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『月の裏側に住む』(高柳誠) [読書(小説・詩)]

 「負け犬の手が伸びた。負け犬の手が伸びたら大変だ。伸びた方の手と伸びなかった方の手のちぐはぐさからくる不自由だけでなく、手足のバランスそのものが崩れて歩行にも重大な困難をきたしてしまう。それどころか、第一、手足のバランスが大きく崩れたら、それはもう、例えば手長犬といった、種として別のものになってしまう危惧さえ生まれてくる。いや、そもそも前足ではなく手というからには、動物としての犬ではなく、比喩的な意味での負け犬のことを言っている可能性だってあるし、むしろ、こちらの可能性に将来を賭けるべきかもしれない」(『負け犬の手』より)

 過激なまでに語感にこだわり、駄洒落をも厭わず徹底追求する勇ましい詩集。単行本(書肆山田)出版は、2014年4月です。

 例えば「クレマチス」という花があります。クレマチス。ちょっと奇妙な語感だなと思っても、普通はそのまま流してしまうでしょう。しかし、著者は違います。この語感を徹底的に追求してしまうのです。

 「このクレーとマチスの不完全な連合軍が担うこととなった欠落感は、今や、クレマチスだけにとどまらず、花卉植物界の至る所に見られるので、その結果、クレー的な要素がいつも「ー」不在のまま語られてしまい、これでは花卉植物界におけるクレーの影響を言うにしても本質を意図的にずらされた場所でいつも議論をしていることになる。これを、植物界におけるマチス側の陰謀だとする説も一部にはあるようだが、しかしそれを言うのなら、「ー」のない状態でマチスと連合を組んだクレー側の責任も追求すべきで、そうなると、汎クレマチス普及協会の存在意義自体にまで話が広がり、花卉植物界の混乱は今以上に収拾がつかなくなってしまう」(『クレマチス』より)

 同様に「巨頭会議」という言葉の奇妙さに対しても、追求の手を緩めません。

 「夏の保養地としてにぎわうS**市で、来週から、第九回世界巨頭会議が開かれる。今年は、例年の会議に比べ、第一線の錚々たるメンバーの参加が見込まれ、世界の巨頭という巨頭がそろったことで、人びとの大きな注目を集めている。今年の最大のテーマとして「才槌頭」を巨頭のメンバーに加えるかどうかが議論されるもようで、早くも、その議題をめぐって激しい前哨戦が街角で繰り広げられている」(『世界巨頭会議』より)

 誰もがたじろぐであろう「接骨木」に至るや、もはや追求というより糾弾と呼ぶべき声高な調子へとエスカレート。

 「一体全体、だれが「接骨木」と書くと決めたのだ。第一、この文字のどこをどうやって「ニワトコ」と読ませるのか。名は体を表すと言うが、(中略)音韻的にもまったく合っていないし、存在のあり方とあまりに遠いのである。これがどうして抗議をせずにいられるであろう」(『接骨木の嘆き』より)

 誰も聞いてくれないせいか、抗議はますますエスカレート。ついには抗議というよりアジテーション、アドボカシー、アホロートル、アホーダンスへと、激しさはいや増すばかりです。

 「手の叛乱だ。さんざん蔑視され続けた手が、ついに叛乱軍を蜂起させたのだ。手は、すべてに飢えている。きびしい手仕事の感触に。職人としての手の誇りに、その他なにもかもに。与えられるのは、キーをたたくこと、パネルにタッチすること、スイッチを押すことばかりだ。世界を、この手に取りもどすのだ」(『手の叛乱』より)

 「柔らかい梨自身が存在の意味を失い、梨くずし的に崩壊していくのをわたしたちは見まもるしかないのだ。しかし、見まもるわたしたちはともかく、今ここにある梨の実になってみれば、意味の側からのなんの反応もない状態で、つまりは梨のつぶて」(『柔らかい梨』より)

 「ネジを逆さに巻くときの現象について語ろうとすると、正直足元が揺れる。しかし、現実に逆ネジがある限りは、人としてそのネジを巻く義務がある」(『逆ネジを巻く』より)

 駄洒落も辞さないその覇気。でも、駄洒落だよなあ。

 「五月ウサギの場合、四月に発情期が来るのだが、ふだんは穏やかな性格にもかかわらず、その時期になるときわめて凶暴な性格をおび、その交尾のさまは、「暴淫暴色」ということばを生み出したほどすさまじい。(中略)発情期ののち、たった一カ月の妊娠期間を経て五月に集団で出産する。この様子から「荒淫矢のごとし」のことわざが生まれた」(『五月ウサギ』より)

 駄洒落に加えてシモネタをも厭わないその蛮勇。

 「素人の裾が濡れるとこわい。栗とリスも濡れてしまうからである。秋の雑木林のなかでしょぼふる雨にしっとりと濡れそぼつ栗とリス。でも本当に濡れるのは栗とリスなのかを、一つ一つきちんと現物にあたって検証しなければならない。むしろ、人里離れた古寺の庫裡とリスが人知れず濡れているのも、風情があって心うつものがないだろうか。いや、濡れるのは二つの並列するものと、特定してかかる思考法自体が問われているのかもしれない。そう考えると、例えば、人との生活にすっかり慣れきってなんとなく所帯じみてきた庫裡戸リスが、すっかり濡れている可能性だって否定できないし、かいがいしく戸袋に巣作りを始めた、しまり屋の繰り戸リスが思わず濡れてしまったことだってありうる。(中略)こうした妄想がぐちゃぐちゃに入り混じって、その妄想自体が静かな秋の雨にずぶずぶに濡れてしまうので、素人の裾が濡れるとこわいのである」(『濡れる裾』より)

 書き写しているうちにふと内省的になってしまいましたが、頑張りました。自分をほめてやりたい。


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