躰。水に潜った瞬間の、世界から切り離されてしまったような心細さ。夜の水音の詩集。単行本(思潮社)出版は2009年7月です。


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西日の時間が終わって部屋は暗くなっている
焦げついた鍋はきれいになった
手を拭いて
部屋の灯りをつける
わたしの子どもはどこにいったのだろう
非常階段にはえいえんに七歳のわたしが坐っている
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『留守』より


 私事で恐縮ですが、川口晴美さんの最新詩集『Tiger is here.』を読んでから、ごく自然な流れとしてアニメ『TIGER & BUNNY』のブルーレイディスクなど購入し、夫婦で一緒に鑑賞。気づいたときにはTVシリーズ全25話を見終わってしまい、勢いのまま二周目に入って、まあ見ているあいだ「素晴らしい。そして、素晴らしい」「感服でござる」とか互いに言い合っているぶんには微笑ましいとしても、新聞を読んでいるときなど何の脈絡もなく「タナトスの声を聴け!」とか言い出すに至ってこれはかなりマズいと自覚、心をリセットするために前の詩集を読んでみました。

 それが本書『半島の地図』です。

 『Tiger is here.』で暴れることになる猛獣が、すでにここにも潜んでいました。


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扉をあけるわたしは獣の息を吐く
座っている男を椅子から解く息だ
たちあがる男に向かってわたしのやわらかい牙は花ひらく
なにも言わないで花ひらく
耳が冷えているね
男の指の触れたところからひらくわたしの肌は汗ばんで
ちいさな水滴が背中をつるりつるり滑り
ワタシハオマエヲ嚙ミシメタイこらえる
かわりに そう指もこんなに冷えてしまったと男の首筋をなぞれば
そこは少し毛羽立った毛布のようにわたしを包み込み
あたためる
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『春雷』より


 知らない町の馴染みのないホテルで、男と密会しているらしい「わたし」が、この世とあの世の境目を、意識しないままするすると通り抜けてしまう。そんないかにもホラーっぽい状況が、水の音や感触とともに、何度も繰り返されます。


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滴り落ちる踵を床におろすわたしは夜の雫のようにゆらゆらとここにいて
なにかを思い出しそうで
見慣れない部屋のドアを開け廊下へ流れ出てしまう
古いホテルの廊下はところどころ天井が低くなっていてわたしは巨人のように
窓の外の木立を越えてくる月明かりに滲み
いくつもの寝息に閉ざされた客室と
グランドフロアへの階段と
ひそやかなエレベーターを
過ぎる
冷えた床板がかすかにきしんだ
夜の鳥が鳴くように
わたしはなにか
探しているのかもしれない喉が渇いたのかもしれないこわいゆめをみたのかもしれない
もう聞こえない声を思い出しそうになる
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『指先に触れるつめたい皺』より


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船着場はどこですか
簡単な地図はふくざつで
手のなかでくしゃくしゃに折れ曲がる
舟に乗ろうとしているのに
なぜ ビルに入って
エスカレーターで地下に下りたり
エレベーターで二階に上がったりしているのか
わからなかったけれど
自動ドアが開いた向こうに
ふいに夕暮れの川があらわれて
舟のひとに迎えられ
わたしはむずかしい舟に乗った
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『舟に乗る』より


 自分がこの世界のなかに確固とした関係性を持って存在しているという実感が持てないというか、ふわふわした諦念のようなものが、強い印象を残します。ここには、わたしのトラ、まだいないね。


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躰を運べばひとつの街は別の街にあっけなく繋がれていくのに
染み込むことができないからわたしは
目を閉じるたびに汚れて
遠いところで死んでゆく誰かのことなんて本当はわからない
わからない
世界の表面はあまりにもつるつるしている
それともざらざらしているのだろうか
つたない愛撫のように滑り流れるだけのわたしは
傷跡も残さずにいつか消える
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『通り雨』より


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なまあたたかいみずのなかを漂うような七月
駅へ向かう道の際で さっき
短い泣き声を聴いた気がした
見あげる集合住宅の窓はどれも閉ざされていて
誰かの悲鳴 それとも
快楽の叫びだったのだろうか
どんな声だったかもう思い出せない
どこからか降り注いで染み込んだ
夏の光に似た一瞬の痛みが
泳ぐ躰の内側でまだ揺れている
わたし
だったのだろうか
クッションに顔を埋めて一人で泣いたのは
静かに食器を洗いながら悲鳴をあげたのは
わたしかもしれない誰か
湿度九十パーセントの世界で
濡れた皮膚は
隔てられ眠っていたそれぞれの痛みを
浸透させてしまうから きっと
数え切れないかなしみのみずが
混じりあい ひっそりと波立つのだろう
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『月曜の朝のプールでは』より


 というわけで、水と死のイメージが反復され、苦しみや悲しみが内に染み込んでくる詩集。夜の水辺を歩くような。水に潜った瞬間の、世界から切り離されてしまった心細さのような。あと、劇場映画版のディスク2枚を注文しました。


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