SSブログ

『心にトゲ刺す200の花束  究極のペシミズム箴言集』(エリック・マーカス) [読書(教養)]

 「楽観主義者とは人生経験の浅い者のことだ」
  (ドン・マークウィス)

 常に前向きでいよう、後ろからは何か良くないことが迫ってきているに違いないのだから。たとえ起こる可能性がなくても、最悪のことは必ず起きる。コップに半分だけ水が入っていれば、そのコップは欠けていて、汚れていて、その水を飲めば死に至る病にかかり、しかもなかなか死なないのだ・・・。人生の真実を言い当てた珠玉のペシミズム箴言を集めた素敵な一冊。単行本(祥伝社)出版は2004年06月、私が読んだ文庫版の出版は2010年03月です。

 楽観主義、前向きな人生、ポジティブシンキング、自己啓発、自分を大切に、ナンバーワンよりオンリーワン、といった書物で埋めつくされる勢いの出版界に、どうせ売れないけどさ、という信念のもとに投入されたとおぼしきペシミズム箴言集。人生の達人たちが語る真実の言葉に、人生もっと気楽に生きよう(だってどうせ死ぬし)という気がしてくる素敵な一冊です。

 「どうして自分で自分を苦しめたりするの? どうせ人生が苦しめてくれるのに」
  (ローラ・ウォーカー)

 「人生の90パーセントはみじめなことで占められている。運さえよければ」
  (エリック・マーカス)

 「人生では癪に障ることがつぎつぎ起こるわけではありません。癪に障る同じことが繰り返し起こるのです」
  (エドナ・セント・ヴィンセット・ミレー)

 「十万匹のレミングが間違っているわけがない」
  (落書き)

 「死が終わりではない。そのあとにまだ相続争いが残っている」
  (アンブローズ・ビアス)

 「たいていの人は頭を働かせるくらいなら死んだほうがましだと思っている。そればかりか、彼らは実際にそうする」
  (バートランド・ラッセル)

 「多くの男性に会えば会うほど、わたしは犬が好きになる」
  (マダム・ド・スタール)

 「大衆はすばらしく寛容だ。彼らは天才以外のあらゆるものを許す」
  (オスカー・ワイルド)

 「友人は現れては去ってゆく。しかし敵はだんだん増えていく」
  (作者不詳)

 「結婚するとき、女性は多数の男性の関心と引き換えに、ひとりの男性の無関心を手に入れる」
  (ヘレン・ローランド)

 「何かおいしい食べ物があったら、それはあなたを殺そうとしているのだ」
  (ロイ・クウォリー)

 「ソーセージと法律がどのようにして作られるかは知らないほうが幸せだ」
  (作者不詳)

 「子どものころ、わたしは誰でも大統領になれると教えられた。このごろ、それは本当だという気がしてきている」
  (クラレンス・ダロウ)

 「人類は未曾有の岐路に立たされている。いっぽうは自暴自棄と絶望への路、もういっぽうは絶滅への路。われわれに正しい選択をする知恵があることを祈ろう」
  (ウッディ・アレン)

 「編集者の一部は作家のなりそこないだが、作家の大半もそうである」
  (T.S.エリオット)

 「ジャーナリズムと文学の違いは、ジャーナリズムは読むに耐えがたく、文学は読まれないという点だ」
  (オスカー・ワイルド)

 「真実は不足しているにもかかわらず、その供給はつねに需要を上回っている」
  (ジョシュ・ビリングズ)

 「禁酒のいいところは、人生を取り戻せる点だ。悪いところは、取り戻せるのはあなたの人生だという点だ」
  (作者不詳)

 ちなみに、本書を読了したときの個人的感想に最も近いのは、次の言葉でした。

 「わたしの悲観主義は、悲観主義者の真摯さを疑うところまで来ている」
  (ジャン・ロスタン)


『私は幽霊を見た  現代怪談実話傑作選』(東雅夫:編) [読書(随筆)]

 「さてもさても人生には夢がほしい。淋しく暗く恐ろしい夢ほど恋しい」
  (『怖い・凄い・不気味な』(平山蘆江)より)

 徳川夢声が軽妙に語る怨霊譚、遠藤周作と三浦朱門が幽霊旅館で過ごした一夜、桝井寿郎を襲った宇宙人。昭和の時代に発表された怪談随筆から選ばれた傑作選。文庫版(メディアファクトリー)出版は、2012年08月です。

 昭和の作家たちが世に送り出した怪談随筆を堪能できるアンソロジーです。昭和30年代から、ちょうど平成に切り替わった頃までの時期に発表された随筆作品が収録されています。

 何といっても昭和なので、今のように激しい心霊現象がばんばん起きたり、やれ死んだ、発狂した、封印された、そんな派手な話はほとんどありません。大半は、妙な気配を感じたので気になっていたところ数日後ちょうどその時刻に誰それが亡くなったと聞いた、科学万能の世などと云われているがやはり幽霊はいるのやも知れぬ、といった類の長閑な随筆です。

 前半は昭和30年代に発表された作品が中心。古めかしい因縁話もありますが、次第に、幽霊や因縁ではなく、怪現象そのものが興味の的となる語りが多くなってゆくのがよくわかります。

 例えば、本書に収録された『私の霊界肯定説』(徳川夢声)。怪現象を語るその名調子が印象的な作品ですが、これについて池田彌三郎氏がこう書いています。

 「去年は徳川夢声さんが体験談を語って、幽霊などの出ない、新しいタイプの怪談として好評を博した」(文庫版p.106)

 「去年」というのは昭和33年のこと。それまでの怪談は「幽霊が出た」ということを語るのが当たり前だったことがわかります。それがこの頃から、幽霊ではなく、怪現象そのものが語りの中心になっていったらしい。

 また、怪現象を体験したとき、それを探求してみる、実験してみる、という姿勢が出てくるのも、時代の変化が感じられ、興味深いものがあります。『叩鉦の怪』(長田幹彦)では、誰もいない部屋から鉦の音がする、しかも自分にしか聞こえない、という怪異が扱われています。

 「ところがあとでしらべてみると、その速記のテープレコーダーにあの変な鉦の音がぼんやり入っているのが分かった、どうも不思議である。人には聞こえないで、テープにだけ残っている。マザマザと鉦の音である。カンカンと鳴っている」(文庫版p.115)

 マザマザと鉦の音、カンカンと鳴っている、といった軽やかな表現を見ても分かる通り、あっけらかんとした雰囲気のまま、著者はテープレコーダーを用意して鉦の音を録音する実験に取り組んでゆくのです。

 『幽霊の実験』(大高興)も、被験者とあらかじめ「死んだら幽霊になって実験室に来て霊現象を起こす」という誓文を交わし、死後に今か今かと待ち受ける、という(不謹慎な)実験の顛末を科学論文調で書いた怪作。イラストが大迫力。

 熱海の幽霊旅館を扱った『悪い旅行』(三浦朱門)と『三つの幽霊』(遠藤周作)は、同じ部屋に泊まった二人がその夜の体験をそれぞれの視点から書いたという貴重な記録。本書収録作のうち、随筆文学としては『三つの幽霊』(遠藤周作)が最も面白いと、個人的にはそう思います。見事な構成、迫真の情景描写、軽妙洒脱な語り口、いずれも感銘を受けます。

 後半になると、幽霊は次第にオカルトにおされてゆきます。例えば、『お化けの会ができるまで』(平野威馬雄)にはこうあります。

 「ノストラダムスの大予言や、ユリゲラーの霊能力に触発されて、日本じゅうに氾濫している超能力少年少女の続出で、台所のスプーンやフォークが片っぱしから使用に耐えなくなり(中略)、大変な忙しさだ。こうした、エスパーたちや、オカルト亡者や星占い師たちのストゥルム・ウント・ドラングをよそに、幽霊だけは、取り残されたように、しょんぼりと柳の下で、ものがなしくも、立ちつくしている」(文庫版p.209)

 こうなると、怪現象も幽霊や妖怪ではなく、宇宙人の仕業ということに。

 『宇宙人』(桝井寿郎)では、著者は謎めいた男たちに襲われます。後から空飛ぶ円盤研究家がやってきて、「その宇宙人たちは、桝井さんを空飛ぶ円盤へと連れこんで、研究材料に使うつもりだったかも知れませんね」(文庫版p.238)と言うのです。

 「宇宙人だと教えられるまでは、今日の今日まで、「天狗のやつ、天から降ってきて、おれに襲いかかったな」と私がそう思いこんでいたのは、無理からぬ話かもしれない」(文庫版p.238)

 天狗などと愚かな迷信にとらわれていたが、実は宇宙人だったという「科学的」説明がついた、という発想がごく自然なものとして書かれているのが、今から見ると面白い。

 他にも、『怪談詮議』(水木しげる、山田野理夫、桝井寿郎)では、水木しげる氏がこんな発言を。

 「この本を書いた人はピラミッドの研究をしてましてね。それで、日本の神社から出た古代文字を解いたのです。(中略)古代、ピラミッドから円盤を飛ばしたのではないかというんです」(文庫版p.261)

 あんな時代もあったねと、きっと笑って話せるわ、だから今日はくよくよしないで、今日の風に吹かれましょう。

 ラストを飾るのは、『生き人形』(稲川淳二)。ほとんど段落ごとに強烈な心霊現象吹き荒れ、視覚・聴覚・嗅覚・触覚すべてを刺激しつつ、死んだり事故にあったり消息不明になったり収録中止になったりする派手さ、そして後味の悪さ。

 平成二年に発表された本作は、昭和怪談をはるかに突き抜けていることが、ここまで順番に読んでくるとよく分かります。同じ年に『新耳袋』と『学校の怪談』が出版されている、という象徴的な出来事もあって、ああここで昭和が終わったんだなあ、という感慨を覚えます。

 というわけで、昭和の怪談、幽霊譚の懐かしい雰囲気を味わいつつ、そこから現代までの流れを感じることが出来る一冊です。昭和の作家たちの随筆アンソロジーとしても楽しめます。

[収録作品]

『怖い・凄い・不気味な』(平山蘆江)
『怪談』(火野葦平)
『霊三題』(阿川弘之)
『かくて怪談あり』(北村小松)
『青年幽霊の来訪』(矢田挿雲)
『私は幽霊をみた』(牧野吉晴)
『幽香嬰女伝』(佐藤春夫)
『ある寝室』(富沢有為男)
『私の霊界肯定説』(徳川夢声)
『不思議といえば不思議な話』(池田彌三郎)
『叩鉦の怪』(長田幹彦)
『悪い旅行』(三浦朱門)
『三つの幽霊』(遠藤周作)
『黄色いマフラー』(柴田錬三郎)
『本を読みにくる亡霊』(村松定孝)
『お化けの会ができるまで』(平野威馬雄)
『幽霊の実験』(大高興)
『宇宙人』(桝井寿郎)
『怪談詮議』(水木しげる、山田野理夫、桝井寿郎)
『イタコの謎を追う(抄)』(中岡俊哉)
『自分の命日を霊が教えた』(新倉イワオ)
『鬼火』(石原慎太郎)
『生き人形』(稲川淳二)


『口福台灣食堂紀行』(松岡政則) [読書(小説・詩)]

 「ひるめしは咸魚炒飯に海藻スープ/お玉で中華なべをたたく音が食堂を生きものにする/具材はこまかく切った鶏肉に咸魚/きざんだネギやカイランサイの茎がはいっている/ひとの舌というものを知り尽くした味で/うまいにもほどがあった/たいがいにしろだ台灣」
 (『ダマダマ!』より)

 飯を喰う、あいさつする。路地を歩き、市場を歩き、あいさつする旅人の姿をえがいた、台湾紀行詩を中心とする詩集。単行本(思潮社)出版は、2012年06月です。

 「日本領五十年、白色恐怖四十年。本省人、外省人、客家、原住民。/いいや、そんなことは一切かんがえないめし屋にはいる」
 (『埔里』より)

 「そんなふうにみないでくれ。どこにも帰属できないただの拗ね者、/あいさつになりたいだけの未熟な旅師だ」
 (『ファルモサ』より)

 「あいさつがあってよかった/あいさつとは態度のことだろう」
 (『口福台灣食堂紀行』より)

 この島が経てきた過酷な歴史、そして複雑な民族事情。自らの出自を共鳴させつつも、けしてしたり顔で語ったりせず、誠実に、自然体で台湾に向き合おうとする旅人。立ち寄った土地であいさつし、歩き回り、無心に飯を喰う。そんな詩集です。

 まずは市場のあたりをぶらぶら歩き回ります。

 「油/煙や蒸氣をあげて/ずらり食べ物屋がならんでいる。たっぷり弛ん/だ中年のおんなが、リヤカーで露地もの野菜を売っている。一本二/元の台灣風おでんがあった。天婦羅の看板が出ていたけどあればど/うみたってさつま揚げ。冷やかしていくだけの吝い客に、聲をあら/げてやりかえす市人もいる」
 (『青空市』より)

 「荷台につんであるのは南國のくだもの/釈迦頭(シュガーアップル)、楊桃(スターフルーツ)、芭樂(グアバ)/みたこともないふしぎなくだもの」
 (『洛夫(ルオ・フ)』より)

 「魚屋をのぞけば漫波魚(マンボウ)の切り身/繁体字のにぎわいにもやられる/なにやらこそこそしたくなる」
 (『口福台灣食堂紀行』より)

 「「山豬肉 三串一00元」/「楊桃 七個五0元」/現榨 樟腦油」/「田哥 檳榔」/台灣は眼のやすまるときがない。/字面を歩くだけでドクドクする」
 (『伊達邵(イーターサオ)』より)

 あせらず、腰を落ち着ける場所を探します。

 「歩くとめし。/それだけでひとのかたちにかえっていく/歩いておりさえすれば/なにかが助かっているような氣がする」
 (『口福台灣食堂紀行』より)

 「あいさつだけが頼りの食堂探索/でもだいじょうぶ/わたしはなにも知らないことを知っている」
 (『ダマダマ!』より)

 「耳の奥の空ろへ/食器のぶつかる音がひびく/シャオハイ(こども)の笑い聲もひびく/血くだがいちいち嬉しがる/わたしは雑多が足りないのだ音が足りないのだ」
 (『タイペイ』より)

 皿と椀が並んだら、あとはひたすら喰うだけ。

 「角の「萬珍食堂」は/地の者らでいっぱいだった/ひる時だからしかたない合い席させてもらう/魯肉飯(ルウロウハン)をたのみ/ガラス棚からおかず皿をとってみる/厨房では寸胴鍋をかき混ぜながら/一分刈りの親仁が注文をくり返している」
 (『喰うてさきわう』より)

 「ひとびとの聲が/地を這うように聞こえてくる/熱い豆乳に揚げパン/これでなければ台灣の朝ははじまらない」
 (『タイペイ』より)

 「どこか羞じらいのある朝のひかりをあびながら/屋台で牛すじいりの粥をすすった」
 (『洛夫(ルオ・フ)』より)

 読んでいるだけで、台湾の街角を歩いているような高揚感に包まれます。朝の光、昼の喧騒、夜の熱気、様々な台湾がここにあります。そして散りばめられた繁体字の魅力。読めばまた台湾に行きたくなる、まっすぐで力強い詩集です。

 「この土地のまなざしが/そのあぶらぎった息づきが/わたしをまったき独りにする無籍者にしてくれる/こんな自分になれるとは思わなかった」
 (『ダマダマ!』より)

 「ふいに父のまるいロイド眼鏡が/竹細工の道具箱がよぎった/わたしはあそこから来たのだと思った」
 (『ダマダマ!』より)


『Pina / ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(ピナ・バウシュ、ヴッパタール舞踊団、ヴィム・ヴェンダース監督) [映像(コンテンポラリーダンス)]

 2009年に没した偉大なコレオグラファー、ピナ・バウシュの作品を扱ったドキュメンタリー映画。ヴッパタール舞踊団メンバー総出演で、ピナの代表作の舞台映像を美しい最新映像で観ることが出来る贅沢なドキュメンタリーフィルムです。劇場公開は2011年、ブルーレイディスク発売は2012年。劇場公開時は3Dだったのですが、ブルーレイ版では2Dで収録されています。

 収録されている作品は、『春の祭典』、『カフェ・ミュラー』、『コンタクトホーフ』、『フルムーン』。いずれも一部抜粋ですが、作品の雰囲気は充分に伝わってきます。

 ヴッパタール舞踊団が2006年に来日したとき、『春の祭典』と『カフェ・ミュラー』を劇場で観て感激したのですが、このフィルムではカメラ視点が舞台上に入り込んでゆくこともあって、観客席に座って観るのとはまた違った印象をうけます。躍動的で、美しく、臨場感あふれる映像です。

 『コンタクトホーフ』は、ヴッパタール舞踊団バージョン、高齢者バージョン、若者バージョンという三つのバージョンをコラージュするという編集のマジックにより、思わずはっと息をのむような効果が加わっています。

 『フルムーン』は、水飛沫がかかるほどの至近距離(実際、メイキングフィルムでカメラにかかった水滴を拭うシーンあり)から、水と踊るダンサーたちの姿を撮ってくれ、もう大感激です。とにかく瀬山亜津咲さんが素敵。

 ドキュメンタリーフィルムとしては、余計な言葉や説明を加えず、ピナの作品にすべてを語らせる、という姿勢に徹しているところに好感が持てます。

 作品映像の間にヴッパタール舞踊団メンバーへのインタビューが挟まるのですが、画面の中でダンサーたちは一切しゃべりません。音声トラックで自分の話し言葉が流れるシーンですら、様々な表情をカメラに向けながら、黙ったままです。ピナは言葉では表現できない。

 ダンスで表現する者もいます。何本かの短いソロあるいはペアのダンスシーンが散りばめられ、各人がピナをダンスで表現するのです。ヴッパタール市街やモノレール(ヴッパタール空中鉄道)車内などを舞台に、短くも印象的なダンスが繰り広げられます。

 ピナ・バウシュの作品はとても雄弁で、人と人とがどうしても分かり合えない苦しみや孤独、血の出るような無言の叫び、といった強い感情がダイレクトに伝わってきます。これまでコンテンポラリーダンスを観たことがない観客でも、その強烈な表現には心を揺さぶられることと思います。

 というわけで、ピナ・バウシュのファンはもとより、むしろコンテンポラリーダンスになじみがない方にこそ観てほしい作品。これをきっかけに、劇場に足を運んでコンテンポラリーダンス公演を観て頂ければ嬉しい。

 ピナ作品に感動した方には、この秋の公演であれば、たとえばヤスミン・ゴデールや黒田育代といったコレオグラファーたちの作品をお勧めします。あと、珍しいキノコ舞踊団。個人的に、ヴッパタール舞踊団を観ていると、なぜか珍しいキノコ舞踊団のことを思い出すのです。


『野生の蜜  キローガ短編集成』(オラシオ・キローガ) [読書(小説・詩)]

 「怪奇小説は短いほど凄味が増す。描写や演技や背景は最低限に節し、血の凍る光景、その一点めがけて語りきる。これは簡単そうで難しく、居合抜きのような才が必要だろう。キローガはそれを備えた作家だ」
(牧眞司氏による書評より。SFマガジン2012年08号p.120)

 麻痺して動けない男に迫る密林アリの大群、なすすべもなく衰弱してゆく女の羽根枕に潜んでいたもの、患者の舌をメスで切断する歯科医。南米文学が誇る短篇の名手、キローガの作品30篇(大半が本邦初訳)を収録した短篇集。単行本(国書刊行会)出版は、2012年05月です。

 ウルグアイの作家、オラシオ・キローガの傑作集です。収録作の多くが南米の密林地帯を舞台とした衝撃的な幕切れを伴う怪奇小説で、好みは分かれそうですが、いずれも忘れがたい印象を残してくれる切れ味鋭い傑作です。

 「キローガ作品の大きな特徴のひとつは、多くの作品に見られる死の存在の圧倒性である。「死の作家」という称号すら与えられているほどで、キローガは生涯にわたって様々な死の形を繰り返し描き続けている」(単行本p.338)

 訳者による解説にある通り、ほとんどの作品で登場人物たちは死の運命にとらわれ、なすすべもなく理不尽な死を迎えることになります。確かに理不尽ではありますが、何しろ南米の密林を舞台としているため、その有無を言わさぬ不条理な「死」の存在感には、むしろリアリティが感じられます。

 『ヤベビリの一夜』ではマラリア、『羽根まくら』では吸血生物、『日射病』ではタイトル通り、『鼠の狩人』では毒蛇、『狂犬』もタイトル通り、『野性の蜜』ではアリの大群、といった具合に、登場人物たちは敵対的な自然の前に無慈悲、無意味に命を奪わます。

 家族が、友人が、飼い犬が、手をつくして助けようとしても、その努力は無駄に終わり、そしてあまりにもあっけない死がやってきます。その衝撃的な死の光景が読者の脳裏に焼きついて離れません。

 死の罠は自然環境に潜むものばかりではありません。『エステファニア』や『呼び声』では拳銃、『頸を切られた雌鶏』や『死んだ男』では刃物、『愛のダイエット』では食事制限、『炎』では何と音楽が、いずれも致死的な凶器として登場人物の命を奪います。

 死と共に、抗いようのない力で登場人物を支配するのは狂気。狂気を主観的に描写した作品は実に恐ろしい迫力に満ちています。

 『舌』では歯科医が復讐のために患者の舌を切り取ってしまうのですが、切れば切るほど舌は増殖してゆき、やがて大きく開いた患者の口から大量の舌が洪水のようにあふれ出て、歯科医の名を・・・。恐ろしい狂気のシーンが炸裂します。

 家族が自分を殺そうとして家の中に毒蛇をまいているというおぞましい妄想から一家惨殺の凶行に走る『狂犬』、妻を助けようとして爪がすべてはがれるまで墓荒らしをやめない『ヴァンパイア』、妻の腐乱死体を抱えて衰弱しながらひたすら密林を歩き続ける『入植者』、娘を死の運命から守ろうとして果たせなかった母親のぞっとするような告白が、果たして狂気なのかどうか判然としない『呼び声』など、腑に落ちない不安と戦慄が残り続ける作品です。

 一方で、南米の密林地帯で働く労働者(人夫)を扱ったいくつかの作品は、その豊かな物語性と人物造形で読者の心に強く訴えかけてきます。自分を平手打ちにした白人を常軌を逸した執念でつけ狙い、ついに復讐をなし遂げる『平手打ち』。いいかげんだが、したたかで、妙に憎めない愛嬌とガッツを持った魅力的な人夫を描いた『ヴァン・ホーテン』、『故郷喪失者』、『先駆者たち』など。

 他に、人間が猿へ変身する話(『転生』、『恐竜』)、自然と人間の対立を動物の側に立って描く話(『フアン・ダリエン』、『アナコンダの帰還』)、映画のなかの人物が実体化して襲ってくる恐怖譚(『幽霊』、『吸血鬼』)などの作品があります。

 最後に収録されている『完璧な短編小説家の十戒』は、前置きも何もなくいきなり「短編作家の心得十カ条」が並んでいるという短いエッセイ。「ラテンアメリカの多くの短編作家が参照引用する有名な文章」(単行本p.341)とのことです。

 さすが短編の名手と讃えられるだけのことはあり、どの作品も読後に強烈な印象を残します。死と狂気に彩られた作品が中心ですが、個人的には、南米労働者、人夫たちの生きざまを鮮やかに切り取ってみせる短篇が気に入りました。

[収録作品]

『舌』
『ヤベビリの一夜』
『羽根まくら』
『エステファニア』
『日射病』
『鼠の狩人』
『転生』
『頸を切られた雌鶏』
『狂犬』
『野性の蜜』
『ヴァンパイア』
『入植者』
『ヒプタルミックな染み』
『炎』
『平手打ち』
『愛のダイエット』
『ヤシヤテレ』
『ある人夫』
『ヴァン・ホーテン』
『恐竜』
『フアン・ダリエン』
『死んだ男』
『シルビナとモント』
『幽霊』
『野性の若馬』
『アナコンダの帰還』
『故郷喪失者』
『吸血鬼』
『先駆者たち』
『呼び声』
『完璧な短編小説家の十戒』