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『御命授天纏佐左目谷行』(日和聡子) [読書(小説・詩)]

 「夜見闇君はうつくしい黒色のすぐれた毛並みをもちたる御大尽であり、賢き上に聡く心広やかで、懐誠に深く、情厚く、透徹した鋭き眼の奥底から艶やかで眩しき稲光、雷光のごとき光線絶えず発し、以て、言葉というもの交わさずとも、何を宣うておらるるのかさだかには知れぬが、その、みようみよう、みやう、など常日頃より脳天または耳裏のあたりよりか洩らし給う声音や、折折につけ、こちやあちなど其処此処をきらりッと見据えて放ち給う眼光線のありようによって、内なる思い、感情、考察、等等の子細をたちまちのうちにすらりと告げ果すこと能う御仁であるのであった」(Kindle版No.11)

 猫からお使いを頼まれた男、数奇なクエストの果てにどこに辿り着くのか着かぬのか。とてつもない文章のワザで読者を翻弄してやまない痛快純文学道行、その電子書籍版をKindle Paperwhiteで読みました。単行本(講談社)出版は2014年3月、Kindle版配信は2014年4月です。

 まず登場するのは、語り手をつとめる怪しい男。いや、そう言い切るのは可哀相ですが、しかし、そうでないとも言い切れない。

 「怪しい者ではないと自分では思っておりますが、どこか怪しいところも含んでいないとも限らない者でございます。そういった部分が知らずうちに自ら滲み出しており、ご不快な思いをさせてしまっておりご迷惑をおかけしていることかとは存じますが、(中略)どうかご容赦ねがいます。気持ちの上では、けっして怪しい者ではないつもりです。非の打ちどころならあり過ぎて、一体どこから最初に打ちはじめたらよいのかわかりかね、いまだにその順番を決めかねているような体たらくの不束者ではございます」(Kindle版No.423)

 その怪しい男が行き倒れかけているところを「御自ら歩み寄り給い、ちょいちょいッ、と両手を交互に差し伸ばして」(Kindle版No.41)拾ったのは、おそれおおくも猫の夜見闇君。

 その日から男は、夜見闇君のお屋敷にて、食っちゃ寝、食っちゃ寝、ときに架空の恋人たる志摩志摩茶目蘭園子(何という素晴らしき名前!)に宛てて恋文など書いては反故にし書いては反故にするなど、充実した日々を送ることに。

 「まったくほんとにいかにかはせむ、いかにかし得るらむ、せざらむ、などと、考えても考えても下手の考え休むに似たり、といったありさまで、しかしもっと正確に言うならば、すなわち休むそのものと寸分違わず同じにして同一、いやむしろそれをも凌いでそれ以上、とさえ言える状況なれば、うむうむ唸ってまた夜ご飯、ということになり、したらばまたそれはそれでありがたく戴いてしまって、満腹の後には毎度かならずきたる睡魔というものにまんまと呑まれ、してやられて、ほいで夜毎、こてん、と寝入る、ということと相成ってしまうということのほとんど繰り返しの、ほんにありがたい日日を送らせていただいております」(Kindle版No.92)

 「何処よりかきたる睡魔、すうと目元にしのび入りて差し込み、眼つぶらせたるに抗うこと能わずして、我、きゅうとにわかにねぶり入りたり。しかしこれはほんのひととき、至りてしばしのことなれば、すぐにまたこの眼見ひらく。ぴかり。ぴッきゃり。ぱちぱち。と瞬きし、うむむむ、やあ、へへ、ねぶり入りたる、入りたるなあ、しばしねぶりに、やや」(Kindle版No.68)

 このようにして「やれ、ありがたや。ほれ、めでたきかな。ソレ、ソ、ソレ。わあい、わあい。あれ、アレ、うれし、たのしや」(Kindle版No.246)と暮らしていた男ですが、あるとき夜見闇君からお使いを頼まれて……。

 というか引用箇所を書き写すのがしんどくなってきた上、まだこれはとば口のはじめのビギニング、ロードムービーでいえば旅に出る前の導入部に過ぎないのであって、さらにはこの小説のストーリーを紹介することの無意味さにたった今打ちのめされたこともあり、もうずんずん端折ってしまいます。

 「御誕生の御目出度き晩の未明のずっころばしの、ずい!」(Kindle版No.394)

 「手を大きく動かして、目の前のゆげゆげを追い払おうと試みると、思いのほか結構逃げる。しかしそれはほんの一瞬。またすぐにむぅっと戻ってくるので腹立たしい。ささささッ! と負けじと追い払う。ゆげゆげは、ほやぁーっと逃げて、またむぅーっと立ちこめる」(Kindle版No.502)

 「随分と世話になった夜見闇君より仰せつかった役目を、自分はもはや果たし終えたのだと思った。 そう思おうと、思った。そう思いたかった」(Kindle版No.907)

 こうして旅は終わった。だが、男の冒険は始まったばかりだ。
 日和先生の次回作にご期待ください。

 というわけで、そのとてつもない文章のワザに翻弄される表題作ほか、幻想的なダークファンタジー『行方』、ゆめうつつのなかに文筆業の業をえがいてみせる『かげろう草紙』、合わせて三篇を収録した作品集です。個人的には、町田康さんの小説を読んだとき以来の衝撃。ぜひ多くの方に読んで頂きたいと思います。

 「私の草双紙は、誰のためのものであるのか。私や草双紙は、何のためにあるのか。草双紙と私。草と双と紙とわとたとし、食うためか、読むためか。読むとは、食うことであるのか。食うことは、読むことであるのか。ないのか。それともまったくべつのことであるのか」(Kindle版No.1550)


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『英語でよむ万葉集』(リービ英雄) [読書(随筆)]

 「万葉集は新鮮だった。 万葉集は、昨日書かれたかのように、「新しい」ことばの表現として、ぼくの目に入った。(中略)日本語そのものがはじめて文学のことばになった時代の、またかまたかとおどろく新鮮さに触れつづけて、「古典」としての日本語よりも、むしろ可能性としての日本語に、目覚めたのである。 翻訳は、発見と、再発見の連続だった」(新書版p.i、ii)

 全米図書賞を受賞した万葉集の英訳。その作業はどのようなものだったのか。英語を母語としながらあえて日本語で書き続けている作家、ユダヤ系アメリカ人のリービ英雄さんが、自身が行った翻訳を通じて万葉集の魅力を語る一冊。新書版(岩波書店)出版は、2004年11月です。

 「「過去」の時間は、八百なん年や九百なん十年ではなく、「御時」、つまり天皇の代で区切られていた。だから、古代日本人の時間を現代の英語に訳す場合、どうしてもEmperorということばから始めることになる」(新書版p.4)

 万葉集を現代英語に訳す。もちろん逐語訳や直訳はほとんど不可能ですから、字句の一つ一つに深い洞察が求められます。

 全体は9個の章に分かれており、それぞれの章では一つのテーマに沿っていくつかの詩歌が取り上げられています。それぞれの詩歌は、まず見開き右側(偶数ページ)に原歌と現代日本語訳、そして左側(奇数ページ)に英訳が載っており、その次のページから解説が続くという体裁で統一されています。

 英訳というのは、こんな感じです。

    The capital at Nara,
    beautiful in green earth,
    flourishes now
    like the luster
    of the flowers in bloom.

 あるいはこう。

    Spring has passed,
    and summer seems to have arrived:
    garments of white cloth
             hung to dry
    on heavenly Kagu Hill.

 もう一つ。

    Coming out
      from Tago's nestled cove,
    I gaze :
       white, pure white
    the snow has fallen
    on Fuji's lofty peak.

 いずれも原歌はすぐに思い浮かぶでしょうが、それを上の英文に訳すときどのような困難があり、どれほどの読みと工夫が必要だったのかは、解説を読まないとなかなか想像できません。

 異国の言葉で伝えるために、古代を掘り起こしてゆく。そして、その作業を通じて古語が新鮮なことばとして甦ってくることの興奮と感動。それが繰り返し語られます。

 「広々とした大路に並ぶ壮大な建築群から、大都市が成立している。しかし、そこを歩いた「住人」たちの、最もパーソナルな心情を告白した三十一文字のメッセージを思い浮かべながら歩くと、「古代の遺跡」を観察するのとは違った感慨をおぼえる」(新書版p.62)

 「万葉集の中の一番初期の歌を読んでいると、質素なようで何とも言えない響きをもった、直接的な表現に出会う。と同時に、日本語がはじめて書きことばとなった時代の、これがその書きことばなのである、これが現存する日本文学の最古層に属しているのだ、というほとんど考古学的なスリルと感動をおぼえることがある」(新書版p.92)

 この古代日本語を、時間的にも、空間的にも、文化的にも、いかにも遠い隔たりのある現代英語に訳すときには、たった一つの単語にも細心の注意と深い考察が欠かせません。しかし、まったく不可能かといえば、そうでもない。時代や文化の違いを超えた、ある種の普遍性もまた、万葉集には確かに備わっているのです。

 「枕詞は、日本語の中でも最も日本語らしいものであり、古代から贈られた「幸」でもある。現代の日本語の読者にとっても、分かるようでじつはよく分からない、呪術の響きをもった、まさにこの島国の古代に独自のものなのだ」(新書版p.110)

 「生きているもの同士の間に生まれる最もプライベートな感情を表した歌表現の中で、「恋ふ」という動詞と「思ふ」という動詞が、数かぎりない文脈の中で、何度も何度も現れてくる。中には「love」と訳してもかまわないものもある。しかし、「love」と訳してしまえば何かが違うという場合の方が、圧倒的に多い」(新書版p.151)

 「デリケートな、見えない心の動きを表そうと、自然現象の細かい動きからたとえを採り、ときにはめざましいイメージを創り上げる。本来は誰にも見えない人の心の内を、誰にも分かる可視のイメージにする。その手法の名手たちは、万葉集の中には何人もいる」(新書版p.184)

 やがて、読み進めるにつれて、個々の歌をこえて、大きな流れを持った、一つの長大な文学作品としての万葉集が立ち現れてきます。

 「初期万葉集にある、「旅」「かなしみ」「あはれ」という、どれも日本語の歴史にとってはキーワード中のキーワードとなることばの最初の出現を見てから、こうした根元的な表現をつなげたような歌とまったく同じような内容をもった、のちの時代の名歌を読む。もともとの感情の、もう一つの表現が目に入ると、認知のよろこびを含めた二重の感動をおぼえる」(新書版p.96)

 「「英訳万葉集」がアメリカで出たとき、ある書評で言われた。ひとつの枕詞を読むと、その新鮮さに感動する。しかし、まったく同じ枕詞が、また一首、また一首と使われると、作者の独創性(オリジナリティ)を疑う。五度も六度も同じ表現に出会うと、苛立ちすらおぼえる。ところが、そのひとつの枕詞を百回も読むと、作者一人ひとりの独創性(オリジナリティ)を重んじる近代文学とは違った、歌一首一首を超えた大きな表現の流れに気づき、また違った大きな感動をおぼえると同時に、近代文学とは違った必然性に気づき納得もする、という」(新書版p.114)

 「翻訳という鏡に映してみると、人麿と憶良の日本語の違いははっきりと見えてくる。例外でもあり、アンチテーゼでもある憶良の、漢詩ではなく大和歌、多言語的な古代文学のディテールの一つひとつに、日本語で書くとは何かという現代に通じる問いが含まれているのである」(新書版p.199)

 というわけで、古代日本語を現代英語に翻訳する、その困難と工夫という点だけ見ても面白いのですが、むしろ個人的には、万葉集を新鮮な目で読み直し、これまで気づかなかったその魅力の一端に気づかせてもらったということに、強い感動と感謝の念を覚えました。


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『さよならバグ・チルドレン』(山田航) [読書(小説・詩)]

 「「いい意味で愚かですね」とコンビニの店員に言はれ頷いてゐる」

 「打ち切りの漫画のやうに前向きな言葉を交はし終電に乗る」

 「ひなげしといふ形容詞あつたならこんな日はきつとひなげき気分」

 未来への希望と幻滅、持て余してお持ち帰りするしかない自意識。山田航さんの、若さ染み出す第一歌集を読みました。単行本(ふらんす堂)出版は、2012年8月です。

 山田航さんといえば、穂村弘さんの短歌を解説した『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』を読んだことがありますが、ご自身の歌集を読むのは初めてです。ちなみに『世界中が夕焼け』単行本読了時の紹介はこちら。

  2012年07月17日の日記:
  『世界中が夕焼け 穂村弘の短歌の秘密』(穂村弘、山田航)
  http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2012-07-17

 さて、本書ですが、随所から若さが感じられる歌集です。特に学校が舞台となる作品は、もう青春まみれ。

 「カントリーマアムが入室料になる美術部室のぬるめのひざし」

 「水飲み場の蛇口をすべて上向きにしたまま空が濡れるのを待つ」

 「酔つ払へるカフェオレ「カルアミルク」なるものの噂で街はもちきり」

 「僕のほかに誰が歌へるといふのだらう超新星へのレクィエムなど」

 超新星へのレクィエムを歌ったりする一味違うオレも、バイトをしたり、就活をはじめたりするだけで、いきなりぺっしゃんこ。

 「僕が僕にしかなれないといふ悪夢 バスの天井吹き晒す風」

 「たぶん親の収入超せない僕たちがペットボトルを補充してゆく」

 「「いい意味で愚かですね」とコンビニの店員に言はれ頷いてゐる」

 自分は役立たずの負け組、といった苦々しい幻滅を感じるようになります。自嘲や僻みが口癖になったり。若いなあ。

 「モノクロに還るゆふやみ残業のデバッグルームに灯る自販機」

 「打ち切りの漫画のやうに前向きな言葉を交はし終電に乗る」

 「ざわめきとして届けわがひとりごと無数の声の渦に紛れよ」

 「いつの日か誰かわかつてくれるだらう 夕焼けもまた自閉してゆく」

 ふと死を考えたりしますが、まあ逃避です。

 「いつも遺書みたいな喋り方をする友人が遺書を残さず死んだ」

 「鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る」

 「交差点を行く傘の群れなぜ皆さんさう簡単に生きられますか」

 「正月しか見たことのない漫才師みたいに生きてゆけたらと思ふ」

 個人的には、自分でしかない自分を受け入れるしかないまま受け入れ生きるしかないから生きるようになるまでの、肩から力が抜けるまでのあの長い苦しみを、しみじみと思い出しました。若かった。

 「ひなげしといふ形容詞あつたならこんな日はきつとひなげき気分」


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『月の裏側に住む』(高柳誠) [読書(小説・詩)]

 「負け犬の手が伸びた。負け犬の手が伸びたら大変だ。伸びた方の手と伸びなかった方の手のちぐはぐさからくる不自由だけでなく、手足のバランスそのものが崩れて歩行にも重大な困難をきたしてしまう。それどころか、第一、手足のバランスが大きく崩れたら、それはもう、例えば手長犬といった、種として別のものになってしまう危惧さえ生まれてくる。いや、そもそも前足ではなく手というからには、動物としての犬ではなく、比喩的な意味での負け犬のことを言っている可能性だってあるし、むしろ、こちらの可能性に将来を賭けるべきかもしれない」(『負け犬の手』より)

 過激なまでに語感にこだわり、駄洒落をも厭わず徹底追求する勇ましい詩集。単行本(書肆山田)出版は、2014年4月です。

 例えば「クレマチス」という花があります。クレマチス。ちょっと奇妙な語感だなと思っても、普通はそのまま流してしまうでしょう。しかし、著者は違います。この語感を徹底的に追求してしまうのです。

 「このクレーとマチスの不完全な連合軍が担うこととなった欠落感は、今や、クレマチスだけにとどまらず、花卉植物界の至る所に見られるので、その結果、クレー的な要素がいつも「ー」不在のまま語られてしまい、これでは花卉植物界におけるクレーの影響を言うにしても本質を意図的にずらされた場所でいつも議論をしていることになる。これを、植物界におけるマチス側の陰謀だとする説も一部にはあるようだが、しかしそれを言うのなら、「ー」のない状態でマチスと連合を組んだクレー側の責任も追求すべきで、そうなると、汎クレマチス普及協会の存在意義自体にまで話が広がり、花卉植物界の混乱は今以上に収拾がつかなくなってしまう」(『クレマチス』より)

 同様に「巨頭会議」という言葉の奇妙さに対しても、追求の手を緩めません。

 「夏の保養地としてにぎわうS**市で、来週から、第九回世界巨頭会議が開かれる。今年は、例年の会議に比べ、第一線の錚々たるメンバーの参加が見込まれ、世界の巨頭という巨頭がそろったことで、人びとの大きな注目を集めている。今年の最大のテーマとして「才槌頭」を巨頭のメンバーに加えるかどうかが議論されるもようで、早くも、その議題をめぐって激しい前哨戦が街角で繰り広げられている」(『世界巨頭会議』より)

 誰もがたじろぐであろう「接骨木」に至るや、もはや追求というより糾弾と呼ぶべき声高な調子へとエスカレート。

 「一体全体、だれが「接骨木」と書くと決めたのだ。第一、この文字のどこをどうやって「ニワトコ」と読ませるのか。名は体を表すと言うが、(中略)音韻的にもまったく合っていないし、存在のあり方とあまりに遠いのである。これがどうして抗議をせずにいられるであろう」(『接骨木の嘆き』より)

 誰も聞いてくれないせいか、抗議はますますエスカレート。ついには抗議というよりアジテーション、アドボカシー、アホロートル、アホーダンスへと、激しさはいや増すばかりです。

 「手の叛乱だ。さんざん蔑視され続けた手が、ついに叛乱軍を蜂起させたのだ。手は、すべてに飢えている。きびしい手仕事の感触に。職人としての手の誇りに、その他なにもかもに。与えられるのは、キーをたたくこと、パネルにタッチすること、スイッチを押すことばかりだ。世界を、この手に取りもどすのだ」(『手の叛乱』より)

 「柔らかい梨自身が存在の意味を失い、梨くずし的に崩壊していくのをわたしたちは見まもるしかないのだ。しかし、見まもるわたしたちはともかく、今ここにある梨の実になってみれば、意味の側からのなんの反応もない状態で、つまりは梨のつぶて」(『柔らかい梨』より)

 「ネジを逆さに巻くときの現象について語ろうとすると、正直足元が揺れる。しかし、現実に逆ネジがある限りは、人としてそのネジを巻く義務がある」(『逆ネジを巻く』より)

 駄洒落も辞さないその覇気。でも、駄洒落だよなあ。

 「五月ウサギの場合、四月に発情期が来るのだが、ふだんは穏やかな性格にもかかわらず、その時期になるときわめて凶暴な性格をおび、その交尾のさまは、「暴淫暴色」ということばを生み出したほどすさまじい。(中略)発情期ののち、たった一カ月の妊娠期間を経て五月に集団で出産する。この様子から「荒淫矢のごとし」のことわざが生まれた」(『五月ウサギ』より)

 駄洒落に加えてシモネタをも厭わないその蛮勇。

 「素人の裾が濡れるとこわい。栗とリスも濡れてしまうからである。秋の雑木林のなかでしょぼふる雨にしっとりと濡れそぼつ栗とリス。でも本当に濡れるのは栗とリスなのかを、一つ一つきちんと現物にあたって検証しなければならない。むしろ、人里離れた古寺の庫裡とリスが人知れず濡れているのも、風情があって心うつものがないだろうか。いや、濡れるのは二つの並列するものと、特定してかかる思考法自体が問われているのかもしれない。そう考えると、例えば、人との生活にすっかり慣れきってなんとなく所帯じみてきた庫裡戸リスが、すっかり濡れている可能性だって否定できないし、かいがいしく戸袋に巣作りを始めた、しまり屋の繰り戸リスが思わず濡れてしまったことだってありうる。(中略)こうした妄想がぐちゃぐちゃに入り混じって、その妄想自体が静かな秋の雨にずぶずぶに濡れてしまうので、素人の裾が濡れるとこわいのである」(『濡れる裾』より)

 書き写しているうちにふと内省的になってしまいましたが、頑張りました。自分をほめてやりたい。


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『ヴィジュアル版 人類が解けない科学の謎』(ヘイリー・バーチ、マン・キート・ルーイ、コリン・ステュアート、柴田譲治:翻訳) [読書(サイエンス)]

 宇宙の秘密、生命の不思議、意識の謎。科学における主要な未解決問題を20問取り上げ、概要から最先端の研究まで多数の写真とイラストを用いて解説してくれる全ページフルカラーの豪華なサイエンス本。単行本(原書房)出版は、2014年3月です。

 「問うことが素晴らしく、そして同時に腹立たしくも思えるのは、問うことに終わりがないことだ。ひとつの問いに答えが出ても、そこから必ず新たな問いが生まれる。だからこそ科学者は答えを求め続け、人間の好奇心はつきることがない」(単行本p.9)

 物理学、天文学、生物学、医学、数学、そして社会とテクノロジーに関する20個の未解決問題を紹介する本です。「ヴィジュアル版」と銘打つだけあって、ほとんど全てのページにカラー写真やイラストが掲載されており、眺めているだけでも楽しめます。

 もちろんページ順に読んでもいいのですが、興味がある分野ごとにまとめて読むのもお勧めです。

 まず天文学。「第1章 宇宙は何からできているのか?」では、正体が分かっていない暗黒エネルギーと暗黒物質、「第3章 人類は宇宙の孤独な存在か?」では地球外生命探査、「第8章 宇宙はほかにも存在するのか?」ではインフレーション理論および量子論における多世界解釈について、それぞれ紹介されています。

 「暗黒物質やその兄弟分である謎の暗黒エネルギーの正体がなんであれ、宇宙の大半はそれらによって占められている。私たちが生きているこの宇宙は、私たちを構成しているような原子でできているわけではないのだ」(単行本p.24)

 次に物理学。「第7章 なぜ物質が存在するのか?」では、この宇宙に物質がある、というか消滅せずに一部が残っている理由から、「対称性の破れ」へと進んでゆきます。「第17章 ブラックホールの底に何があるのか?」では、一般相対性理論から超ひも理論を経て、M理論へと至る道筋を示します。「第20章 時間旅行は可能か?」では、ワームホールを利用したタイムトラベルの可能性について教えてくれます。

 「M理論により量子力学と一般相対性理論というまったく異なるように思えるふたつの理論が真に統一できた日には、ブラックホールの「特異点」も歴史書の範疇ということになるだろう」(単行本p.232)

 生物学。「第2章 生命はどのように誕生したのか?」では、生命誕生の秘密をめぐる最新の議論を紹介。「第4章 人間はほかの生物とどこが違うのか?」では、他の動物と比較した人間の遺伝子の特徴を探ります。「第16章 深海に何があるのか?」では、深海探査によって発見された海底の生態系が紹介されます。

 「ヒトゲノムはチンパンジーのゲノムと99パーセントまで一致し、さらに言うならバナナのゲノムとも50パーセントも一致するのである。機能のあるタンパク質を暗号化している遺伝子だけを見ると、イースト菌と69パーセントまで一致し、ショウジョウバエとは94パーセントも一致する」(単行本p.55)

 一般読者の興味を惹くためか、医学・生理学には最も多くのページが割かれています。「第5章 意識とは何か?」では、私たちの意識や主観体験が「いかにして」「なぜ」生ずるのか、というハードプロブレムが扱われます。「第6章 なぜ夢を見るのか?」では、睡眠と夢が果たしている生理学的な役割についての研究が紹介されます。

 「第14章 病原菌を駆逐できるのか?」では主に抗生物質をめぐる課題が、「第15章 癌は克服できるか?」では癌研究最前線、そして「第18章 永遠の命を手に入れることができるだろうか?」では抗老化研究の状況が解説されています。

 「毎年新たに約44万件もの多剤耐性肺結核の発症事例があり、世界中で少なくとも15万人が死亡している。さらに悪いことに、広範囲薬剤耐性結核菌(XDR-TB)が64か国で報告され、完全薬剤耐性肺結核菌が出現する兆しもある。さらに懸念されているのは、肺結核であれそのほかの細菌であれ、既存のどんな抗生物質を使っても治療できない新しい菌がすでに現れている可能性があることだ」(単行本p.181)

 「癌はまだわからないことだらけだが、それでもよいニュースもあって「わからない点があるということがわかってきた」のである」(単行本p.201)

 テクノロジーまわりでは、「第10章 太陽からもっとエネルギーを得るにはどうしたらいいか?」は人工光合成などの自然エネルギー、「第12章 コンピューターはどこまで高速化できるのか?」は量子コンピューターやDNAコンピューター、「第13章 ロボットの執事が登場するのはいつ?」ではロボット工学の発展について解説します。

 「今から考えてみれば1969年にニール・アームストロングとバズ・オルドリンを月へと運んだ誘導システムが、現在のトースターより非力な計算能力しかなかったことなど想像もできない感じだ」(単行本p.155)

 一般読者は興味を持たないだろうと考えたのか、数学については「第11章 素数のどこがそれほど不思議なのか?」で、素数(の分布)に関するリーマン予想が取り上げられているだけです。

 社会問題としては、「第9章 炭素はどこに貯めておけばいいのか?」では地球温暖化への対策、「第19章 人口問題を解決するにはどうしたらいいか?」では社会の持続性と食料供給問題が扱われます。

 「私たちが1年間で消費している資源を再生するには約18か月かかってしまう。私たちはクレジットカード払いで生態系を消費しているようなもので、その請求書が届かないことを願っているのである」(単行本p.249)

 というわけで、幅広い分野について「今まさに科学者や技術者が取り組んでいる最前線の研究」を紹介してくれる一冊です。問題のポイントや研究の方向性について短いページ数で要領よくまとめられており、また美しいカラー写真満載で視覚的魅力にあふれているので、若者向けのポピュラーサイエンス入門書としても適しているでしょう。

 本書にざっと目を通し、気になる項目があればそのテーマに関するサイエンス本(どの項目についても一般向けの解説書が出ています)を読み、さらに深く知りたければ専門書に手を出す、というのが良いと思います。


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