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『英語でよむ万葉集』(リービ英雄) [読書(随筆)]

 「万葉集は新鮮だった。 万葉集は、昨日書かれたかのように、「新しい」ことばの表現として、ぼくの目に入った。(中略)日本語そのものがはじめて文学のことばになった時代の、またかまたかとおどろく新鮮さに触れつづけて、「古典」としての日本語よりも、むしろ可能性としての日本語に、目覚めたのである。 翻訳は、発見と、再発見の連続だった」(新書版p.i、ii)

 全米図書賞を受賞した万葉集の英訳。その作業はどのようなものだったのか。英語を母語としながらあえて日本語で書き続けている作家、ユダヤ系アメリカ人のリービ英雄さんが、自身が行った翻訳を通じて万葉集の魅力を語る一冊。新書版(岩波書店)出版は、2004年11月です。

 「「過去」の時間は、八百なん年や九百なん十年ではなく、「御時」、つまり天皇の代で区切られていた。だから、古代日本人の時間を現代の英語に訳す場合、どうしてもEmperorということばから始めることになる」(新書版p.4)

 万葉集を現代英語に訳す。もちろん逐語訳や直訳はほとんど不可能ですから、字句の一つ一つに深い洞察が求められます。

 全体は9個の章に分かれており、それぞれの章では一つのテーマに沿っていくつかの詩歌が取り上げられています。それぞれの詩歌は、まず見開き右側(偶数ページ)に原歌と現代日本語訳、そして左側(奇数ページ)に英訳が載っており、その次のページから解説が続くという体裁で統一されています。

 英訳というのは、こんな感じです。

    The capital at Nara,
    beautiful in green earth,
    flourishes now
    like the luster
    of the flowers in bloom.

 あるいはこう。

    Spring has passed,
    and summer seems to have arrived:
    garments of white cloth
             hung to dry
    on heavenly Kagu Hill.

 もう一つ。

    Coming out
      from Tago's nestled cove,
    I gaze :
       white, pure white
    the snow has fallen
    on Fuji's lofty peak.

 いずれも原歌はすぐに思い浮かぶでしょうが、それを上の英文に訳すときどのような困難があり、どれほどの読みと工夫が必要だったのかは、解説を読まないとなかなか想像できません。

 異国の言葉で伝えるために、古代を掘り起こしてゆく。そして、その作業を通じて古語が新鮮なことばとして甦ってくることの興奮と感動。それが繰り返し語られます。

 「広々とした大路に並ぶ壮大な建築群から、大都市が成立している。しかし、そこを歩いた「住人」たちの、最もパーソナルな心情を告白した三十一文字のメッセージを思い浮かべながら歩くと、「古代の遺跡」を観察するのとは違った感慨をおぼえる」(新書版p.62)

 「万葉集の中の一番初期の歌を読んでいると、質素なようで何とも言えない響きをもった、直接的な表現に出会う。と同時に、日本語がはじめて書きことばとなった時代の、これがその書きことばなのである、これが現存する日本文学の最古層に属しているのだ、というほとんど考古学的なスリルと感動をおぼえることがある」(新書版p.92)

 この古代日本語を、時間的にも、空間的にも、文化的にも、いかにも遠い隔たりのある現代英語に訳すときには、たった一つの単語にも細心の注意と深い考察が欠かせません。しかし、まったく不可能かといえば、そうでもない。時代や文化の違いを超えた、ある種の普遍性もまた、万葉集には確かに備わっているのです。

 「枕詞は、日本語の中でも最も日本語らしいものであり、古代から贈られた「幸」でもある。現代の日本語の読者にとっても、分かるようでじつはよく分からない、呪術の響きをもった、まさにこの島国の古代に独自のものなのだ」(新書版p.110)

 「生きているもの同士の間に生まれる最もプライベートな感情を表した歌表現の中で、「恋ふ」という動詞と「思ふ」という動詞が、数かぎりない文脈の中で、何度も何度も現れてくる。中には「love」と訳してもかまわないものもある。しかし、「love」と訳してしまえば何かが違うという場合の方が、圧倒的に多い」(新書版p.151)

 「デリケートな、見えない心の動きを表そうと、自然現象の細かい動きからたとえを採り、ときにはめざましいイメージを創り上げる。本来は誰にも見えない人の心の内を、誰にも分かる可視のイメージにする。その手法の名手たちは、万葉集の中には何人もいる」(新書版p.184)

 やがて、読み進めるにつれて、個々の歌をこえて、大きな流れを持った、一つの長大な文学作品としての万葉集が立ち現れてきます。

 「初期万葉集にある、「旅」「かなしみ」「あはれ」という、どれも日本語の歴史にとってはキーワード中のキーワードとなることばの最初の出現を見てから、こうした根元的な表現をつなげたような歌とまったく同じような内容をもった、のちの時代の名歌を読む。もともとの感情の、もう一つの表現が目に入ると、認知のよろこびを含めた二重の感動をおぼえる」(新書版p.96)

 「「英訳万葉集」がアメリカで出たとき、ある書評で言われた。ひとつの枕詞を読むと、その新鮮さに感動する。しかし、まったく同じ枕詞が、また一首、また一首と使われると、作者の独創性(オリジナリティ)を疑う。五度も六度も同じ表現に出会うと、苛立ちすらおぼえる。ところが、そのひとつの枕詞を百回も読むと、作者一人ひとりの独創性(オリジナリティ)を重んじる近代文学とは違った、歌一首一首を超えた大きな表現の流れに気づき、また違った大きな感動をおぼえると同時に、近代文学とは違った必然性に気づき納得もする、という」(新書版p.114)

 「翻訳という鏡に映してみると、人麿と憶良の日本語の違いははっきりと見えてくる。例外でもあり、アンチテーゼでもある憶良の、漢詩ではなく大和歌、多言語的な古代文学のディテールの一つひとつに、日本語で書くとは何かという現代に通じる問いが含まれているのである」(新書版p.199)

 というわけで、古代日本語を現代英語に翻訳する、その困難と工夫という点だけ見ても面白いのですが、むしろ個人的には、万葉集を新鮮な目で読み直し、これまで気づかなかったその魅力の一端に気づかせてもらったということに、強い感動と感謝の念を覚えました。


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