『歩道橋の魔術師』(呉明益、天野健太郎:翻訳) [読書(小説・詩)]
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魔術師は、右目でわたしを睨みつけて言った。「あれは、マジックの時間のなかで起こったことだ。マジックのあいだは、かごのなかの時間と、わたしたちがいる歩道橋の時間は進み方が異なる。そのとき、誰か人間の手が、その時間に干渉したら、鳥は戻ってこない」魔術師は続けた。「鳥はその時間にとり残されたまま、戻ってこない」
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単行本p.147
1980年代、台北。台湾で最初の大規模ショッピングモール「中華商場」の歩道橋に、不思議な魔術師がいた。商場の子供たちは、みんな彼のマジックに夢中だった。それから長い歳月が流れ、すべてが変わってしまったけど、もしかしたら僕たちはみんな、今もまだ、あのときのマジックの時間のなかにいるんじゃないだろうか……。
台湾の新世代文学を代表する作家の連作短篇集。単行本(白水社)出版は2015年5月です。
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台湾文学は、これまでの大きくて重い社会や歴史とそれに対抗してのみある自分でなく、こうして静かで、ささやかな自分だけの時間を書き始めたのではないかと思った。言うなれば本作は、もはや台湾だからとか、激動の東アジア史とか、文学史的な価値がとかいうエクスキューズは必要なく、ただ静かに彼らひとりひとりが語る小説世界に浸り、その時間を生き直すよう書かれているのではないか。
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単行本p.210
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台湾文学はもとより素晴らしい。しかし、これまで日本での享受が広がりを持たなかったのも事実である。(中略)本書の静かな個の物語とその優しい言葉は、これまで台湾文学に触れたことがない読者の方、あるいは海外文学がちょっと苦手だというみなさんにも、入門篇として読んでいただけるのではないかと思う。この作品から日本での台湾文学の再評価が始まり、新しい享受が始まることについてはいたって楽観している。
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単行本p.211、212
80年代の台北を舞台とした連作短篇集です。今はなき大規模ショッピングモール「中華商場」に軒を連ねていた千軒以上の小さな商店、そこで生活していた子供たち。今や中年期を迎えている彼らが、作家の求めに応じて、あの頃の体験談を語るという体裁です。
ほぼ全員の物語に共通しているのが、謎めいた魔術師の存在。中華商場の棟と棟をつなぐ歩道橋の上で手品を披露していた彼が、子供たちにかけた本物の魔法。それから長い歳月が流れ、中華商場は取り壊され、何もかもが変わってしまった今、語り手たちは考えます。自分たちの人生は、今もマジックのなかにあるのではないか。
一つ一つの作品を読み進めるにつれて、それぞれの物語が柔らかな光を放ち、読者をマジックの時間へと包み込んでゆく様は感動的で、30年以上昔の異国の物語であるにも関わらず、まるで自分自身の過去の思い出であるかのように懐かしく感じさせる手際は実に見事。ぜひ多くの人に読んでほしい作品です。台湾文学、もとより素晴らしい。
[収録作品]
『歩道橋の魔術師』
『九十九階』
『石獅子は覚えている』
『ギラギラと太陽が照りつける道にゾウがいた』
『ギター弾きの恋』
『金魚』
『鳥を飼う』
『唐さんの仕立屋』
『光は流れる水のように』
『レインツリーの魔術師』
『歩道橋の魔術師』
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「小僧、いいか。わたしのマジックはどれも嘘だ。でも、この黒い小人だけは本当だ。本当だから、言えない。本当だから、ほかのマジックと違って、秘密なんてないんだ」
ぼくは信じなかった。魔術師はきっと本当のことを隠してるんだ。目を見ればわかる。ぼくが嘘をついたとき、母さんがいつもぼくの目を見て見破るのと同じことだ。
「嘘つくなよ!」ぼくは言った。「子供だからって嘘つくなよ!」
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単行本p.21
あの頃、中華商場の歩道橋にいた魔術師。彼の魔法は本物だったのだろうか。今や作家になった僕は、あの頃に魔術師と接していた友だち達を訪ねてまわり、彼らの物語を書き留めようとします。
『九十九階』
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マークとポーラを見ながら、トムはまた、あの不思議な失踪(と帰宅)事件を思い出していた。いや、今、目の前にいる小学校時代の親友ふたりも、二十年以上前に失踪して、どういうめぐり合わせか、こうして突然ベジタリアンレストランに現れたようなものだ。なにも違わない。
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単行本p.37
三ヶ月も行方不明になっていて、ひょっこり帰宅した子供。あのとき、いったい中華商場のどこに隠れていたというのだろうか。二十年後の今、彼は真相を教えてくれた。屋上にいた魔術師が、脱出方法を教えてくれたというのだ。そうして彼は再び現実の時間から脱出してしまう。今度は、永遠に。
『石獅子は覚えている』
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今でもよく、石獅子の夢のことを思い出す。あれは本当に夢だったのだろうか? 獅子はどうして、ぼくを彼女の家の前まで連れていったのだろうか? どうしてそれまで試したことのない「生」の鍵で、すんなり錠を開けさせてくれたのか。もし運命というものがあるのなら、彼女を十年余分に生かし、ぼくたちと共に生活させ、そして最後、やっぱり旅立たせた意味はいったいどこにあったのか?
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単行本p.67
廟を守る石の獅子に導かれ、僕は歩いていた。夜の台北、無人の歩道橋の上を。あれは夢だったのだろうか。運命はすべてそのときに決まっていたのだろうか。鍵には、ぴったりはまる錠が一つだけあるように。
『ギラギラと太陽が照りつける道にゾウがいた』
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迷っているうちに、信号が赤に変わった。台北の信号はいつもこうだ。一部の人にきっかり道路を渡らせたところで、その後続をあっさり断ち切る。つまり道を渡るとき、迷いがあってはいけないということだ。まるで、死に物狂いで完成させなければならない人生の大事が、今、そこにあるように。想像してみなよ。ギラギラと太陽が照りつける道にゾウがいて、ちょっとだけ頭を持ち上げ、疑念と憂鬱をたぎらせて道路の向こう側を見ている……
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単行本p.81
彼女を見かけたとき、僕は追いかけることが出来なかった。そのときゾウの着ぐるみを着ていたから。バイト期間が終わったとき、僕は雇い主に言った。給金の代わりにこのゾウの着ぐるみを下さい、と。だからそのゾウは今もクローゼットにいる。そして、ゾウの中にいたときの記憶だけが本物で、それ以外はすべて幻なんじゃないかという気が、今でもするんだ。
『ギター弾きの恋』
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あの夏をどうやり過ごしたかなんて、必死で思い出したところで、ただひとつの風景しか浮かんでこない。ぼくらは歩道橋の端に立って、列車が川の流れのようにカーブを切っていくのをずっと見ていた。この都市に入ってくる列車も、この都市から出ていく列車も、今、ぼくらが見ているたったこれっぽっちの線路を過ぎたら、その姿を消すのだ。
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単行本p.114
美しい少女に恋した貧しい青年。彼が持っているのはギターだけ。二人の仲が深まってゆくのを嫉妬しつつも応援していた幼い僕は、しかしこの恋が悲劇に向かっていることに気づかなかった。何もかも、確かに思えたものはすべて、幻のように消えてしまう。
『金魚』
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この都市のすべての道路は、幾度とない風雨にさらされ、なお修復されて今ある。修復の痕跡はこれほど雑然として、ひと目見るだけで、未来もまた同じでたらめを繰り返すだけだとわかるはずだ。道を渡るとき、ぼくはテレサと手をつないだ。ふたりは疲れていた。生命とは繁殖して、消えていくべきものだ。まして、ぼくらはなにも残していない。ぼくらはこんなに長く生きるべきではなかった。
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単行本p.137
魔術師が紙をなぜると、絵に描いた金魚がひしゃくに飛び込む。彼女はその金魚だけを手に、何もかも棄てて家を出た。長い歳月の後、僕は彼女と再会する。くだらない、いいかげんな人生のなかで、やっとひとつだけ残すものを、僕は見つけたのだ。
『鳥を飼う』
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わたしが悔やんでいるのはただ、あのとき、魔術師と同じように、兄の手を止められなかったこと。もし兄が触れなければ、もしかしたら本当に、すべてはマジックの時間のなかで留まっていたかもしれない。静かに、そしてなににも脅かされることなく。
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単行本p.153
わたしが飼った鳥はすべて死んでしまった。あのとき、マジックの時間のなかにいた鳥だけは、決して失われないのかも知れない。けれど、きっと私たちは、そうしてはいけないと知っているのに、マジックの時間に手を触れてしまう。
『唐さんの仕立屋』
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唐さんの体全体が歌い出すような動きに、ぼくの耳は音楽を聴いた。でも、実際には音楽なんてなく、店のなかはただ、ハサミが布を切り分け、繊維を裂く音が響いていた。そしてあの白い影のような猫は、口を閉じたまま、ただ唐さんの動きを眺めていた。一枚の布があっという間に、襟や袖や内ポケットやタックに変わっていく。今、ここでなにかが生まれ、なにかが形になろうとしている。
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単行本p.164
腕のいい仕立屋の唐さん。その傍らには、白い猫がいて、彼の仕事ぶりをずっと見ていた。あるときその猫が不意にいなくなり、唐さんは憔悴して仕事も出来なくなる。一匹の猫がいなくなるだけで、すべてが終わってしまうことがある。
『光は流れる水のように』
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完成した四棟は実に精巧にできていた。たとえば歩道橋などは、路面に吐き捨てられたチューインガムの跡までついていて、手すりのアルミの質感も、異常なまでにそっくりだった。(中略)素焼きの歩道橋には、素焼きの人がたくさんいた。ぼくは、マジックの道具を売る魔術師を囲む子供たちのなかに、自分の姿を見つけた。
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単行本p.181
模型づくりの天才が最後に取り組んだ遺作、それは今はなき中華商場の完全なミニチュアモデルだった。魔法のように精密に作られた模型のなかで、過去の時間がそのまま固定されている。彼も、そして僕も、今も夢のなかにいるのかも知れない。
『レインツリーの魔術師』
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ぼくが、歩道橋の魔術師のことを覚えてないかと訊くと、人によってはまったく覚えておらず、「歩道橋に魔術師? 本当にいた?」と訊き返してきた。もちろん覚えている人もいて、ぼくはほっと息をついたものだ。
(中略)
物語は物語によってあらかじめどう語るかが決められている。それにひきかえ記憶はただ、どう残すかだけを考えればいい。記憶は、わざわざ語られる必要はないのだから。記憶は失われた部分がつながれて、物語になったあと、初めて語られる価値を持つのだ。
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単行本p.201、202
僕は今、作家となって、友だちや知人の体験談を聞き回って、あの魔術師のことを書こうとしている。あの朝、中華商場で見た一頭のシマウマ。現実にはあり得ないはずのその記憶は、語られるためには物語にしなければならない。あの時代も、中華商場も、この都市も、そして僕たちの人生も。
魔術師は、右目でわたしを睨みつけて言った。「あれは、マジックの時間のなかで起こったことだ。マジックのあいだは、かごのなかの時間と、わたしたちがいる歩道橋の時間は進み方が異なる。そのとき、誰か人間の手が、その時間に干渉したら、鳥は戻ってこない」魔術師は続けた。「鳥はその時間にとり残されたまま、戻ってこない」
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単行本p.147
1980年代、台北。台湾で最初の大規模ショッピングモール「中華商場」の歩道橋に、不思議な魔術師がいた。商場の子供たちは、みんな彼のマジックに夢中だった。それから長い歳月が流れ、すべてが変わってしまったけど、もしかしたら僕たちはみんな、今もまだ、あのときのマジックの時間のなかにいるんじゃないだろうか……。
台湾の新世代文学を代表する作家の連作短篇集。単行本(白水社)出版は2015年5月です。
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台湾文学は、これまでの大きくて重い社会や歴史とそれに対抗してのみある自分でなく、こうして静かで、ささやかな自分だけの時間を書き始めたのではないかと思った。言うなれば本作は、もはや台湾だからとか、激動の東アジア史とか、文学史的な価値がとかいうエクスキューズは必要なく、ただ静かに彼らひとりひとりが語る小説世界に浸り、その時間を生き直すよう書かれているのではないか。
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単行本p.210
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台湾文学はもとより素晴らしい。しかし、これまで日本での享受が広がりを持たなかったのも事実である。(中略)本書の静かな個の物語とその優しい言葉は、これまで台湾文学に触れたことがない読者の方、あるいは海外文学がちょっと苦手だというみなさんにも、入門篇として読んでいただけるのではないかと思う。この作品から日本での台湾文学の再評価が始まり、新しい享受が始まることについてはいたって楽観している。
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単行本p.211、212
80年代の台北を舞台とした連作短篇集です。今はなき大規模ショッピングモール「中華商場」に軒を連ねていた千軒以上の小さな商店、そこで生活していた子供たち。今や中年期を迎えている彼らが、作家の求めに応じて、あの頃の体験談を語るという体裁です。
ほぼ全員の物語に共通しているのが、謎めいた魔術師の存在。中華商場の棟と棟をつなぐ歩道橋の上で手品を披露していた彼が、子供たちにかけた本物の魔法。それから長い歳月が流れ、中華商場は取り壊され、何もかもが変わってしまった今、語り手たちは考えます。自分たちの人生は、今もマジックのなかにあるのではないか。
一つ一つの作品を読み進めるにつれて、それぞれの物語が柔らかな光を放ち、読者をマジックの時間へと包み込んでゆく様は感動的で、30年以上昔の異国の物語であるにも関わらず、まるで自分自身の過去の思い出であるかのように懐かしく感じさせる手際は実に見事。ぜひ多くの人に読んでほしい作品です。台湾文学、もとより素晴らしい。
[収録作品]
『歩道橋の魔術師』
『九十九階』
『石獅子は覚えている』
『ギラギラと太陽が照りつける道にゾウがいた』
『ギター弾きの恋』
『金魚』
『鳥を飼う』
『唐さんの仕立屋』
『光は流れる水のように』
『レインツリーの魔術師』
『歩道橋の魔術師』
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「小僧、いいか。わたしのマジックはどれも嘘だ。でも、この黒い小人だけは本当だ。本当だから、言えない。本当だから、ほかのマジックと違って、秘密なんてないんだ」
ぼくは信じなかった。魔術師はきっと本当のことを隠してるんだ。目を見ればわかる。ぼくが嘘をついたとき、母さんがいつもぼくの目を見て見破るのと同じことだ。
「嘘つくなよ!」ぼくは言った。「子供だからって嘘つくなよ!」
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単行本p.21
あの頃、中華商場の歩道橋にいた魔術師。彼の魔法は本物だったのだろうか。今や作家になった僕は、あの頃に魔術師と接していた友だち達を訪ねてまわり、彼らの物語を書き留めようとします。
『九十九階』
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マークとポーラを見ながら、トムはまた、あの不思議な失踪(と帰宅)事件を思い出していた。いや、今、目の前にいる小学校時代の親友ふたりも、二十年以上前に失踪して、どういうめぐり合わせか、こうして突然ベジタリアンレストランに現れたようなものだ。なにも違わない。
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単行本p.37
三ヶ月も行方不明になっていて、ひょっこり帰宅した子供。あのとき、いったい中華商場のどこに隠れていたというのだろうか。二十年後の今、彼は真相を教えてくれた。屋上にいた魔術師が、脱出方法を教えてくれたというのだ。そうして彼は再び現実の時間から脱出してしまう。今度は、永遠に。
『石獅子は覚えている』
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今でもよく、石獅子の夢のことを思い出す。あれは本当に夢だったのだろうか? 獅子はどうして、ぼくを彼女の家の前まで連れていったのだろうか? どうしてそれまで試したことのない「生」の鍵で、すんなり錠を開けさせてくれたのか。もし運命というものがあるのなら、彼女を十年余分に生かし、ぼくたちと共に生活させ、そして最後、やっぱり旅立たせた意味はいったいどこにあったのか?
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単行本p.67
廟を守る石の獅子に導かれ、僕は歩いていた。夜の台北、無人の歩道橋の上を。あれは夢だったのだろうか。運命はすべてそのときに決まっていたのだろうか。鍵には、ぴったりはまる錠が一つだけあるように。
『ギラギラと太陽が照りつける道にゾウがいた』
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迷っているうちに、信号が赤に変わった。台北の信号はいつもこうだ。一部の人にきっかり道路を渡らせたところで、その後続をあっさり断ち切る。つまり道を渡るとき、迷いがあってはいけないということだ。まるで、死に物狂いで完成させなければならない人生の大事が、今、そこにあるように。想像してみなよ。ギラギラと太陽が照りつける道にゾウがいて、ちょっとだけ頭を持ち上げ、疑念と憂鬱をたぎらせて道路の向こう側を見ている……
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単行本p.81
彼女を見かけたとき、僕は追いかけることが出来なかった。そのときゾウの着ぐるみを着ていたから。バイト期間が終わったとき、僕は雇い主に言った。給金の代わりにこのゾウの着ぐるみを下さい、と。だからそのゾウは今もクローゼットにいる。そして、ゾウの中にいたときの記憶だけが本物で、それ以外はすべて幻なんじゃないかという気が、今でもするんだ。
『ギター弾きの恋』
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あの夏をどうやり過ごしたかなんて、必死で思い出したところで、ただひとつの風景しか浮かんでこない。ぼくらは歩道橋の端に立って、列車が川の流れのようにカーブを切っていくのをずっと見ていた。この都市に入ってくる列車も、この都市から出ていく列車も、今、ぼくらが見ているたったこれっぽっちの線路を過ぎたら、その姿を消すのだ。
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単行本p.114
美しい少女に恋した貧しい青年。彼が持っているのはギターだけ。二人の仲が深まってゆくのを嫉妬しつつも応援していた幼い僕は、しかしこの恋が悲劇に向かっていることに気づかなかった。何もかも、確かに思えたものはすべて、幻のように消えてしまう。
『金魚』
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この都市のすべての道路は、幾度とない風雨にさらされ、なお修復されて今ある。修復の痕跡はこれほど雑然として、ひと目見るだけで、未来もまた同じでたらめを繰り返すだけだとわかるはずだ。道を渡るとき、ぼくはテレサと手をつないだ。ふたりは疲れていた。生命とは繁殖して、消えていくべきものだ。まして、ぼくらはなにも残していない。ぼくらはこんなに長く生きるべきではなかった。
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単行本p.137
魔術師が紙をなぜると、絵に描いた金魚がひしゃくに飛び込む。彼女はその金魚だけを手に、何もかも棄てて家を出た。長い歳月の後、僕は彼女と再会する。くだらない、いいかげんな人生のなかで、やっとひとつだけ残すものを、僕は見つけたのだ。
『鳥を飼う』
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わたしが悔やんでいるのはただ、あのとき、魔術師と同じように、兄の手を止められなかったこと。もし兄が触れなければ、もしかしたら本当に、すべてはマジックの時間のなかで留まっていたかもしれない。静かに、そしてなににも脅かされることなく。
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単行本p.153
わたしが飼った鳥はすべて死んでしまった。あのとき、マジックの時間のなかにいた鳥だけは、決して失われないのかも知れない。けれど、きっと私たちは、そうしてはいけないと知っているのに、マジックの時間に手を触れてしまう。
『唐さんの仕立屋』
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唐さんの体全体が歌い出すような動きに、ぼくの耳は音楽を聴いた。でも、実際には音楽なんてなく、店のなかはただ、ハサミが布を切り分け、繊維を裂く音が響いていた。そしてあの白い影のような猫は、口を閉じたまま、ただ唐さんの動きを眺めていた。一枚の布があっという間に、襟や袖や内ポケットやタックに変わっていく。今、ここでなにかが生まれ、なにかが形になろうとしている。
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単行本p.164
腕のいい仕立屋の唐さん。その傍らには、白い猫がいて、彼の仕事ぶりをずっと見ていた。あるときその猫が不意にいなくなり、唐さんは憔悴して仕事も出来なくなる。一匹の猫がいなくなるだけで、すべてが終わってしまうことがある。
『光は流れる水のように』
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完成した四棟は実に精巧にできていた。たとえば歩道橋などは、路面に吐き捨てられたチューインガムの跡までついていて、手すりのアルミの質感も、異常なまでにそっくりだった。(中略)素焼きの歩道橋には、素焼きの人がたくさんいた。ぼくは、マジックの道具を売る魔術師を囲む子供たちのなかに、自分の姿を見つけた。
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単行本p.181
模型づくりの天才が最後に取り組んだ遺作、それは今はなき中華商場の完全なミニチュアモデルだった。魔法のように精密に作られた模型のなかで、過去の時間がそのまま固定されている。彼も、そして僕も、今も夢のなかにいるのかも知れない。
『レインツリーの魔術師』
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ぼくが、歩道橋の魔術師のことを覚えてないかと訊くと、人によってはまったく覚えておらず、「歩道橋に魔術師? 本当にいた?」と訊き返してきた。もちろん覚えている人もいて、ぼくはほっと息をついたものだ。
(中略)
物語は物語によってあらかじめどう語るかが決められている。それにひきかえ記憶はただ、どう残すかだけを考えればいい。記憶は、わざわざ語られる必要はないのだから。記憶は失われた部分がつながれて、物語になったあと、初めて語られる価値を持つのだ。
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単行本p.201、202
僕は今、作家となって、友だちや知人の体験談を聞き回って、あの魔術師のことを書こうとしている。あの朝、中華商場で見た一頭のシマウマ。現実にはあり得ないはずのその記憶は、語られるためには物語にしなければならない。あの時代も、中華商場も、この都市も、そして僕たちの人生も。
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