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『アレックスと私』(アイリーン・M・ペパーバーグ、佐柳信男:翻訳) [読書(サイエンス)]

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アレックスは、人間が自分たちのうぬぼれのせいで、動物や人間の心の真の姿が見えなくなってしまっていたことを示してくれたし、そのために動物の認知能力という広大な世界の研究が未着手になってしまっていることも示してくれた。人間のそういう傲慢さを暴いたことを考えると、アレックスと私があれだけの批判を受けたのは何の不思議もない。(中略)戦いは延々と続いたが、アレックスは批判する人たちに動物の心が秘めている能力を教え続けた。残念ながら、批判する人たちはとても学習が遅く、学ぶ意欲も低かった。
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単行本p.282、283

 クルミほどの小さな脳しかない鳥類が、言語や数の理解を含む高度な認識能力を持っていることを示したアレックス。動物の心に関する科学界の偏見を打ち砕いた一羽のヨウムと科学者の冒険をえがいた興奮と感動の一冊。単行本(幻冬舎)出版は2010年12月です。


 ドリトル先生に動物語を教えた「ポリネシア」に匹敵する功績を残した一羽のヨウム、アレックス。彼との「共同研究」で画期的な成果を挙げた一人の科学者。彼らが共に歩んだ研究の困難な道のりと、互いの深い愛情をあますところなくえがいた感動的な一冊です。


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アレックスはそのちっぽけな脳で、古代ギリシャの偉大な数学者エウクレイデスですら思いつかなかった“ゼロ”の概念を考え出したようだ。このことは、音素の訓練のときに“n・u・t”を一文字ずつ発音したときと同じくらい、いや、それ以上の驚くべきことだといえる。アレックスはいったいどれだけの能力を秘めているのだろうか?
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単行本p.248


 言語コミュニケーション、数と個数の等価性、計算、何かが「ない」ことの理解。こういった高度な認知能力を鳥類が持っている。今では広く知られていることですが、著者がアレックスとの共同研究をスタートした時点では、全く認められていなかったのです。


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鳥類には大脳皮質にあたる部分がない。このため、鳥は高度な認知能力を持てるはずがないというのが定説だった。アレックスとの30年間の研究は、いってみればこの定説との戦いだった。鳥類の脳に、物体や分類のラベル、“大小”の比較、それに“同じ”と“違う”の概念が理解できるはずなどないとされていたのだ。しかし、現にアレックスは理解できたのだ。
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単行本p.262


 次々と画期的な成果を挙げてみせるアレックス。しかし、著者は激しい反感と嫉妬をあびせかけられるはめになります。おそらく原因は、研究対象が哺乳類でないということ、そして研究者が男性でないということ、でしょう。


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たしかにアレックスは多くのことを成し遂げていたのだが、その間、私たちには多くの中傷が浴びせられた。MIT(マサチューセッツ工科大学)とハーバードを卒業し、多くの有名大学で研究をしてきた私のような科学者であれば、それなりの敬意が払われるものだと多くの人は考えるかも知れないが、女性が鳥の研究をしているということで、むしろ逆の扱いを受けることが多かった。
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単行本p.37


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科学には、たしかに論争はつきものだ。しかし、これはあまりにもひどい。ダイアナも、自分の大学に提出した会議への参加報告書に「会議から導かれるひとつの結論は、科学者と動物のコミュニケーションが成立するかどうか以前に、科学者どうしのコミュニケーションが成立するかどうかということを問わなければならない、ということだ」と書いた。
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単行本p.117


 度重なる嫌がらせ、嫉妬、研究費不足にも負けずに、アレックスの能力を科学的に証明するために邁進する著者。しかし、当のアレックスは必ずしも協力的ではなく、むしろ足を引っ張ることで支配欲を充たすようなところがあって、とかく絶えない苦労。ユーモラスな筆致のおかげで深刻にはならず、同情しつつもついつい笑ってしまいます。

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「オバサン、何か忘れてるだろ? どうした?」と言いたげな表情で私を見た(この表情は、その後年を重ねるにつれてどんどん鋭くなっていくことになる)。
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単行本p.86

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アレックスは、レッスンに疲れたことを伝えるのだけは最初からうまかった。(中略)年齢を重ねるにつれて、訓練を拒否する表現はどんどんうまくなっていった
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単行本p.87、103

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いつでも威張っていた訳ではないし、いつでも手に負えないほどわがままだった訳でもないけれども、スイッチが入ると大変だった。そして、そのスイッチはしょっちゅう入った。
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単行本p.180


 訓練にすぐ飽きて協力を拒否するくせに、他のオウムが構われるのは許せない、というアレックス。その知的能力を存分に活かして著者の邪魔をするのです。


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私たちの質問に対するグリフィンの答えの発音が少しでも不明瞭だと、アレックスはすかさず「チャント イッテ!」と叱った。また、私がグリフィンに「何色?」と聞くと横からアレックスが「チガウ! カタチハ ナニ?」と質問を変えてしまうこともあった。ときにアレックスはわざと間違った答えを言って、ただでさえ自信のないグリフィンをさらに混乱させることもあった。そういうアレックスには、はっきりいってうんざりした。
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単行本p.240


 「はっきりいってうんざりした」という一文の説得力すごい。

 しかし、運命は過酷です。アレックスはわずか30年ほどで急死することに。最後の言葉は、"You be good, see you tomorrow. I love you."でした。


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 私は、前の晩にケージに帰したときのアレックスの姿をおぼえていたかった。元気さといたずらに満ちたアレックス、そして長年の友で同僚のアレックス。できるはずのないことをつぎつぎと成し遂げ、科学界を驚かせたアレックス。そして今度は、そうなるはずのないタイミングで、寿命より20年も早く逝ってしまったのだ。なんてことをしてくれたの、アレックス?
 私は、最後の言葉が「イイコデネ。アイ・ラブ・ユー」だったアレックスの姿を脳裏に焼き付けておきたかった。
 私は立ち上がり、出口の扉に手をかけて、「さようなら、私のいとしい友よ」とささやいた。そしてクリニックをあとにした。
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単行本p.273

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 ABCニュースが流れた2日後には、イギリスの主要な新聞のひとつであるガーディアン紙にも記事が掲載され、「平均的なアメリカの大統領よりも賢いことで知られていたヨウムが31歳で早世」と書かれていた。
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単行本p.11


 アレックスの業績は否定できず、手ごわいライバルですら(皮肉なユーモアをこめて)賞賛する他はないものでした。


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彼の理論的な立場は、ほかの多くの心理学者もそうであるように、高度な認知機能は霊長類だけで進化したものだとする考え方だ。そして、彼は発表の結論でもたいてい「すべての研究データはこの考え方を裏付ける」との旨のことを断言する。しかし、その直後には“お手上げ”というジェスチャーをしながら「あの邪魔なトリ以外は」と付け加えるのだ。もちろん、アレックスのことだ。
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単行本p.253


 というわけで、サイエンス本としても興味深いのですが、むしろ著者とアレックスによる冒険物語として読むことで大きな感銘が得られます。というか、まじ泣ける。動物の認知能力に興味のある方はもちろん、感動の動物実話が好きな方、科学者の人生や生きざまに興味がある方など、広くお勧めします。


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『うさと私』(葉月幹人) [読書(小説・詩)]

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人の言ったことがすぐに分からないとき。意地悪されてもなかなか気がつかないとき。何か言われてもすぐに言い返せないとき。ぼんやりしているとき。ぼんやりしている間に周りが変化してしまっているとき。誰かと話していて、話している内容より思い出したことのほうが気になるとき。君にはちっとも将来への展望がないねと言われるとき。何考えてるのかわからないと言われるとき。でも幸せなとき。
 こういうとき、人はうさぎ時間にいる。
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単行本p.61

 うさとみきのらぶらぶうさぎせいかつをえがいたはかいりょくばつぐんのふぁいんあんどきゅーと詩集。単行本(新風社)出版は1996年2月です。


『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』(高原英理:編)より
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そうだ、昔発表した『うさと私』は、かわいいこと、キュートな何かに心奪われて書いた詩でした。私にとってキュートなものもまた生きる糧である。
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文庫版p.8


 『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』の巻末に収録されていた『うさと私』は衝撃的でした。ひたすら「うさかわいい」ということが書いてあるのです。詳しくはこちら。

  2015年05月14日の日記
  『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』(高原英理:編)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-05-14

 解説によると、これで「全編の四分の一ほどを抄出した」(文庫版p.345)とのことで、じゃ残り四分の三ほどは、いったいどんな内容なのか。まさか、この四倍もの長さの詩が、ひたすら、かわいい、かわいい、うさうさ、かわいい、だけ、ということは、さすがに、ないだろう、と。

 そういうわけで、現物を手に入れて読んでみたのですが……。結論から言うと、私は甘かった。甘かったんだ。


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「地味な兎ですが、ずっとつきあってください」
 誕生日に貰ったポストカードにはこう書かれていた。私は決意した。
 半月後、兎は私の右側に座っている。兎はよく寝る。ときどき起き出してはよく笑いよく泣く。

「何て呼べばいい?」
 兎はひどく考え込む。私は言う。
「『うさ』はどう?」
「うれし」
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単行本p.6


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 夜中に目が醒めると、隣に兎が寝ていた。嬉しかったが、眠いのでそのまま寝てしまった。

 夜中に目が醒めると、隣に兎がいなかった。悲しかったが、眠いのでそのまま寝てしまった。

 うさの頭に小さな塵。何度取ろうとしても指から抜けて頭にくっつく。うさが言う。
「ここが好きみたい」

 うさは「愛してる」と言わない。そのかわり、私の手をとって、「なかよし」と言う。

 魚の真似をするうさを捕まえる。ぴちぴち跳ねる。私は必死でしがみつき、うさの頬に、ちゅっ。
「麻酔」
 うさぐったり。
 でも、すぐに麻酔は切れて、またピチピチピチ。再び必死でうさの頬に、
「麻酔」
 ちゅ。
 うさようやくぐったり。でも口を離すとまたピチピチピチ。
「このうさかな、元気!」

 一緒に寝ころんでいるうさが、突然、
「巨大化」と言い、
「ずんずんずんずんずん」と迫る。
「わー、ウサラだー」私は慌てふためく。
「ずんずんずんずんずん」
「わー、ウサラだー」
「ウサラ、何もしないよぉ」
「ウサラ何するの?」
「寝てるだけ」

「うさ、もう、ダンゴムシ!」
 うさベッドに転がり込み、丸くなる。とても恥ずかしいことを思い出したとき。
「ダンゴムシ、他人と思えない。何か、怖いことやヤなことあると、あんなふうに丸くなってたい、うさ、前世、ダンゴムシだったんじゃないかな」
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単行本p.8


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 うさは自信がなくなるとすぐに自分のことをつまらないうさぎだと思うらしい。
「だめだよお、寝てばっかりのうさなんか、ただの丸顔の寝うさだよお」
 私は言う。
「あ! ただの丸顔の寝うさだ! 今までずっと探してたんだっ、やっとみつけた」
「うれし?」
「うれし!」
「きゅー!」
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単行本p.35


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「でも、もし、うさぎ村、行っちゃうときは、みき、ついて来ない?」
「行く行く」
「いいの? 兎になって、たんぽぽ食べて暮らすんだよ、それでいい?」
「うにゃ!」
「ずっと兎でいようか」
「うにゃ!」

「あのねー、うさぎ村はねー、実は、月にあるんだ。ほら」
 うさが空を指さす。満月の夜。

 うさと私の作った詩
  「うさぎ村」
 いっぱいのうさうさ
 いっぱいのうさうさ
 いっぱいのうさうさ
 いっぱいのうさうさ
 いっぱいのうさうさ
 いっぱいのうさうさ
 いっぱいのうさうさ
 みきみきもいるよお
 いっぱいのうさうさ
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単行本p.12


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『ことばの古里、ふるさと福生』(吉増剛造) [読書(随筆)]

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 ここまでお話ししてきまして、もういちど「福生」という地名をみますと、本当につくづくとなんとも奇妙な含みを持った名だとわたしは感じます。それは、いったんFUSSAを通り越したことによるのでしょうか。「福生」という地名が持つに至った重みに対して、大層過敏になっている人間がいますということを、お分かりいただけるとよいのですが、……ここまで一廻りお話ししてやっとそこにその重荷や重みに辿り着いた気がいたします。
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単行本p.48

 ことばと命、その源はどこにあるのか。吉増剛造さんの講演を二つ、口語体というか、おそらく話したそのまま記録した講演録。単行本(矢立出版)出版は2000年11月です。


「ことばの古里」
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これから、いろんな例をあげて、私たちが話す、話してます、言葉の持っている、とてもその微妙な命のふるさと、それをお話していこうと思います。
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単行本p.8

 1990年5月15日、球磨農業高校における講演です。ことばに宿っている命について、平易な言葉で語りかけてくれます。

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自分の中の呼吸で、自分の中の、自分の中の、なんて言ったらいいだろうなあ、一番いい包装紙みたいなものでね、それで外国語を包んであげるようにして、話す、訓練をした方がいいですね。あのう、上手な向こうの人の真似をするよりも、そこに、こういう魅力的な、ええ、魅力的な、そのかわいらしい言葉が出て来るのです。おそらくそこが、歌とか、芸術とか、音楽とか、美術とかいわれているものの秘密みたいなもの。多分そうだと思います。
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単行本p.20

 繰り返しの呼吸や、ふと言葉に詰まったりする瞬間まで含めて、今そこで話しているというライブ感がありながら、まるで詩の技法として計算され尽くしているような完成度もまた感じられ、ちょっとびっくりしてしまいます。こういう話し言葉をしゃべることが出来るのか、と。

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こういうふうにして、いろんな言葉が、柔らかく、小さな手を差し伸べあって、さわりあって、いたわりあうような、そして、胸の中に別世界を作っていくような、時代がこれから来るはずです。で、それを作るのは、皆さんですからね。それは学校の勉強とはずいぶん違います。むしろ、ぼーっと山を見ていたり、あるいは、ふっと何かに気がついたりね。そういう人間の別の能力によって、何かに気がついて、命の、甘さみたいなもの、を、ふくらましていくものですからね。それも耕すことと似てるかもしれないね。別の耕しかただけどね。
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単行本p.23

 語尾ね四回繰り返しの効果すごい。高校生のときに、こういう話を直に聞くことが出来るというのは実に羨ましい。このとき聴衆だった高校生で、後に詩を書いた人はいるのでしょうか。


「ふるさと福生」
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時代が変わっていきますと極端にいいますと「福生」や「横田」も個人の記憶のなかの小さな場所に次第に追い込まれていってしまうのですね。ある人からは忘れられていくようにもなるし、またある人たちからは、あそこに何か国籍不明のおかしな街があるね、知っている、……というようなことにもなってしまうこともあるのです。ことに後者は親しくしていましたアメリカの詩人からいわれたことで、親しいだけに、「福生」が彼の眼にそう映ったことにとても驚いて、わたしはその街に育ったのだと結局いいそびれてしまいました。
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単行本p.47

 1980年11月1日、福生図書館における講演です。吉増剛造さんの故郷である福生(東京都福生市)という街について、その歴史や思い出が語られます。

 個人的な事情で恐縮ですが、私も福生に住んで二十年以上になりますし、ここが自分の属する土地だと、心が根付いていますので、思い入れが強くて冷静には読めません。

 講演の途中で朗読される自作詩「織物」の一部を引用するにとどめておきます。

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武蔵野に風吹き、電灯がゆれている。もう、彼岸(あっち)だろうかと耳をすますよ。寧楽(なら)時代には古名麻(ふさ)。やがて福生(ふっさ)とよばれるようになったところにある、秘密の織物工場。
宇宙的な名の
加美(かみ)や志茂(しも)。
風が吹く。
織目の
筬(おさ)。
秘密の織物工場でわたしは筬(おさ)に糸をとおしていた。左の親指の爪をさしこんで、母から経(たて)糸を引いていた、軍需工場あとの織物工場。
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単行本p.37


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『静かな場所』(吉増剛造) [読書(随筆)]

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 電車が橋上にとまっている。冬の川原に、数千、数万の新聞紙がかぜに吹かれて、橋の下に集っていた。石浜といい、午浜といい、いまもときおり、矢尻がみつかる。石のあいだに、黒髪も残る。ときおり、それらを洗い流そうと、大水が通るが、川原が流れたことはない。いつの日か判らない。鉄橋がつくられ、電車が、冬の日、電車が橋上にとまっている。
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単行本p.131

 文章に宿っている、見えないもの。この世ならぬ気配を漂わせた、鬼気せまる詩集。単行本(書肆山田)出版は1981年4月です。


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 この世の「声の溜り」あるいは「声の溜る場所」は何処なのだろう。また変なことを考えはじめています。家の中だとやはり台所。あるいは上框、玄関入口のあたり。誰か立っていて朝夕、合掌して叩く小さな鉦の置かれている所。そこにも「声の溜り」があります(あるいはトイレかな)。ロス(アンゼルス)か、デトロイトに長距離電話をかけるとき、そこには異種の言語がまじってきて、やがてしばらくすると、私も異種、異種族だと怖いようにして思うことがあります。
(これは私の個人的な体験かな)
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単行本p.122


 怖い詩集です。いや紀行文を中心とした随筆集、エッセイ集かも知れませんが、とにかく異界感が強烈。ごく日常的なことがごく普通の言葉で書かれているように思えるのに、こ、これは、やばい、という感覚が背筋を走ります。

 
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 その女人の面を、白塗りの壁上に掛けて、しばらく(そう二カ月位かな)たつうちに、枯木のある部屋の片隅は、バーゲンで(Kマートという所で)たったの5ドルで買った電気スタンドのひかりをうけて、壁面に微妙なかげをつくりはじめ、その女人の面が壁からはずせなくなってきたのです。
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単行本p.76


 一見してごく普通の紀行文に見えても、なーんか尋常ならぬ気配に満ちていて、いったいどこに旅行しているのか、この世のどこかか、本当なのか、という不安にかられます。


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 晴れていて(という様な記憶……)、サイモン・ロディア老人のたてた塔を眺めて(どういう具合に記憶に残るのか……と考えてでもいたのか)、立ち去りがたくしていると、近所の人らしい、中年すぎの大きな黒人が近づいてきて、黙って刷り物を二枚手渡した。黙って(たしかに無言だったと記憶する)、あまり人気のないようにみえるこのあたりの空気が無言だったと記憶させたのかも知れない。いや、やはり無言。それはワッツ・タワーとサイモン・ロディアについて書かれたパンフレットだった。人気がないようにみえて、どこかで誰かが眺めている。晴れた日の、少々土ぼこりの匂いのするような、線路ぎわの一軒から、中年すぎの一人の黒人が近づいてきて、黙って去って行った。
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単行本p.62


 アウトサイダー・アートとしても名高い、ロサンゼルスのワッツ・タワーを訪れたときの体験。しかしこの、記憶を巡る、繰り返しが生み出すこの怖さときたら、いったい何ですか。やめてください、びびりますよ。

 文章に添えられているモノクロ写真がまた、とてつもなく不安感をそそるというか、別にどうということのない風景や人形(ひー)が写っているだけなのに、なまじっかな心霊写真よりよほど怖くて、なるべく目に入らないように急いでページをめくってしまいます。

 というわけで、タイトル通り、静かな場所を、静かな筆致で描いて、静かなまま(おそらく背後から)鬼気せまるような一冊です。正直、なぜか判らないまま、こう、すくみ上がりました。


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『食堂つばめ5 食べ放題の街』(矢崎存美) [読書(小説・詩)]

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生きることは食べることと直結しているんだよ。それだけ生きる気力があるってこと。君がためらうのは、生き返ることじゃなくて、生きることを怖がっているからじゃないかな?
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文庫版p.73

 生と死の境界にある不思議な「街」。そこにある「食堂つばめ」では、誰もが自分だけの思い出の料理を食べられるという。好評シリーズ第5弾は、家族の呪縛から逃れようと苦闘する女性を描いた長篇です。文庫版(角川書店)出版は2015年5月。


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私はいったいここで何をしているんだろう、と思い至る。「生と死の間の街」で、うどん屋に入ってカレーうどんを食べようとしている。臨死体験としても夢だとしても、変だ。変すぎる。
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文庫版p.29


 臨死体験(というか、食べ放題)の街にやってきた若い娘。積極的に死にたいわけではないものの、かといって生き返りたいという気持ちもあやふや。カレーうどん、抹茶白玉あんみつ、ホットケーキ、という具合に大いに食べ、好きな服を着て、でも、いまひとつ生き返りたいのかどうか自分の気持ちがはっきりしません。


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キクさんの顔は、本当に幸せそうだった。
「抹茶アイスって、人類最高の発明だと思うの」
「それはそうかもしれませんね」
 かわいいなあ。やっぱり百歳には見えないなあ。
「カレーうどんも素晴らしい発明よね」
「そうですね」
「焼きそばパンもいちご大福もそうよね」
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文庫版p.59


 レギュラー勢の食いしん坊パワーに引き込まれるようにして次第に明るい気持ちになってゆく語り手。しかし、彼女の抱えている事情が判明するにつれ、今回は非常に重たい話だということが分かってきます。


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 私は、怒ることをあきらめていた。
 その時、気づいた。私は、生きるのが怖いんじゃない。生きることをあきらめかけている。
 だって何したらいいかわからないし! やりたいこともないし!
 あきらめた方が楽だと、刷り込まれているから。
 私は、やっと心の奥から、怒りを掘り起こしていた。
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文庫版p.145


 というわけで、深刻な事情が正面から扱われます。帯だけ見ると「美味しいものを食べまくる、お気楽食いしん坊ファンタジー」みたいな印象ですが、シリアスな話なので油断しないよう。もちろん後味はさっぱりしているのでご安心。

 なお、今回はデザート的に「あとがき」とボーナスがついています。


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 なんでそんなに食べ放題が好きなのかというと、「食べ放題だから」としか言えないなー。私が食べ物を描写する時に心がけることといえば、「たっぷりの分量」というところです。
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文庫版p.171


 そこかー。


タグ:矢崎存美
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