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『食の戦争 米国の罠に落ちる日本』(鈴木宣弘) [読書(教養)]

 「いま進んでいる事態は、安さを求める激しい競争の中で、安全性への配慮や安全基準がおろそかにされ、食料生産そのものや食ビジネスの利益が一部の国や企業に偏って、世界の人々への安全な食料の安定的な供給の確保が脅かされているという事態だ」(新書版p.202)

 TPPによって日本の農業はどのような影響を受けるのか。一部の巨大企業によって世界中の食料供給がコントロールされつつある状況とその問題点を明らかにする一冊。新書版(文藝春秋)出版は、2013年08月です。

 食の安全と安定供給に関わる危機的な状況を、平易に解説した新書です。全体は6つの章に分かれています。

 最初の「第1章 戦略物資としての食料」では、世界の食料供給を支配するという目標に向かってつき進む米国の戦略を分析します。

 「アメリカは、いわば、「安く売ってあげるから非効率な農業はやめたほうがいい」と諸外国にアメリカ流の戦略を説くことで、世界の農産物貿易自由化を進めてきた。それによって、基礎食糧であるコメ、小麦、トウモロコシなどの生産国が世界的に減り、アメリカなどの少数国に依存する市場構造になった」(新書版p.24、25)

 「各国の食料の生産力を削ぎ、食の安全基準などを緩めさせる規制緩和を徹底し、食の安全を質と量の両面から崩すことによって、「食をめぐる戦争」に勝利し、利益を拡大する(中略)。アメリカが「最も安い武器」である食料を握ることで、「食の戦争」に勝利し、世界の覇権を維持しようとする戦略としても位置づけられよう」(新書版p.112)

 続く「第2章 食の安全を確保せよ----食の安全をめぐる数々の懸念」では、食中毒事故、BSE(狂牛病)、遺伝子組換え(GM)食品、BST(牛成長ホルモン)、硝酸態窒素、在留農薬といった問題を取り上げ、米国から強いられた規制緩和や盲目的な価格競争によってどんな危険な事態が引き起こされているのかを解説します。

 食の安全をめぐる最近のトピックが一通り揃っていますので、「日本の食は安全」と思っている方は、まずこの章にざっと目を通してみることをお勧めします。

 「第3章 食の戦争I----モンサント発、遺伝子組換え作物戦争」は、個人的には最も興味深く読めた章です。

 「アメリカ穀物協会幹部が「小麦は我々が直接食べるので、遺伝子組換え(GM)にはしない。大豆やトウモロコシは家畜のエサだから構わないのだ」と発言し、物議を醸した。(中略)アメリカは、アメリカ人の主食である小麦はGMにしないという方針は頑なに守ってきた。アメリカを含め、遺伝子組換えが小麦で認可された例は世界でまだない」(新書版p.90、91)

 うわ、まるで味噌や醤油などの大豆加工品を食べる日本人やトウモロコシを食べるメキシコ人は家畜同然、と言われたような不快感。たぶん米国のエリートは本気でそう思っているんだろうな。

 「今では日本人の1人当たりのGM食品消費量は世界一といわれている。日本はトウモロコシの9割、大豆の8割、小麦の6割をアメリカからの輸入に頼っている」(新書版p.91)

 「GM作物の商業栽培が開始された1996年と比較すると、その栽培面積は実に100倍に増加したことになる。また、2012年の栽培面積の内訳をみると、発展途上国における栽培が全面積の52パーセントを占め、初めて先進国のそれを上回った」(新書版p.98)

 「アメリカにおいて、2012年に遺伝子組替えのトウモロコシ、大豆、綿花が作付面積全体に占める割合は、それぞれ88パーセント、93パーセント、94パーセントとなっている」(新書版p.98、99)

 「2009年時点で、モンサントは世界の種子売上高の27パーセント、4分の1以上を支配する世界一の種子会社になり、アグロバイオ3社で種子市場の53パーセントを占めている。(中略)農家が生産を続けるにはモンサント社の種を買い続けるしかなく、種の特許を握る企業による世界の食料生産のコントロールが強められていくのである」(新書版p.104、107)

 こうしたデータを見ると、もうGM作物を武器にしたモンサント社の食料支配に抵抗するのは無理ではないかという絶望的な気持ちにかられます。この露骨な覇権戦略を前にすると、「GM食品は安全か」といった科学的な議論など瑣末な問題に思えてきます。

 欧州はGM食品に対する抵抗を続けていますが、それは食料自給率が高いから可能なこと。食料の大半を米国からの輸入に依存している日本には真似することが出来ないのです。

 「第4章 食の戦争II----TPPと食」では、TPPによって日本の農業が受けるであろう壊滅的な打撃を解説。コメなどの「聖域」は守るから大丈夫、むしろTPP参加で農業を強くするチャンス、といったTPP推進論の欺瞞を激しく攻撃します。

 著者のTPPに対する反感は相当なものらしく、「1パーセントの、1パーセントによる、1パーセントのための協定」、「史上最悪の選択肢」、「今だけ、金だけ、自分だけ」、などと強い表現で批判、というか罵っています。確かに、自動車のシェアがどうこうといった話ではなく、自分たちの命と健康を、1パーセントの富裕層に投げ売りすることを強制されると思えば、感情的になるのも分かります。

 残る二つの章では、日本の農業が置かれている状況を整理し、通説の誤りを正し、食に関する日本の国家戦略はどうあるべきかを論じます。

 様々な問題を詰め込んであるため全体を把握するのが難しくなっている観もありますが、とりあえず「食の安全」、「TPPと日本の農業」、「遺伝子組換え作物」、といった話題について、何が問題となっているのかを手早く知っておきたい人には大いに役立つ一冊です。農業経済学者の立場からの骨太のTPP反対論としても読みごたえがあります。

 「徹底的な規制緩和を断行し、市場に委ねれば、世界の経済的利益は最大化されるという論理は、単純明快だが、極めて原始的で幼稚である。(中略)それを徹底すれば、ルールなき競争の結果、一部の人々が巨額の富を得て、大多数が食料も医療も十分に受けられないような生活に陥る格差社会が生まれる。それでも、世界全体の富が増えているならいいではないかと言い続けるなら、そんな「経済学」に価値はない」(新書版p.206)


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『カッパ・ブックスの時代』(新海均) [読書(教養)]

 「カッパと言えば、ベストセラーの代名詞だったのだ。「カッパ・ブックス」「カッパ・ノベルズ」「カッパ・ビジネス」「カッパ・ホームス」を合わせると、17冊のミリオンセラーの記録がある。カッパという一つのブランドだけで、この記録を打ち立てた新書は日本出版史上類を見ない」(単行本p.11)

 1960年代にベストセラーを輩出し、第一次新書ブームを巻き起こした新書ブランド、カッパ・ブックス。それはいかにして創られ、そして滅びていったのか。単行本(河出書房新社)出版は、2013年07月です。

 『頭の体操』、『姓名判断』、『英語に強くなる本』、『点と線』、『冠婚葬祭入門』、『日本沈没』、『にんにく健康法』、『悪魔の飽食』。ああ、懐かしい。

 私が物心ついた頃、書店の棚にはカッパ・ブックスがずらりと並べられており、どこの家庭の本棚にもカッパ・ブックスの数冊は置いてありました。教養本、雑学本、娯楽小説といえば、まずカッパのマークが思い浮かんだものです。

 あのカッパ・ブックスというのは、どんな人々が作っていたのでしょうか。そして最後はどうなったのでしょうか。本書は、このシリーズ最後の編集員である著者が、カッパ・ブックスの歴史を当事者の立場から赤裸々に語った一冊です。

 「カッパの創刊から半世紀の紆余曲折を経、2005年、「カッパ・ブックス」編集部員は私たった一人のみとなり、部長もいない部署となった。(中略)最後の「カッパ・ブックス」の編集部員として「カッパ・ブックス」とは何だったのか、どのようにして生まれ、どのように成功し、どのように消えざるをえなかったのか検証しようと考えた」(単行本p.13、15)

 というわけで、本書の第1章から第4章までは、光文社の創業からカッパ・ブックスの誕生、快進撃までの歴史が書かれています。高度経済成長期を爆発的な勢いで駆け上っていった、伝説的な編集者やプロデューサーの活躍。次から次へと巻き起こす社会現象。

 「知識人向け教養路線の「岩波新書」に対して、徹底したわかりやすさに重点を置いた、大衆向け教養路線の新書を企画したのだ。それは新しい読者の開拓でもあった」(単行本p.40)

 「長瀬に関して言えば三年連続でベストセラー1位の本を作り続けたということになる。しかも、占い、ビジネス本という二つの分野を開拓したことにもなる。神吉を支えた、まさに誰もが認める“天才肌”の編集者だった」(単行本p.91)

 「「その著者で売れたら、その著者が枯れつくすまで絞れ」というのも、「難しいものは柔らかく、やさしいものはもっともらしく」というのも牧野の方針だった」(単行本p.169)

 「1961年には、日本の刊行物の売り上げベスト10の中で5冊がカッパの本が占めたのである。(中略)10月20日、発売からわずか二ヶ月半で100万部を突破した。「カッパ・ブックス」が日本で初めて成し遂げた金字塔だった」(単行本p.69、79)

 「ぜひうちに来てくれと、光文社の総務部から言われた。『20年間、一切仕事をしなくても、年間20ヶ月分の給料が払える。つまりボーナスを八ヶ月分出す』と」(単行本p.146)

 「1970年、光文社は飛ぶ鳥を落とす勢いの絶頂期を迎えていた。200人の社員で200億円稼ぐ。一人当たりの稼ぎが日本一ともささやかれていた。親会社・講談社を抜く勢いの神吉体制は、講談社にとっても目の上のたんこぶとなっていた」(単行本p.127)

 誰の妄想かと思うような景気の良い話がばんばん飛び出します。そういう時代だったんですね。今の若者が読んでも、ぴんとこないかも知れません。

 余談ですが、『日本沈没』(小松左京)の元タイトル、つまり著者が提案した題名が、「『日本滅亡』----果てしなき流れの果てに・・・、出発の日」というものだった(単行本p.170)と知って、思わずのけぞりました。なにその小松左京長篇傑作選みたいなタイトル・・・。

 そして第5章で、ついに伝説的な「光文社争議」の顛末が語られます。基本的には単純な労働争議だったはずなのに、それが果てしなくこじれてゆく様には胃が痛みます。

 「紛争はこじれていった。その大きな原因に暴力団に力を借りたロックアウトがある。(中略)驚くことに会社はその暴力団を率いる武田義昭を、労務担当重役に任命したのだった。出版人が暴力で事態を打開しようとするという、あってはならない事態が起こりつつあった」(単行本p.132)

 「1972年に入っても、会社へ行けば殴られ、社内に入れば放り出される状態が続いた。多くのけが人が続出、膵臓破裂や、失明寸前の重傷のけが人も出た。(中略)組合員が18名逮捕され、内12名が起訴されるという、前代未聞の弾圧もあった。暴力団のみならず、講談社と深いパイプもある大塚警察をはじめとする、警察権力も会社に味方したのだ」(単行本p.138、139)

 無茶苦茶です。そういう時代だったとしか言いようがありません。いや、やり口が狡猾になっただけで、今でも本質は変わってないのかも知れませんが。

 この大紛争により多くの編集者が光文社を去り、やがて野に散った彼らが創り出した新書が、「プレイブックス」であり「ノン・ブック」であり「ゴマブックス」であり「ワニブックス」だったのです。うわ、この辺、裏に回ってみると、みんなカッパの血族でしたか。

 「こうして、光文社争議をきっかけに、「カッパ・ブックス」のDNAはさまざまな出版社にばらまかれた。新書は文字通り「群雄割拠」の時代に突入し「新書時代」を形成した。カッパの方法論は、多くの出版社にまたたく間に伝播していった」(単行本p.160)

 やがて高度経済成長が終わり、光文社の経営も傾いてきます。というか急降下します。

 「並河時代には何と、480億円をわずか八年の任期で毎年、60億円ずつ使い果たしてしまったという計算になる。なぜここまでの惨状を隠しておいたのか?(中略)ぎりぎりの段階になって初めて経理を公開し、リストラで社員の首を切ってゆく。経営陣の無責任ここに極まれり、というほかない」(単行本p.242)

 「2007年マイナス36億。2008年マイナス45億。2009年マイナス25億と驚くべき赤字が三年間続いた。(中略)首切りのリストラ案が練られ始めた。これには講談社の経営陣も参加してきた。(中略)社内は誰が辞める、辞めない、あの人の事情、この人の動向、あちこちでひそひそ話。仕事にならない」(単行本p.245、246)

 バブルに乗って大儲けしたものの、会社のガバナンスは無いも同然、不透明な会計と使途不明金の山、売上不振にも無為無策の経営陣、優秀な人材から放逐してゆくリストラ策。何だか日本企業の象徴のような顛末に、とほほ感が身に染みる思いであります。

 というわけで、日本に「新書」という新しい大衆文化をもたらしたカッパ・ブックスと光文社の内幕、今だにそのノウハウの焼き直しで食っているとしか思えない出版業界、色々と考えさせられる一冊です。

 文章は上手いとは言えないし、エピソード配置も散漫だったり繰り返しが多かったりして読みにくい面が目立つのですが、何しろ当事者にしか書けない赤裸々な内容が実にエキサイティング。カッパ・ブックスと光文社に興味がある方はもちろんのこと、出版業界に関心のある方、特に新書ブームの「原点」を知りたい方にお勧めします。


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『海の仙人』(絲山秋子) [読書(小説・詩)]

 「孤独ってえのがそもそも、心の輪郭なんじゃないか? 外との関係じゃなくて自分のあり方だよ。背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ」(Kindle版No.851)

 海辺の町で一人暮らす青年の前に「ファンタジー」と名乗る神様が現れた。絲山秋子さんの初期長篇の電子書籍版を、Kindle Paperwhiteで読みました。単行本(新潮社)出版は2004年8月、文庫版出版は2007年1月、電子書籍版の出版は2012年04月です。

 「ほかの連中からしたら、今のカッツォはわけわかんない。変わり者。仙人みたいなものかな。海の仙人」(Kindle版No.433)

 宝くじに当たったため、仕事を退職して海辺の町に引っ越して独り暮らしを始めた青年の前に、「ファンタジー」と名乗る謎の神様が現れる。神様なのに何も出来ないのはまあいいとして、その自称のセンスはどうかと思う読者をよそに、青年は彼の存在をあっさりと受け入れ、一緒に生活することになるが・・・。

 「ファンタジーは笑った。こんこんと湯が湧きだすような笑いだった。河野はその笑い方が気に入った。そう簡単に嫌いになれる相手ではなさそうだった」(Kindle版No.73)

 人づきあいが苦手で、孤独癖が強い青年、河野が主人公。自分で決めた生活習慣は律儀に守るものの、他人との関わりを出来るだけ避けている彼が、ファンタジーと出会った後、女性二人と交流することになります。

 宝くじ当選、引退、海辺の一人暮らし、神様顕現、女性二人から想われる、でもセックスとかそういう生々しいのはナシということでよろしくお願いします、という展開はまさにファンタジー。どう考えても神様の仕業としか思えないのですが(実際、よく読んでみるとファンタジーは河野の言動をこっそり操っていたりする)、みなさん神様をこれでもかと言わんばかりに軽んじていますよ。

 「ん、あんたは底が知れたね」(Kindle版No.481)

 「ほんま、役に立たん神さん拾ってしもたわ」(Kindle版No.515)

 しかし、何やかや言いながらもファンタジーの存在に馴染む登場人物たち。かたくなな孤独から少しずつ抜け出し、他者との交流に踏み込んでゆく主人公。だが、その先には様々なドラマが待ち構えていた。

 孤独とはどういうことか、孤独に生きているだけでは駄目なのか。他者との関係性の迷いを、ファンタジーに託した作品というべきかも知れません。

 「河野は不意に心がひきつるように痛むのを覚えた。彼はファンタジーを失うことを恐れはじめていた」(Kindle版No.575)

 「あたしのファンタジーは終わりだ」(Kindle版No.921)

 「人間が生きていくためには俺様が必要なのだ。(中略)お前さんが生きている限りファンタジーは終わらない」(Kindle版No.926)

 というわけで、他者との深いつながりを拒絶していた青年が、二人の女性との関係により、次第に他者に対して歩み寄ろうとしてゆく物語です。後半はそれこそ陳腐なメロドラマみたいな展開になりますが、何しろ神様が堂々とそう名乗っているので、そこはファンタジーということで。

 くどい心理描写やメロドラマ的盛り上げを極力避けて、淡々と描写を重ねてゆく乾いた筆致が印象的。それと関西弁の魅力。話の展開より、むしろ文章の味わいで読ませる作品です。


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『かあさんは どこ?』(クロード・K・デュポワ:作、落合恵子:訳) [読書(小説・詩)]

 「この本の主人公と母に共通していることは、ともに見放された子どもであること、暴力、悲しみ、恐怖など、子どもが理解できない、巨大な社会の理不尽な現実に、幼くして向きあわなければならなかったことです」
(作者の言葉 『母からゆずりうけた指輪』より)

 戦争に巻き込まれた幼子の体験を描いた絵本。単行本(ブロンズ新社)出版は、2013年02月です。

  「ないた。ときどき ないた。たびたび ないた。
   かあさんをおもって いもうとをおもって
   ともだちをおもって
   その子は ないた」

 突然、戦争に巻き込まれた故郷。外で遊んでいた幼子が戻ってみると、家は破壊され、家族は誰もいなくなっていた。散乱するたくさんの遺体の間を走り続けて、やがて難民キャンプに収容された幼子。だがそこに軍の兵士がやってきて、幼子を強制徴用する。かあさんは どこ? ぼくはどうなるの?

 子供の目から見た理不尽な社会的暴力を、ほとんどモノクロのスケッチ調の絵で描いた絵本。遺体や難民の様子もリアルに描かれていますが、絵柄のおかげで直接的に陰惨な印象はありません。ただ、その理不尽な恐ろしさはひしひしと伝わってきます。

 状況を理解できないまま、恐怖と惨めさにうちひしがれて、母親をもとめる幼子の姿には胸をつかれます。これは今も世界のあちこちで起きている現実ですし、戦争に限らず、子どもたちの身に起きていることなのです。

 「この本では、戦争下の子どもを描きましたが、2011年に日本で起きた大きな自然災害に巻きこまれた子どもについても、わたしは考えずにはいられません」
(作者の言葉 『母からゆずりうけた指輪』より)

 というわけで、大人や社会の理不尽さ、現実の悲惨さに、気づかせるためにも、早めに子どもに読ませてあげたい一冊。

 個人的には、昨日の日記で紹介した絵本『やだよ』(クラウディア・ルエダ:作、うのかずみ:訳)と一緒にこっそり甥っ子に贈ろうと思います。『やだよ』は、母熊とはぐれてしまった小熊のお話ですが、「これはもちろん寓話で、本当の話はこっちの絵本に書いてあるからね」と優しく教えてあげよう。


タグ:絵本
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『やだよ』(クラウディア・ルエダ:作、うのかずみ:訳) [読書(小説・詩)]

  「そろそろ おやすみの じかんよ」
  「やだよ まだ ねむくないよう」

 熊の母子が登場する動物絵本。単行本(西村書店)出版は、2013年02月です。

 秋も深まり、そろそろ冬眠の季節がやってきます。せっかく母熊が巣穴を用意したのに、やんちゃな小熊は眠ろうとしません。

  「ぼく さむく ないもん」
  「ぼく つよいから へっちゃらだい」
  「ぼく ゆき だーいすき!」

 母熊がいくら言っても聞き耳持たない子熊。雪の中ではしゃいでいるうちに、ふと気がつくと辺りは吹雪。何も見えず、どんどん寒くなってきます。

 慌てて母熊を呼ぶ小熊。

  「ママ?」

 でも雪嵐で何も聞こえません・・・。

 そろそろ甥っ子もひらがなが読めるようになってきたので、自分で読んで楽しめるような動物絵本を贈りました。母熊の言うことをいかない小熊が怖い目にあうという、たいへん教育的な内容です。

 絵本のビジュアルには、絵画的なものと、イラスト的なものがありますが、本書はイラスト的。熊は影絵のように平面的に描かれ、雪景色はほぼ白一色です。他の動物(狸、ハリネズミなど)もスタンプ印のよう。写実的に描かれた動物を怖がるタイプの子供にも安心して読ませることが出来ます。


タグ:絵本
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