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『アウトサイダー・アート入門』(椹木野衣) [読書(教養)]

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独学の美術家たちの作品をいろいろと調べていくと、予備的な知識を媒介としなくても、突き刺さるように強烈で、心の奥底まで飛び込んでくる作品に突き当たることが多い。そういう強烈な作品をやむにやまれず独学で作り上げてしまうひとたちというのは、やはり、なにかめったにない特別な体験をくぐり抜けていたり、一般のひとからは窺い知れない特別なスキルを持っていたりすることが多い。
(中略)
こうしたことから、アウトサイダー・アートの担い手の比率は、結果的に無名者や犯罪者、精神病患者や幻視者たちが多くならざるをえないのである。
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Kindle版No.162

 何十年もかけて積み上げられた石や鉄くずによる廟や塔、ゴミ屋敷から発見された膨大な架空戦記、隅から隅まで白いタイルで埋め尽くされた家。正規の美術教育を受けてない独学の「美術家」が創り出した、はたして「作品」と言ってよいのかどうかも定かでない、唯一無二の存在。観るものに衝撃を与えずにはいられないアウトサイダー・アートとは何なのかを追求する一冊。新書版(幻冬舎)出版は2015年3月、Kindle版配信は2015年4月です。


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家族からは奇異の目で見られ、隣人からは「狂人」扱いされ、現世で評価されようがされまいが、後世に残ろうが残るまいが、そんなことは一顧だにせず、何十年にもわたって「妄想」の現実化のため日夜、身を粉にして邁進するのである。このように、アウトサイダー・アートをめぐって常人には窺い知れぬことがあるとしたら、それは構想そのものよりも、尋常ならざる実行力のほうである。
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Kindle版No.1648

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アウトサイダー・アートを見るときに私たちが感じる驚愕やショックは、対象そのもののなかだけにあるというより、「ひとは潜在的にアウトサイダーでありうる」という事実に気付くことができる能力が、自分のなかに備わっていたことへの新鮮な驚きなのだ。
(中略)
これまで培ってきた固定観念----美術は才能のある一部の者だけのもの----を根底から揺さぶられ、かつてない衝撃を受けるのである。それは鑑賞などというもったいぶった学習態度などよりも、むしろ思いがけない事故との遭遇のようなものかもしれない。
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Kindle版No.406


 様々なアウトサイダー・アートを紹介してくれる入門書ですが、個々の作品の解説は控えめで、むしろその「作者」であるアウトサイダーたちの人生に注目し、彼らの尋常ならぬ創作意欲の、というより強迫観念のような強烈な何かの、根源を探ってゆくところが印象的です。


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アウトサイダー・アートの担い手は、ものを作ることにかけては、そこらの作家など比べ物にならないほど激しい表現への衝動を抱き、不可能を可能にするくらい己の目指す世界の実現へと没頭しても、反面、その創作物の価値を他人に認められたい、その対価に見合うだけの富や名声を得たいという、作家としてごくごく当たり前の欲望がはなから欠けていることが多いのである。
 したがって、本来ならばアウトサイダー・アートとして評価することが可能な創作物のうち、かなりのものが誰にも知られず、その価値を問われることもなく、歴史の闇へと消えていった可能性は相当に高い。
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Kindle版No.1266


 また、体系化され、あえていうなら無害化された公的な美術界(内輪)とアウトサイダー・アートとのせめぎ合いの解説も情熱的です。アウトサイダー・アートを排除しつつ、分断し、その一部だけをきれいにして回収し、利用してやろうとする美術界。それに頑として抗うもの。


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アウトサイダー・アートは美術の内輪から周到に排除され、ときに利用され、もっと強いことばを使えば----かつて重度の障害者や病者が特殊な施設に集められ健常者の社会に「漏れ出ないように」されたように----なかば意図的に「隔離」されてきたのである。
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Kindle版No.210

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ほんとうのところ、かれらの作り出すものが作品であるか、はたしてかれらが作家であるかについては、判断を慎重に留保しなければならない。そこへの配慮や批評を欠けば、アウトサイダー・アートはやすやすと内輪のもとへと回収され、歴史的な由来や力の源泉を失ってしまう。アール・ブリュットとて同様だろう。
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Kindle版No.244


 論考が深まるにつれて、アウトサイダー・アートは「特殊なアート」ではなく、むしろこれこそが本来のアートではないのか、という逆転へと到達するところは、読んでいてどきどきします。


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真っ当な美術教育を受けた健常者であっても、アウトサイダー・アーティストとしか呼びようのない存在はれっきとしてこの世界に存在する。もっといえば、私たちが一対一で真剣に対峙しなければならないアーティストは、そのことごとくがアウトサイダー・アーティスト以外ではありえない。
 なぜか。アーティストであることを突き詰めれば、その人物がどのような属性のもとにあるかとはまったく無縁に、不可避的にこの世界に居場所がなく、ゆえに孤独であるほかないからだ。
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Kindle版No.2690

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せんじつめればアウトサイダー・アートとは、ひとの生から絶対になくすことができない負の宿命と、たったひとりで拮抗するためにこそ存在する。けれども考えてみれば、それこそが芸術のもっとも根源的な姿なのではあるまいか。
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Kindle版No.3538

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つまり、宗教に託されている「信仰」のような他者性さえ及ばぬほどの苦しみがひとの生に訪れたとき、初めて扉が開かれるような性質のものなのだ。だからこそ、社会的に認知された芸術のなかに局所的にアウトサイダー・アートの閉域があるのではなく、かえって芸術そのものが社会からのアウトサイダーたちによる営みなのである。それが正道(イン)に対する外道(アウト)と称されるのは、社会や国家といった管理者の側から芸術を見ているからにすぎない。
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Kindle版No.3549


 何が人をアウトサイダー・アーティストにするのか。いや、なぜ人はアーティストになるのか。天賦の才能なのか、それとも人生体験によるものなのか。具体例の解説にしても、ただ漫然と並べて紹介するのではなく、そのような問題意識に貫かれているため、全体として統一感が強く感じられます。


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みなどこかで孤立し、好むと好まざるとにかかわらず、社会からの隔離のやむなき宿命を生きている。本章で触れている山下清らの八幡学園の子どもたちはもちろん、奄美の島に移りハンセン病患者の療養施設のかたわらに身を置いて絵に没入した田中一村、手押しの一輪車と小さな犬だけを心の友に日夜、石を運び続けたフェルディナン・シュヴァル、40年にわたって小さなアパートの一室で壮大な戦争を自作自演したヘンリー・ダーガー、突如として噴火した火山に心身ともに引き寄せられ、ついには私財を投じて購入してしまった三松正夫、想像を絶する貧困を女手ひとつで生き抜き、座敷牢で神懸かりになった出口なお、幼少の頃から父と愛人の裏切りに遭い、安息の場所であるはずの家が牢獄となってしまったルイーズ・ブルジョワ、戦争によるトラウマから目指した庭師の道を絶たれ、自宅をひたすら白いタイルで埋め尽くすことに取り憑かれてしまったジャン=ピエール・レイノー……。
 こうした隔離から生まれるのは、それが集団的なものであれ孤絶的なものであれ、公的なものであれ私的なものであれ、社会的な価値観からの分断にほかならない。そこでは、一般の社会のなかで通用している常識が及ばないだけではなく、隔離されたなかでしか通用しない非常識が、いつのまにか唯一無二の常識となる。
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Kindle版No.3810

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 孤絶だけではない----こうして本書で取り上げたアウトサイダー・アーティストたちを振り返ったとき、かれらのいずれもが、想像を絶するような心苦や虐待、喪失や貧困、さらには戦争や震災による被災や流浪を余儀なくされていることに気付かされるのである。渡辺金蔵の精神に最初の失調をもたらし、幼い山下清の身に起きた命にかかわるほど深刻な体調不良は、いずれも関東大震災による罹災や避難の渦中で起こっている。昭和新山の造山活動をたび重なる噴火と溶岩ドームの形成の渦中で記録・観察し、最終的には山を買い取るに至る片田舎の郵便局長、三松正夫は、戦争で実子を繰り返し奪われている。物心がつく前にお産がきっかけで母を失い、唯一血を分けた妹とその顔さえ見覚えないまま生き別れたヘンリー・ダーガーは、永遠に消された妹の姿を印刷物のなかに探し続け、やがてそれはヴィヴィアン姉妹と化して壮大な戦争の物語へと昇華された。生死の境をさまようほどの飢餓のなか、朦朧とする意識の内から神が呼びかけることばを、座敷牢で拾った釘で壁に書き付けるしかなかった出口なおは赤貧の「文盲」であった。そして、なおもまた多くの子らと死別している。子との死別は理想宮の造営人、郵便配達夫のシュヴァルも同様で、かれにとってひとり娘のアリスを失ったことは、人生にとって取り戻すことができぬほど致命的な痛恨の出来事であったにちがいない。庭師を目指していたはずのレイノーが美術家に転身し、白いタイルで覆い尽くされた家に籠るようになった背景には、父の戦死や自身の従軍体験が暗い影を落としている。
 こうした試練は、情け容赦なくかれらを人生の淵にまで追い詰める。多くの者はその過酷さに耐え切れず人生に破綻をきたし、ときにはみずから命を絶つに至るだろう。そうでなくとも大罪に身を染めてしまうことだってあるはずだ。だが、そのうちのほんのわずかのアウトサイダーに芸術の種子が棲みつき、かれらの辛苦を糧に、そこから奇妙な花をつける奇縁へと導くことになる。
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Kindle版No.3890


 というわけで、アートって何、アーティストって何、という根源的なところまで問わずにはいれらないアウトサイダー・アートの強烈な磁場を、文章で再現してみせた力作です。

 アウトサイダー・アートやアール・ブリュットに分類される作品や作者に興味がある方はもとより、そもそもアートについてきちんと考えてみたい方にもお勧めの好著。

 また、止むにやまれぬ衝動なのか創作意欲なのか強迫観念なのか、とにかく何かに取り憑かれたように、他人から見ると意味不明で無価値な「作品」に何年も、ときには何十年ものあいだ、心血を注ぐタイプの「変人」の人生に惹き付けられる方、などにもお勧め。個人的には、アウトサイダー・アートとして評価すべきものがオカルト世界にもいっぱいあるよなあ、と思いました。


 なお、参考として、これまでに紹介した書籍にリンクを張っておきます。


2014年09月11日の日記:
『バンヴァードの阿房宮 世界を変えなかった十三人』(ポール・コリンズ、山田和子:翻訳)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2014-09-11


2013年12月03日の日記:『定本 何かが空を飛んでいる』(稲生平太郎)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-12-03


2013年01月30日の日記:
『夢の実現するところ 郵便配達夫シュヴァルの理想宮に捧げる』(編:宮脇豊、福永信、山崎ナオコーラ、いしいしんじ、他)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2013-01-30



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