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『桜の首飾り』(千早茜) [読書(小説・詩)]

 「桜なんて毎年咲くのに、いつだって見る度に目を奪われて、懲りもせず胸に切ないものが込みあげてくる。幸福な夢のような日々がまたぽっと咲くのではないかと期待してしまう。諦めても、諦めても、どんなに身体や心が醜く歪んで老いていっても、春の嵐はいつだって吹き荒れる」(単行本p.144)

 心騒がせ、酔わせ、狂おしくさせ、とり憑く。桜と人の物語を七篇収録した短篇集。単行本(実業之日本社)出版は、2013年02月です。

 私がはじめて読んだ千早茜さんの作品は、『短篇ベストコレクション 現代の小説2010』(日本文藝家協会)に収録された、『管狐と桜』という短篇でした。これが気に入ったので、第37回泉鏡花文学賞を受賞したというデビュー長編『魚神』を読んでみて、びっくり仰天して、これはもう追いかけねばと決意したわけです。

 その思い出の短篇(ただし『春の狐憑き』と改題)を含む全七篇が収録された短篇集が出版されました。どの作品にも、何らかの形で桜が登場します。人の狂おしい想いを象徴するかのように、咲き乱れ、降りかかる、白い花弁。激しさと優しさを内包するそのイメージに貫かれた作品集です。

 「だから私は思うのです。どんな行動にもその人なりの意味と必然性があるのではないかと。露悪的に見えても、遠まわりしているように見えても、それは完成するために欠かせない工程の一つなのではないかと」(単行本p.106)

 妖狐を使役するという謎の老人との出逢いを描いた『春の狐憑き』、孤独な男女のすれ違いを描いた『白い破片』、ステージママから精神的虐待を受けている娘の心の成長を描いた『初花』、夫への当てつけから不倫に走る女の心の揺れを描いた『エリクシール』。このあたりまでは、よく出来た恋愛小説として安心して読めます。

 しかし個人的にお気に入りなのは、球筋の読めない変化球ともいうべき最後の三篇。

 「桜はちょっと苦手。昔、桜の花びらで首飾りを作ろうとしたの。糸で繋いでね。すごく綺麗なのができたの。でも一晩たったら、縮んで黒ずんで、汚いけしかすみたいになっちゃった。消えてしまうんだなって思った。なんでも魔法みたいに。膨らんだ幸せな気分も、一瞬で」(単行本p.139)

 二人の男の会話から一人の女性の姿が浮かび上がってくるのですが、その実像はなかなか焦点を結びません。虚言癖のある自堕落な娘なのか、それとも明るくけなげで生き生きとした娘なのか。物語の軸となる女性が実際にはまったく登場しない『花荒れ』は、その心憎い構成で読者の想像力を刺激します。

 「君はひとつ間違っている。この仕事の価値は私たちが決めることではない。それが決まるのは、ここの資料が研究の役に立った時だ。その日が来ないとしても、その日まで何もおろそかにしないで記録し保存し続けるのが私の仕事だ」(単行本p.172、173)

 大学の研究資料館で助手として働いている語り手。そこに「青い桜吹雪の刺青を探している」という女性が訪れる。資料館の地下に、人のなめし皮の標本があるはずなのでそれを見せてほしいというのだ。なぜ彼女はそんな不気味なものを探しているのか。頑なに拒絶する資料館主任を前に、語り手は一計を案じるが・・・。

 ミステリじみた導入から、少しホラーな雰囲気へ、そして禁断の地下保管室へと向かう『背中』にはどきどきします。意外にも読後感はさわやか。

 「桜染めは花びらじゃなくて、花が咲く前の生木を使うから。花びらからだした色では布には染み込まない。梅も桜もね、褪せない色は幹の中にあるんだ。秘めたものは強いんだよ」(単行本p.203)

 庭の桜の切り株のところに現れる少女の幽霊。語り手だけに見えるその不思議な現象は、どうやら亡くなった祖母と関係があるらしい。

 最後を飾る『樺の秘色』は、物語の軸となる祖母が実際には登場しないという点では『花荒れ』と同じ仕掛けですが、生前の彼女が心に秘めたままだったもの(明には書かれず読者の想像に任されますが、おそらくは許されない恋心)が舞い散る桜の幻想として立ち現れるシーンは、いかにもこの作者らしくて感動的です。

 全体的に、短篇集『あやかし草子 みやこのおはなし』や長編『魚神』に比べると幻想味は控えめ。どちらかというと短篇集『からまる』や長編『森の家』に近い雰囲気なので、これらが気に入った読者に向いていると思います。

[収録作品]

『春の狐憑き』
『白い破片』
『初花』
『エリクシール』
『花荒れ』
『背中』
『樺の秘色』


タグ:千早茜
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『カメリアジャポニカ』(高塚謙太郎) [読書(小説・詩)]

 「ここまで書けばあやまちをおかしたということになるという。どどいつどどいつどどいつつ。玄関でどつかれている小僧の首うらに、ねえさんのどどいつ。お茶は熱いがいいか、あついってよばれてからお茶のお味をのべる舌はどどいつつるつるの湯気がたっている。ぼんやりとした不安」
  (『本朝義理覗機関』より)

 擬古文体、官能描写、鰐文学、SF語感。あらゆる技法を駆使して言葉の不必要な可能性を追求した超絶技巧現代詩集です。単行本(思潮社)出版は、2012年11月。

 驚きとたくらみに満ちた言葉の集合体です。まず最初の『抒情小曲集』からしてかなり変。というのも、ここにはごく短い現代詩が集められているのですが、その下部に、いちいち「注釈」らしきものが付けられていて、これが。

 「<カモ目>であって「カモメ」ではない、つまり<目>の彩りが次々とひらき、ついばまれ、かさなり、からげている。そのあたりを時間軸で処理したものを<リーザ>と名づけている。よって詩篇No.2は時間軸では読み得ない。すると面白いことに、<秋>は季節のことではなくなる」
  (『抒情小曲集No.2』注釈より)

 「ことを指摘しておく」、「この意味において重要ではない」、「参照のこと」、「注目したい」、「やや弱いか」、「そこここにある」、「結果といえよう」、「見て取れよう」、「再度指摘しておくと」、「成果と認めたい」、「とみておく」、といった不思議な文芸評論的慣用句が乱舞するこの注釈、実のところ注釈というか、むしろソーカル事件。

 それでも最初のうち字面だけは大真面目だったのが、次第にドリフト走行してゆきます。

 「はたして詩篇No.6から連続しているのか。その不安が読点である。ゆえに<カレンダー・ガール>という商標登録を済ませてある」
  (『抒情小曲集No.7』注釈より)

 「以上を持ちまして、すぐにもすすぐつもりでいるのです。憂い、初声が、千々に、縮こまり、困る、女文字の見返り美人」
  (『抒情小曲集No.31』注釈より)

 この「注釈ワザ」のためだけ(おそらく)に現代詩をたくさん書き、注釈を配置する物理的スペースを確保すべくわざわざ縦長のペーパーバックで出版するという、この凝りよう。まぎれもない物数奇。

 「先夜、仕事帰りに女の子の中学入学祝いに万年筆を匿名で送りつけた。今朝、万年筆は筆立てに刺さっているが、使われることはない。時代がそうさせた」
  (『高野』より)

 「初め花嫁が犬だと思っていたが、花婿が犬だった。花嫁は年々容貌衰えいつしか衣装も脱ぎ捨て、犬は凄惨に肥え太ってゆき、張子の虎のようにしか歩かなくなり、河川敷には花嫁しか来なくなり、花嫁と犬はハレのビーチでその姿を撮影されたのが揃いの最後になった。その絵葉書が届いたので、神話となった」
  (『河内』より)

 「掘削するたびに命のほどよさを唄いさ夜ふけて、キリシタン額美し、血染めの朝霧、一葉の、器官としての兎。流れえて、いま静か。命の、命。からかさ。季節の嫌いなやつほど、陰暦に演算する、ポマードポマード」
  (『スコヴィルの陽のもとで』より)

 「我が輩は鰐である。名前はまだない。(中略)我が輩は鰐、鰐として我が輩、井戸の底からこんにちは」
  (『日本鰐文学大全拾遺』より)

 「煮る似る煮汁、もう一度、煮る似る煮汁、ところどころの分家でそこかしこの餅のかたちは整う、fusyut!!焼けたようだ集まれとばかりに歯の矯正や剃刀負けした頭に、砂糖や、醤油や、味海苔や、きな粉や、餡や、えい、といらへたりければわらふことかぎりなし」
  (『本朝義理覗機関』より)

 「伊勢内宮社地、三輪山、を経て、室生へ向かう大日の落とす滴りを千の手でもてあそぶと、白布のたれるそれはそれは優美なその対岸の竜ヶ壺の口の辺りをまさぐってみる。ほら震えるような、もうすぐ大風が逆巻いて伸び縮みのはてのはてまで遠く見晴るかす、女人高野の宝瓶が大日に照り映え、ありがたやありがたや。ああいいね」
  (『赤目』より)

 「時代がそうさせた」、「神話となった」、「ポマードポマード」、「こんにちは」、「煮る似る煮汁」、「ああいいね」、といった決めゼリフ(たぶん)が気持ちよくてたまりません。格調高い擬古文体で紀行文なのか官能小説なのか分からない描写が続いたりして、もう裏筋なぜられる快感。

 かと思うと、あ、今度はSFですよ。

 「ハバネロのスコヴィル値(100,000 - 350,000)は、まわりの全てのカプサイシン物質との関係で決定される。他にカプサイシン物質のないスコヴィル値受容体の神経空間の中では、ハバネロのスコヴィル値には、何の意味もない」
  (『スコヴィルの陽のもとで』より)

 「デトリタス食者の産卵が更なるデトリタスを発生させ、デトリタスサイクルの後輪を<メダカ>が拍車をかけている格好になることを嫌い、<卵>を付着面から剥がし、浮遊させ、のみ込む。軌道上のある一定のサークルにおいてそれらは摂理となる。遊撃のほしいままに、ダンス、するアグネス、かつてマザーの恩恵からもっとも遠いところにいた頃の、「思い出」を書記できるとかかずらっていた、聖=少女アグネス、複数のフィルム板を重ねていき、<メダカ>とシンクロするたびに、マーメイド伝説、に悲劇性を持たせていた時分の、幸福な圏内での、戦闘」
  (『アグネス・ブルー』より)

 どこがSFだ語感だけじゃないかとおっしゃる方もいらっしゃることでしょうが、それじゃききますが山田正紀さんや神林長平さんの作品が語感だけじゃないと言い切れるその根拠とやらは、などと言い出すと長くなるので止めておきますが、とりあえずの了解事項として表題がSFだと思います。

 というわけで、文芸評論から鰐文学、官能描写からSF語感まで、様々な手練手管を重ねた大盛りつゆだく言葉のカンブリア爆発。文字を並べるだけで死角からの一撃が可能になると知ったらあっと驚くためごろう。言葉の機能に伝達でも共感でもなくひたすら驚異を求めてやまない方に。


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『スタッキング可能』(松田青子) [読書(小説・詩)]

 「嘘ばっかり! 嘘ばっかり! ウォータープルーフ嘘ばっかり! 落ちないマスカラ嘘ばっかり! 気がつきゃ目のふち真っ黒に! パンダ目なんて言われてパンダも大迷惑!」

 オフィスに渦巻く理不尽を現代文学しちゃう表題作ほか全六篇を収録した短篇集。単行本(河出書房新社)出版は、2013年01月です。

 素晴らしい傑作です。今年の個人的ベスト入りは確実。大声でとにかく読め読め叫んで回りたい。ふるふるふる。

 「『わたし』はいつか自分はがっかりしない男の人に出会えるんだろうかと想像してみた。望み薄だな。だってこんなにうじゃうじゃいるんだもん。うっじゃうじゃ。『わたし』の世界は、夏休み真っ只中の循環ドーナツ型の流れるプールみたいだった。なんだこの一つも楽しくないプールは」(単行本p.17、18)

 「決して誘ってこない女。これも結局レズビアン。バレンタインデーにチョコレートをくれないレズビアン。義理チョコでも構わないのに、くれたというその気持ちだけで好評価なのに、死んでもくれないレズビアン。街角のレズビアン。電車内のレズビアン。コンビニのレズビアン。角を曲がると向こうからレズビアン。レズビアンはどこにでもいた。生活圏内レズビアンだらけだった」(単行本p.12)

 「どうも自分はうまくやれない。この世界は居具合が悪い。理由なんて別にない。もう幼稚園からわかっていた。友達の、同級生の、周りにいる人たちの、話している内容が理解できない。意味がわからない。面白いと思えない。なぜどうでもいいことをいちいちずっとしゃべっているのか。それに合わせるとすごく疲れる」(単行本p.50)

 「こいつらはなんでいつも何の疑問もなく自分たちが普通だと、自分たちがデフォルトだと信じ込めているのか。ただの脈々と続いてきた空気でしかないものを分厚い百科事典でもあるかのように鵜呑みにしていられるのか。ありもしない辞書を信じていられるのか。しかし自分たちが世界標準だと思っているやつに何を言っても無駄なことは日を見るより明らかで、それがさらに嫌になった。(単行本p.44)

 「セクハラしてくるかわりにセクハラだよなって声をかけてくれることはありがたく思うべきだと知っている。じゃあなんでこんなに寒々しい気持ちになるんだろう。どうしてただここにいられないの。どうしてずっと女だって、自分は女だって意識させられないといけないの。どうして仕事と関係ないところで、いつも居心地が悪い思いをしないといけないの。どうしてそれ含めて仕事みたいな部分があるの。どうしてありがたく思わないといけないの。少しもありがたくねえよ」(単行本p.88)

 男も女も、黙ってうんざりしています。けなげに仕事して、傷ついて、ストレス溜めて、果てしなく疲れ、絶望しています。誰もが類型的で、匿名で、毎日人員を総取っ替えしても何の支障もなく続いてゆく。そんなオフィスの不思議をぐーりぐーり書いてしまう表題作。素晴らしい。

 「私には選ぶ権利がない。でも待つことはできる。ここでこうして植え続けたら、いつかまた素敵なものが、見ているだけで心が温かくなるものたちが、箱から出てくる日が来るかもしれない。ならば私はここで待つ。植えながら待つ。マーガレットは恐怖を植えた。マーガレットは恐怖を植えた。マーガレットは深呼吸した。マーガレットは恐怖を植えた。軽くストレッチして身体をほぐした。水筒に入っているいい香りのハーブティーで一休みした。マーガレットは恐怖を植えた。マーガレットは恐怖を植えた。クロネコの配達員が次の箱を届けに来た」(単行本p.114)

 滑稽ともいえる乾いた文章のリズムで、果てしない絶望をさらりと飲み込ませる。ケリー・リンク、ミランダ・ジュライ、ジョージ・ソーンダースといった作家たちが並んでいる棚に、例えば『嵐のピクニック』(本谷有希子)といっしょに置いて違和感のない一冊。うっかり「翻訳が見事だな」と思ってしまう一冊。

 大声でとにかく読め読め叫んで回りたい。ふるふるふる。

[収録作品]

『スタッキング可能』
『ウォータープルーフ嘘ばっかり!』
『マーガレットは植える』
『ウォータープルーフ嘘ばっかり!』
『もうすぐ結婚する女』
『ウォータープルーフ嘘ばっかりじゃない!』


タグ:松田青子
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『静かな一日』(矢内原美邦) [ダンス]

 2013年02月17日(日)は、夫婦で吉祥寺シアターに行って、矢内原美邦さんの新作公演を鑑賞しました。出演者二名のこじんまりとした舞台です。

 まず、舞台上に並べられた18列×18行の小さな白い家の群れが目をひきます。客席から舞台を見下ろす形になっているので、まるで床に白い正方形の街が広がっているようにも感じられます。

  参考
  http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/eventinfo/P1040504.JPG

 このミニチュアの「街」を、小型ビデオカメラを搭載した模型電車が走り回り、街中の「風景」やそこに立つ出演者を下から見上げる構図(怪獣映画みたい)で撮影してはリアルタイムに映写したり、街を白いスクリーンと見なして上から映像をプロジェクションマッピングしたり、個々の家に別々に照明を当てたり、家ごとに色を変えたり、街中に雨を降らせたり(これが特に素晴らしい)。

 これまでの作品においても凝った映像を舞台上に投影していましたが、今回はこの特殊な視覚効果が抜群に面白いと思いました。インスタレーションというのでしょうか。次作にも期待したいところです。

 ライブアクションの方は、基本的にはこれまでの作品と同じく、出演者たちが激しく身体を動かしながら息も切らさず早口で長セリフをしゃべりまくり絶叫する、それをダンスとして見せます。

 叫ぶという行為そのものが振付なので、セリフには特に意味はないものと思われますが、それでも「平穏無事であるべき日常に、唐突に理不尽に不可抗力的にやってくる死や破局」といったイメージを喚起させる会話はとても印象的です。同じセリフの繰り返しも巧み。

 一時間半近く、街の周囲を全力疾走したり、机にとび乗りとび降りかいくぐり、夫婦喧嘩も絶え間なく、しかもその間ずっと正確にしゃべり絶叫しなければならない出演者も体力的に大変でしょうが、その必死な感じから何ともいえない切実さが伝わってきて感動させられました。

[キャスト]

演出・振付: 矢内原美邦
映像・美術: 高橋啓祐
出演: 川田希、松永大輔


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『abさんご』(黒田夏子) [読書(小説・詩)]

 「目をとじた者にさまざまな匂いがあふれよせた.aの道からもbの道からもあふれよせた.」(Kindle版 No.739)

 第148回芥川賞受賞作が早くも電子書籍化されました。単行本(文藝春秋)出版は2013年01月、電子書籍版の出版は2013年02月です。電子書籍版を、Kindle Paperwhiteという電子書籍リーダーで読みました。

 幼い頃に母親を亡くし、父親と二人で暮らす娘。それぞれ自分の読書にふける学者らしき父親と文学少女。永遠に続くかと思われた二人の静かな生活に、しかし闖入者が現れる。新たに雇い入れた家政婦が父親に取り入って、次第に生活をコントロールしてゆくようになったのだ。後に彼女は後妻におさまることに。

 いづらくなった少女は家を出て、長い間実家とは音信不通に近い状態になる。やがて父親は病気で倒れ、帰郷した娘は病院でその死を看取ることに。そしてある朝、これまでの思い出が、そうあり得たかも知れない人生の分岐と共に、様々に想起されてゆく。

 というような話なんですが、これだけならいかにも「古くさい文学」という感じ。しかしこの作品のキモは、何といってもひらがなと造語を多用した横書き文章です。例えば。

 「いなくなるはずの者がいなくなることのとうとうないまま,親は死に,子はさらにかなりの日月をへだててようやく,らせん状の紅い果皮が匂いさざめくおだやかな目ざめへとまさぐりとどくようになれた.ぎゃくにいえば,そうなれたからたちあらわれたゆめだ」(Kindle版 No.21)

 「しるべの過剰な夏がしるべのかき消えた夏に移行して,死からまもなかったころよりももっとしたたかな死のけはいを,無いことのうちに顕たせたはずの夏は,そのことじたいをさえ見さだめきれなさのおぼろの中へ翳りかすませる.」(Kindle版 No.68)

 「まさぐりとどく」、「翳りかすませる」、「からめきおちてゆく」、「うけがう」。古語なのか、格調高い表現なのか、それとも著者の造語なのか、そこらへん判然としない印象的な言葉に幻惑されます。

 出来事の想起はまったく時系列順ではないし、シーン間のつながりもほとんど説明されません。固有名詞も出てきません。読者は能動的な読みを要求されます。

 「うなづくこともできないじょうきょうの中へ目ざめたじょうきょうじたいをりょうかいしたまばたきでこたえた.(中略)ありようのままをうけがい、すなわち死に向かうことをうけがい、さりげなくじょうずにすべりこんでいこうとさそいかけているようなことだった.」(Kindle版 No.638、644)

 「ひとりでねむりにつくということと,まったくべつのつごうからのはんぱなその日づけとのかかわりのうすさとおなじにのどかな,ちょうどその日づけまでころあいの日かずかというひかりまさっていく季節の,きげんのいいむつごとのほのやみだった.」(Kindle版 No.690)

 最初は戸惑うのですが、読み慣れてくるにつれ、さらに状況が分かってくるにつれて、この独特の表現が大いなる効果をあげてきます。「疎遠になっていた父親の死を看取った後、昔の生活のあれこれを思い出した」というだけの短い話に、何人分もの人生を俯瞰するような奥行きを感じるのです。

 というわけで、読み手を選ぶところがある作品ですが、文章はけっこうくせになります。どうやったらこういう表現を創り出すことが出来るのか、不思議でなりません。


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