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『日本語の虜囚』(四元康祐、伊藤比呂美) [読書(小説・詩)]

 「『言語ジャック』という作品集を書いたあたりから、私は日本語に囚われてしまったらしい。自分の書きたいと思う作品が、どういうわけか翻訳することの極めて困難なものばかりになってきたのである。ましてそういう作品を、母語以外の外国語で書くことなど到底不可能なのだった」(単行本p.140)

 あらゆる仮名から始まる全46編の新作いろは歌など、ひたすら日本語に耽溺する詩集。単行本(思潮社)出版は、2012年08月です。

 『言語ジャック』以降に書かれた作品を集めた作品集です。刮目すべきは、「あ」から「ん」まで全ての仮名を順番に先頭一文字にした新作「いろは歌」でしょう。

 いろは歌だから、日本語を構成する全ての仮名を一度だけ(重複なし、欠落なし)使用し、もちろん意味が通り、しかもそれなりに詩歌として鑑賞できなければなりません。この困難な条件をクリアした新作「いろは歌」をなんと全46編、しかも冒頭一文字が全て異なる仮名(重複なし、欠落なし)というから驚きです。

 というか、そんなはなれわざを可能にする言語が存在する、という事実にこそ、私たちは驚くべきかも知れません。

 「これはまさに驚愕すべき事態ではあるまいか。新聞雑誌はなぜこの事実を取り上げず、学会は上へ下への大騒ぎとならぬのか。それにしても日本語やあな怖ろし。地球上にはほかにもこのような言語があるのかないのか、試しようもないので分からぬが、日本語の持つこの詩的融通無碍というかアニミズム的汎用性は、とてもこの世のものとは思えない」(単行本p.106)

新作「いろは歌」より、「を」(単行本p.104、105)
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  男もする伊呂波歌 女呆れ鰐の目剥く 闇夜経て舟去りぬ妻かそけし 比喩吼え散らせ

  [鑑賞]よい年をして日永いろはの組み合わせなどにかまけている作者の、家庭内の不和を歌った一首であろう。妻に去られた男には、いっそう深く言葉の迷路に踏みいって、比喩の遠吠えをするほかない。
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 読者も新作「いろは歌」の創作に挑戦できるようにと、付録として特製いろは歌カードがついているという周到さ。カード一枚一枚に筆書きの仮名が書かれています。書いたのは詩人の伊藤比呂美さん。ちなみにカバーを外した単行本表紙でも同じ仮名が勢い良く踊っています。伊藤比呂美さんの読者も要注目。

 その他、様々な方法で日本語をリバースエンジニアリングした上で再組み立てする作品をぎっしり詰め込んだ、ギフトボックスのような詩集です。

  「偏と旁がばらばらにほぐれて干からびた虫の死骸と化すまで漢字を凝視し/話しかける声の音と音の間の沈黙だけに耳を澄まし/コーラと間違えて醤油を飲み干そう」
  (『日本語の虜囚』より)

  「人の世に意味魍魎の跋扈して、よどみに浮かぶうたかたの、なにをよすがに素麵流し、藁をも摑む指先に、絡みついたが言の葉だった」
  (『歌物語 他人の言葉』より)

  「アメダスは日照りの夏を預言する/裸一貫俺は意味出す」
  (『歌物語 他人の言葉』より)

  「詩人を美化するのは勝手だが詩を美化することだけは止めてくれないか」
  (『マダガスカル紀行 19.8.2009 - 29.11.2009』より)

  「嬉しいにつけ、悲しいにつけ、「それもすぐに過ぎてゆく」を合言葉に五十年」
  (『マダガスカル紀行 19.8.2009 - 29.11.2009』より)

  「真っ黒い紙を差し出して少女は云う、これが光の正体なのよあたしコピーにとったんだから」
  (『マダガスカル紀行 19.8.2009 - 29.11.2009』より)

 というわけで、ドイツ在住の詩人が日本語の可能性を真摯に追求しつつ、ときどき(しばしば)おちゃらけに走ってしまうという、ファシネィティングな詩集。このグローバリゼーションの時代に日本語で詩を書くことにどんなメイクセンスがあるのか、とお疑いの方にもお勧めです。