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『オオカミの護符』(小倉美惠子) [読書(教養)]

 「ほんの少し掘り返すだけで、土地は意外なほどに様々な問いを投げかけてくる。そして、その問いの答えを求めるうちに、人と出会い、縁ある地を尋ね歩いて、深く広い沃野へと導き出されるだろう」(単行本p.201)

 幼い頃から見てきた一枚の護符。その謎を追う旅に出た著者は、古代から脈々と受け継がれるオオカミ信仰、そして山岳信仰の世界に出会う。ドキュメンタリー映画製作のための丹念な取材により、民間信仰の姿を生き生きと描き出した一冊。単行本(新潮社)出版は2011年12月です。

 「幼い頃からわが家の古い土蔵の扉に貼られた「護符」のことが気になっていた。(中略)幅10センチ、長さ30センチほどの細長い紙で、そこには鋭い牙を持つ「黒い獣」が描かれ、獣の頭上には「武蔵國 大口真神 御嶽山」という文字が三列に並んで配されている」(単行本p.17)

 「土橋は、たった50戸の寒村から7000世帯に届こうかという数の家が建ち並ぶ住宅地に生まれ変わった。(中略)祖父母と暮らした故郷としての面影が消えるとともに、いつの間にかこの街で「護符」を見かけることはなくなり、この街に住む人の多くは、その存在を知ることもなくなった」(単行本p.19、20)

 一枚の護符から始まる探求が、歴史と基層信仰をめぐる壮大な旅へと展開してゆく。まるで冒険小説のように面白く、そして自分が属しているものについて、自分が住んでいる土地の成り立ちというものについて、改めて考えさせてくれる本です。

 全体は9つの章から構成されています。

 最初の「第一章 三つ子の魂百まで」では、著者の故郷である川崎市の土橋について、その変遷について、詳しく語られます。幼いころの日々を思い出すとき、立ち現れてくる一枚の護符。そこに描かれた「オイヌさま」に導かれるようにして、著者は地元の「土橋御嶽講」の行事に参加します。

 「「御嶽講」は、心の拠り所として、切実な願いをもって行われてきたものに違いない。以来、さまざまな変遷を経ながら270年ほどの長きにわたり御嶽講は続けられている」(単行本p.47)

 そこで著者が目撃したのは、あの護符に描かれたものと同じ「オイヌさま」の掛け軸でした。

 「「掛け軸は神さまの寄りましだ」と母が言った。それは「御嶽講」が武蔵御嶽神社の「オイヌさま」を神として祀る行事であることを意味している」(単行本p.42)

 講から選ばれたメンバーが、川崎から奥多摩の山奥まで毎年歩いて参拝にゆく御獄参り。護符も掛け軸も、御岳山からはるばる川崎まで運ばれてきたものだと知った著者は、「第二章 武蔵の國へ」で武蔵御嶽神社への参拝に同行します。

 「川崎と奥多摩を結びつけるものとして、まず思い浮ぶのは「多摩川」の存在だ」(単行本p.49)

 個人的な話で恐縮ですが、私が住んでいる「福生」という街でも、本書に登場する護符が貼ってある家をよく見かけます。近所を散歩すると、この猛々しくもなぜか愛嬌のある黒い獣がちらほら目に入るのです。なぜ福生と川崎という離れた土地で、同じ護符が流通しているのでしょうか。

 単行本p.51に掲載されている多摩川流域地図を見れば一目瞭然。多摩川源流から、御岳山の武蔵御嶽神社、青梅、福生、立川、府中、川崎まで、多摩川がつないでいるのです。この「川の道」をたどって各地の講が山の神社まで参拝に行き、また神社からの使いが各地に下って祈祷し、そして護符を授けてきたのです。

 どこか他人事のように読んでいた川崎の御嶽講やオオカミ信仰が、私の住んでいる土地と「川の道」でつながっていた。「日本」だとか「東京」だとか、そんな観念めいた言葉ではなく、御岳山から川崎までずっと川の道でつながった土地と文化に自分は属していたのだ、という発見。一気に当事者意識が湧いてきます。

 「第三章 オイヌさまの源流」では、講中による御獄参りの様子を追いつつ、民間信仰がどのように支えられてきたのかが紹介されます。さらに「第四章 山奥の秘儀」では、武蔵御嶽神社で今も行われている、鹿の肩甲骨を灼いて農作物の出来を占う「太占」儀式の取材を試みます。

 「遥か古代の神事がこの御岳山で今も実際に行われているとは思いもしなかった。(中略)この貴重な太占の神事の様子を記録したいと喜助さんに伝えたところ「これは門外不出の秘儀ですから、取材を許可することはできないんです」という答えが返ってきた。世の中のタブーがどんどん破られる中で「門外不出」のものがあること自体に感銘を受けた」(単行本p.78)

 「第五章 「黒い獣」の正体」では、ついにオイヌさまの正体が判明します。大口真神、それはニホンオオカミでした。そして、ニホンオオカミを神として祀る「オオカミ信仰」と、山を拝む「山岳信仰」が、ここで交差していることが分かります。

 「オオカミ信仰の神社は奥多摩・秩父を中心とし、特に秩父には密集している。このオオカミ神社の分布とニホンオオカミの棲息域は一致する。そして各神社から発行される「オオカミの護符」は、バラエティーに富み、個性的であった。(中略)それは「オオカミ信仰」が、上からの統一的な力によって流布したものではなく、それぞれの地域の暮らしから生まれ、浸透していったことを物語っているように思われた」(単行本p.105)

 単行本p.103には「オオカミ信仰の広がり」として、「まじない用のオオカミ頭骨が残されている場所」が関東一円に広がっている地図が掲載されています。秩父を中心として、ニホンオオカミがどれほど広く、深く、長く信仰されてきたのかが分かります。ちなみに、我が街、福生の近辺にも、オオカミ頭骨が保存されている家が何軒か記されています。まったく知らなかった。

 都道府県といったお上が決めた区切りを取っ外した地図で民間信仰の広がりを確認してゆくと、様々なものが見えてきます。遥かな古代から脈々と続いてきた山岳信仰、縄文時代にまで遡るオオカミ信仰、土地をつないでゆく河川、そして修験道との関わり。

 「オオカミ信仰と修験道の関係、さらには山とオオカミの関係を思わずにはいられない。(中略)講が組まれてきた山の名を追いながらふたたび地図を眺めてみた。するとそれまで曖昧だった「武蔵國」の土地柄がぐんぐん立ち上がってくる」(単行本p.107)

 御岳山・福生・川崎と「川の道」でつながっていた線が、ここで一気に関東一円に広がる面となります。多摩川を西多摩エリアとして含む広大な「武蔵國」。その全貌は、単行本p.109に示されています。これを見ていると、自分が「東京都民」だという自覚がどんどん薄れてゆくのを感じます。いや税金はちゃんと払わされてますけど。

 第六章以降では、山岳信仰とオオカミ信仰のさらなる探求が続きます。秩父地域、宝登山神社の「お炊き上げ」神事、たった12軒の小さな集落で営まれている猪狩神社のオオカミ信仰、「幕府も朝廷も権力が及ばぬ山岳信仰の地」であった三峰山の神域。

 どれもこれも知らなかったことばかりで、土地に根ざしていない薄っぺらな世界観が激しく揺さぶられます。本書は関東のごく一部だけを取材対象としていますが、日本全国各地どこの土地に住んでいる読者にも通じるであろう驚きと感動、そして省察をもたらしてくれます。国家権力にも統制されなかった民間信仰、そこで祈る人々の姿が心に刻まれる好著です。

 「「オオカミの護符」が出会わせてくれた人々は,誰ひとりとして「自然」や「環境」という言葉を発することはなかったが、一人ひとりの「祈る姿」は印象深く刻まれている。その姿がある場所には、土地ならではの言葉や暮らし、そして風景があり、「神々の居場所」が息づいていた」(単行本p.192)


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『緑の祠』(五島諭) [読書(小説・詩)]

 「三毛猫はいつも退屈(地下街を抜け)三毛猫はいつも憂鬱」

 「女の子に守られて生きていきたいとときどき思うだけの新世紀」

 「歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah」


 こじらせない若さでもって新しい抒情を見つける歌集。単行本(書肆侃侃房)出版は2013年11月です。

 学生時代、および二十代のときに作った作品を集めた一冊だそうで、とにかく若さというものがあふれています。青春です。

 「女の子に守られて生きていきたいとときどき思うだけの新世紀」

 「シャワーでお湯を飲みつつ思うぼくの歌が女性の声で読まれるところ」

 「もう一度話したいだけ コンビニのユニセフ募金箱に10円」

 「ノルウェーのホラー映画のレズシーン 記憶を霙のように濡らして」


 いや、青春とはいえ、もちろん他のことも考えていますよ。

 「大吉を引けばいいけど引かないと寂しさが尾を曳く、でも引くよ」

 「夕映えは夕映えとして 同世代相手に大勝ちのモノポリー」

 「歩道橋の上で西日を受けながら 自分yeah 自分yeah 自分yeah 自分yeah」

 「夜も明るい公園を見ていると、就職活動しようと思う」


 世界に向けるまなざしもつい妄想に濁ってしまう、それは青春だから。

 「草原の中に大きな門があり疑いもなく子供がくぐる」

 「真っ青に夏野ひろがる(ドラム缶の中身は何だ)夏野ひろがる」

 「新興住宅地が怖いその家とその家のあいだの一拍が」

 「はなわビル2Fの気功教室は気功が人をたしかに変える」

 「十五分くらいで雪の結晶をつくる装置が原宿にある」


 その屈託あれどこじらせてはいない若さでもって、今まで誰も気づかなかった抒情と表現を見つけてゆくところが素晴らしい。

 「美しくサイレンは鳴り人類の祖先を断ち切るような夕立」

 「久々に銀だこのたこ焼きを買う雨の大井で大穴が出る」

 「朝焼けのジープに備え付けてあるタイヤが外したくてふるえる」

 「「罪と罰」の「罪」ならわかる 蝶が舌を伸ばす決意のことならわかる」

 「子供用自転車とてもかわいいね、子供用自転車はよいもの」


 ときどき繰り返しワザを仕掛けてくる作品もあったり。

 「最高の被写体という観念にこの写真機は壊れてしまう」

 「見捨ててはいけないという観念にこの写真機は壊れてしまう」

 「アルジェリアのオレンジを剥くオレンジの中にはふるさとがアルジェリア」

 「ナイジェリアのオレンジを剥くオレンジの中にはかなしみはナイジェリア」


 そして、個人的に大好きなのが、猫の歌。猫はよいもの。

 「昔見たすばらしい猫、草むらで古いグラブをなめていた猫」

 「猫に逢う時間に散歩していたら不思議な猫に遭ってしまった」

 「白猫のひとみは遠いヨットを追う 遠いヨットは白猫になる」

 「花火の音におどろいて猫が身構えるこの一夏を長いと思う」

 「三毛猫はいつも退屈(地下街を抜け)三毛猫はいつも憂鬱」

 「旅先の猫きょう明日その先の日々さようならさようなら猫」

 さようならさようなら猫。


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『材料革命ナノアーキテクトニクス』(有賀克彦) [読書(サイエンス)]

 「それは、素材と建築を分けて考えない、新物質を建築によって生み出すということ、つまり、まったく新しい物質・材料をナノの世界から建築のように組み上げて作る技術体系の創出である」(単行本p.11)

 原子や分子を制御するナノテクノロジーにより、自然界には存在しないまったく新しい素材、新しい性質を持った物質を「建築」する技術。専門家がナノアーキテクトニクス研究と新素材開発の最前線を一般向けに紹介した一冊。単行本(岩波書店)出版は2014年6月です。

 全体は九つの章から構成されています。最初の「第1章 汚れない窓ガラス----ナノシート」では、極めて薄い、事実上「二次元」の物質「ナノシート」と、複数の異なるナノシートを積層してゆくことで作られる新物質が紹介されます。

 「典型的なナノシートは、厚さが0.5~3ナノメートル(中略)ほぼ2次元の物質である。なので、全部が表面でできている物質とさえ考えることができる」(単行本p.17)

 「ナノシートにはいろいろな特性をもったものがあり、それを交互吸着法のような方法で組み上げてナノアーキテクトニクス(ナノ建築)を施せば、いろいろな新物質を生み出すことができる」(単行本p.27)

 複数のナノシートを層状に組み合わせることで、磁気光学効果や耐磨耗性、さらには光触媒効果で汚れを自然分解するなど、それぞれ単独シートとは異なった物性が実現されるのです。しかも、どんなに薄くなっても物性が変わらないという利点まで。

 「通常の物質を薄くしていくと、厚さが小さくなるにしたがって物性が顕著に劣化してしまうという特徴がある。しかし、交互吸着法で完璧に組み上げられたナノシートの積層構造では、5~15ナノメートルぐらいの厚さでも性能の劣化は見られない」(単行本p.26)

 続く「第2章 トイレを除菌----メソポーラス物質」では、ナノレベルの微細構造を持った物質の応用について解説されます。

 「メソポーラス物質とは、このような精密なナノメートル単位の構造を内部にもちながら、ビンに入った砂糖のような量を作れる物質なのである。(中略)メソポーラス物質はその内部に構造が発達しているので、重さあたりの表面積がとてつもなく大きい。一般には、耳かき1杯でテニスコート1面分の表面積といわれる」(単行本p.31、34)

 「さまざまな界面活性剤やポリマーなどの分子集合体を鋳型に用いることで、数ナノメートルから100ナノメートル程度まで精密に細孔径を制御できることも特徴である」(単行本p.36)

 その微細かつ広大な表面積を活かした超効率的な触媒反応、汚染物質吸着などの応用の他に、微細構造そのものを制御することで特定分子だけを選択的に吸着させたり、あらかじめ吸着させておいた薬物を少しづつ放出させたり、といった様々なことが実現されます。

 「階層膜に水や液体の薬物を取り込んで、その薬物の放出過程を検討することもおこなわれている。いわゆるドラッグリリースである。その結果、思わぬ挙動が観察された。外部から何も刺激を加えていないのに、一定間隔、一定量で、薬物の放出が自動的にオン/オフされる(放出されたりそれが止まったりする)ことがわかったのである。(中略)この材料を使えば、周囲から刺激を加えなくても薬物の放出が定期的に起こり、自動的・定期的な薬物投与に応用できると期待される」(単行本p.37、39)

 こんな感じで、次々と素材革命の事例が紹介されてゆきます。

 「第3章 紙ではない紙----電子ペーパー」ではカラー電子ペーパー、「第4章 新しい電池の時代----ナノイオニクス」では固体化による安全かつ高効率なリチウム電池、「第5章 脳型コンピュータへの道----原子スイッチ」では原子の物理的移動によりオン/オフを実現する超高密度コンピュータ。

 「第6章 分子に情報を書き込む----ナノレベルの電子回路」では、フラーレン薄膜の局所分子構造を操作することで実現できる超小型メモリ、「第7章 世界で一番薄い集積回路を目指す」では、グラフェンシート上に集積回路を形成して作る原子1個分の厚みしかない電子デバイス、「第8章 夢のエネルギー技術----人工光合成」では光を化学エネルギーに効率よく変換する無機化合物。

 物性研究の最新成果が目もくらむような勢いで紹介されてゆきますが、個人的に興味をひかれるのが、医療まわりの技術革新。老いぼれたせいか、コンピュータの発達やエネルギー革命なんかより、健康維持の方が切実な問題だと感じられるようになったせいかも知れません。

 というわけで最終章「第9章 医療革命へ」で紹介される、マテリアルセラピーという研究分野には興味津々です。

 「培養した細胞を用いるのではなく、ある材料を組み込むことによってその材料そのものが半持続的に生体組織の治癒効果を促していくという方法論が開発されつつある。このような材料による治療は「マテリアルセラピー」と名づけられた」(単行本p.94)

 「脂質粒子や多孔性粒子からなるスマート粒子をあらかじめ投与しておく。この中に、特定の病因物質と強く相互作用する部位をもたせておけば、疾患の原因物質を超早期に回収・処理することができる。アルツハイマー病のβアミロイドや高脂血症の酸化LDLの除去に威力を発揮することが期待される」(単行本p.95)

 アルツハイマーや生活習慣病の原因物質を選択的に回収する材料をあらかじめ血液内に投与することで、病気を治療するのではなく、発症を予防するというのです。すげえ期待。

 他にも、「歯の修復を早期に促す材料、歯根膜再生促進や血管網の誘導をはかる材料」(単行本p.96)、「細胞がもつ修復機能を最大限に引き出す人工的な環境」(単行本p.96)、「患部に直接貼って磁場をかけると、温熱療法と化学療法を同時におこなうことのできる材料」(単行本p.97)、「手の動作で薬物投与が制御できるシステム」(単行本p.100)など、マテリアルセラピーの可能性には胸が躍ります。

 というわけで、自己複製するナノマシンといった夢を別にすれば、原子・分子のレベルで物質を操作するというナノテクノロジーの本領がついに発揮される時代がやってきた、という実感が得られます。ナノテクノロジーの応用と、猛スピードで発展しつつある材料革命に興味がある方にお勧めします。

 「ナノテクノロジーが成熟しつつある今の時代に、新しい概念「ナノアーキテクトニクス」を打ち立てることは、未来の科学技術の発展を確かなものにするために必要なこと、あるいは必然的なことなのである」(単行本p.15)


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『夏のルール』(ショーン・タン、岸本佐知子:訳) [読書(小説・詩)]

 「去年の夏、ぼくが学んだこと」

 ちょっと怖くて不思議で、そして懐かしい異世界に迷い込んでしまう少年たちの夏。『アライバル』や『遠い町から来た話』の著者による魅力的な絵本です。単行本(河出書房新社)出版は2014年7月。

 幼い兄弟が「地図の端っこのところは、実際はどうなっているのか」という議論に決着を付けるために探検に出かける。『遠い町からやって来た話』に収録されている『ぼくらの探検旅行』は、そういうお話でした。

 あの兄弟が再び主人公となって、不思議な世界を探検します。片方だけ干しっぱなしでぶらさがっている赤い靴下。開けっぱなしにしておいた裏口から、夜のあいだに家の中に吹き込んできた様々なもの。金属製のおもちゃ。そういった身の回りのものが息づいて、子どもの世界が立ち現れてゆきます。

 絵はいつものように魅力的で、不安と怖さをはらんだ赤、解放感と青空を示す青など、色が語りかけてくるようです。弟くんはまたも兄と口喧嘩して別行動をとった挙げ句に迷子になったらしく、途端に色彩が消えて、見知らぬ場所のモノクロの世界に押しつぶされそうになったり。子どもの夏の、あるある。

 各見開き左ページには、「去年の夏、ぼくが学んだこと」が、ルールの形で書かれています。「赤い靴下を片方だけ干しっぱなしにしないこと」「裏のドアを開けっぱなしたまま寝ないこと」「カタツムリを踏んづけないこと」「審判には逆らわないこと」といった具合に、何をやっちまったかダイレクトに分かってしまうところが微笑ましい。

 全体として、ものすごく立派な「ぼくのなつやすみ日記帳」という印象で、誰もが、最も大切なルールと共に、あの夏休みの日々を思い出すのではないでしょうか。

 「夏の最後の一日を見のがさないこと」


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『硝子生命論』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 「私、は一冊の書物である。それも意識のある、生きた声を持つ書物である」(Kindle版No.15)

 「私がこうしてここにいる事自体が一種の語りであり声であり、記憶の再生が文章である。私はそういうものになり果てていた。そして時間を遡り、今を引き写し、ただ語る存在として置かれていた」(Kindle版No.2360)

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第86回。

 生身の男性を拒絶する異性愛者のためにつくられた、恋愛の対象としての死体人形。それを硝子生命と名付けた人形作家ヒヌマ・ユウヒは失踪し、彼女の再来を期する者たちは女のための新国家建設を幻視する。

 幻想によって国のあり方や体制などの現実を根底からひっくり返してゆく試みの嚆矢となった先鋭的な国産み神話、その電子書籍版をKindle Paperwhiteで読みました。単行本(河出書房新社)出版は1993年7月、Kindle版配信は2014年7月です。

 密室のなかで幻想を駆使することで、激しい違和感と痛みをもたらす現実というものに抵抗する。これまで、そんな引きこもり観念小説を書いてきた著者が、ついに反転攻勢に転じた瞬間を神話として定着させたような長篇作品です。全体は四篇の連作から構成されています。


『硝子生命論』

 「死体人形は生まれた時死んでいる。だから本物の心中の相手にはならない。死体人形とは語りあえない。彼ら、は予め、その人形を求めるもののために殺されている。総ての異性の、いや、現実世界全体のスケープゴートとして。それが死体としての生なのである」(Kindle版No.71)

 現実の男性に失望し、それでも恋愛の対象を異性に設定している者たちのためにつくられる少年の死体人形。世の中に対する深い憎悪を封じ込め、歳月に硬化させたような、そんな硝子生命体との恋愛を生活として生きる者たち。

 人形作家ヒヌマ・ユウヒとの交流を通じて、語り手は「異性に現実や制度を象徴させることで、それらへの憎しみを煮詰めて行くための、憎悪を核にした幻の愛」(Kindle版No.661)という人形愛の形を見出してゆきます。


『水中雛幻想』

 「ゾエアはアクアビデオという実体だけを求めていた。それを一個の現実として支配する事で恐らく戦いようもない厳しい現実に抵抗しようとしたのだった。(中略)そうする事で本物の、ゾエアを取り巻く現実を卑小化して、偽物にしてくれなくてはならなかった」(Kindle版No.1039)

 ヒヌマ・ユウヒがまだ「ゾエア」と名乗っていた若い頃。彼女は幻想を実像化する「アクアビデオ」なる実在しない装置によって現実と対抗しようと懸命になります。やがて存在しない少年を幻視し、結局「常軌を逸する事が出来ない自分をふと意識した」(Kindle版No.1213)ゾエアは、人形作家を目指すことになるのでした。


『幻視建国序説』

 「向こう側に私の知らないそれ故に恐ろしく思える世界があり、こちら側にぼろぼろになってしまって使いものにならず、そのせいでもう今までの馴れや親しみさえ失われてしまった世界があった」(Kindle版No.1318)

 ヒヌマ・ユウヒが失踪してから数年後。彼女がつくった死体人形と共に暮らしている女性たちが連絡を取り合い、会合を開くことになります。出席者の一人として選ばれた語り手は、自分が物語、いやおそらくは神話のなかに足を踏み入れつつあることを自覚し、ヒヌマ・ユウヒの再来とともに、まったく新しい世界、新しい国に転生することを予感します。

 「女だけが人形と暮らしているという国の具体的な部分を、私はなんとか思い出そうとした。(中略)これから先私の生きる現実世界の芯には人形の国の理念が呼吸し始めると信じていた。私が失ってしまうものの後にあの方が来ると」(Kindle版No.1932)

 「私達はただ何かを超えようとしていた。いや、正確には何もかもを超えようとしていたのだった。しかも超えながら小市民のままでいようとさえしていたのだ」(Kindle版No.1970)

 「私と同志達は共同体が私達に課したありとあらゆるタブーを破った。近親婚と殺人、人と動物との区別を無くすこと、人肉の会食、(中略)あらゆるタブーを破る事で生まれる国家殺し。それに手が届かないのを知っていながらぜひともそうしなくてはならなかった。(中略)それが実際に時間を変え、世界を変え、共同体を変え、国家理念までも打ち壊して本物になった」(Kindle版No.2172、2183、2189)


『人形暦元年』

 「遠い昔、男に絶望した女達が男達に形だけは似せた人形を作った。人形達は男達に似てはいけないので全て生まれながらに予め殺されていた。が、どこかに人形を人形のままで生かして、女を蔑まず、虐げない新しい生命体を作り出す女神が存在すると聞いて、ある日何人かの人形を愛する女達が船出をした。(中略)女達はなにもかもを捨ててきたために神に会う事が出来た。そして神の国の住人になり何人かは神になった」(Kindle版No.2282)

 密室で遂行される生贄儀式を経て現実は打ち砕かれ、幻想のなかでついに新国家が樹立します。女たちの国、人形愛の国、水晶の内に幻視された新しい制度が。

 そうして、いまや名前も肉体も何もかもを失い、語りそのものになった「私」は、具現化した本物の硝子生命を介して、ヒヌマ・ユウヒに再会するのでした。

 「いつしか、私はテーブルを離れ、窓に、具現された硝子生命に近付いていた。死体人形の果敢ない観念ではなく、それは建国によって再生された本物の硝子生命と言えた」(Kindle版No.2309)


 というわけで、それまでに書かれた『なにもしてない』や『居場所もなかった』の延長上にあると感じられる前半から、後に書かれることになる代表作の一つ『水晶内制度』にストレートにつながる後半(『水晶内制度』では、本作が建国神話として取り込まれています)へと、文字通り革命的な飛躍を成し遂げた作品です。

 まるでそれまで防具だった幻想を武器として持ち替え、国のあり方や社会体制などの現実に対して真っ向から切り込んですべてをひっくり返そうとするような、そんな強烈な語り。後の作品を特徴づける多くの要素が、すでに使いこなされているという印象も受けます。

 それまでの内にこもる静かな怨嗟を封じ込めたような小説から、外界への積極的な反撃に転じた小説へ。その境界に位置し、二つの世界の橋渡しをする、これはそういう重要な作品ではないでしょうか。


 「向こう側の知らない世界は大きな悲しみを孕んでいて、同時にこちら側の世界は私を追い立てて居たたまれない気持ちを押し付けて来た」(Kindle版No.1319)

 「今までの世界を別に懐かしいとは思わなかった。が、今までの世界に、注ぎ込んだ努力というものを、或いはそこに適応するためのあがきを、そこで、私は思い返すしかなかった」(Kindle版No.1326)

 「私は新しい世界の小市民になる。だがそれは今までの世界で小市民でなかった人々よりも、もっと凶悪で厄介な存在になるという事かもしれなかった」(Kindle版No.1795)


タグ:笙野頼子
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