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『孕むことば』(鴻巣友季子) [読書(随筆)]

 「わたしにとって子どもを孕むことは、ことばを孕むことだった」

 子どもが言葉を獲得してゆく過程をつぶさに見つめる翻訳家は、そこから何を学んだのか。『全身翻訳家』の著者が語る、子育てと言葉、文学、そして人生。単行本(マガジンハウス)出版は2008年05月、私が読んだ文庫版(中央公論新社)は2012年05月に出版されています。

 「以前、娘と過ごす日々を「神様にことばの建築現場を見せてもらっているようだ」と喩えたことがある。ていねいに足場を建て、ひとつひとつ木を組み合わせて、ゆっくりと出来あがっていく美しい大伽藍の建築現場には、しばしば畏怖の念すらおぼえる」(文庫版p.292)

 「書き継ぐうちに、子どものことばは私の内面を照らす灯台の光のようになり、テーマは自然と深くなって、人の生と死と言語の根っこをめざして降りていった」(文庫版p.296)

 翻訳家による子育てエッセイ集ですが、話題は単なる育児にとどまりません。子どもが言葉を獲得してゆく過程を観察することで、言葉、文学、人生について深い洞察が得られた、というような流れになっています。

 知人の変なエピソードといった軽い導入から、言葉の扱い方を試行錯誤している子どもの滑稽な間違いや妙な癖を紹介し、と、ここまではよくある子育てエッセイなんですが、そこから先が凄いことになります。

 例えば、娘が文字の存在に気づいた、やがて本が読めるようになってきた、というごく日常的な話題から、こう展開するのです。

 「ことばを習得するというのは、ある意味、直感を失うことなのだ。そして、さらに書きことば、複雑なものを孕むことばの世界に踏み入ったとき、またなにか大きな自由を手放す。それでも、わたしたちはこれを成長と呼ぶ。なくしたもの以上の豊かさや閃きが文字文化にはあると信じて」(文庫版p.284)

 子育ての話から、いきなり、文学というものの根源的なところに切り込んでゆく。このダイブ感が強烈。

 他にも、娘が「死」ということばを初めて使った、というささいなエピソードから始まって、数ページでここに至ります。

 「子どもをもつというのは、生の一回性を生きることだと思う」(文庫版p.232)

 「人は数々の別れを経験するために生まれる。もっと言えば、死ぬために生まれる。その人生は取り返しがつかないことばかりで出来ている。なんと不便で、なんと融通がきかないんだろう。この融通のきかなさが、「掛け替えがない」ということだ」(文庫版p.234)

 あるいはこう。自分が生まれる前の両親の話を聞いた娘が「パパとママだけいて、わたし、ひとりぼっち」といって泣きだした、という、微笑ましいとも思える出来事から、次のような洞察へ。

 「これは人間のもつ根源的な孤独ではないか?」(文庫版p.220)

 死がなぜ恐ろしいのか。自分がもうどこにもいない、という状態を考えることに潜む恐ろしさの核はどこにあるのか。なぜ「思考ができる状態では思考し得ぬことを、人はいつまでもいつまでも考え続ける」(文庫版p.226)のか。そして次のように結びます。

 「こんど娘が「わたしがいなかったら、わたしは淋しい」という話をしたら、できるだけのことを話してみよう。答えにたどりつくのが不可能であっても、たぶん文学は専らこんなことを考えるために生まれてきたのだ」(文庫版p.227)

 もう一つ挙げてみましょう。子どもは言葉の約束事をまだよく分かってないため色々と混乱する、という話から始まって、言葉で「通じ合えない」ということを次のように書くのです。

 「翻訳の仕事をしていると、ことばや意思の「通じない豊かさ」ということを始終考える。その反対にあるのが、やすやすと通じあってしまう(通じあっていると思いこんでしまえる)貧しさだ。(中略)たがいに深い文化土壌をもっていて初めて「通じあえない」という現象はおきる。子どもたちのことばは、ぎこちなく衝突するが、それでもまるまると肥えている」(文庫版p.190)

 ぐっ、ときますね。

 もちろんすべてのエッセイが言葉、翻訳、文学、命、人生について考えるものばかりというわけではなく、子育てにまつわる微笑ましい、笑えるエピソードも沢山あります。

 三歳になった娘に「お風呂からあがったら、早くパジャマを着ないとだめでしょ」と叱ると、「大切なのはお風呂からあがって早くパジャマを着ることじゃない。夢を見ることよ!」(文庫版p.214)と切り返されたとか。

 「マルケス」(作家)と「マルクス」(経済学者orコメディアン)と「マルコス」(大統領)を言い間違えるおじさんは、「クンデラ」(作家)と「マンデラ」(政治家)と「ミンゲラ」(映画監督)をきちんと言い分けられるのか。

 恋人にプロポーズしようとした男が、「親が(二人で住むマンション購入の)頭金を出してくれるっていうから」と切り出したら、彼女は凍りついた。実は、このお嬢様は「アタマキン」という言葉の一文字を聞き落としたのだった。結局、二人は別れたとのことである。

 大学の同級生が何かのおりに「そういうことは、まあ、いずれ彼とねんごろになってから」と言ったので、「へえ、ねんごろかあ」と大学一年生だった著者はその大人っぽい言葉に大いに感銘を受けた。後に彼女から来た手紙により、彼女は「ねんごろ」という言葉を「寝んゴロ」だと思っていたことが判明した。

 分娩台に上がるとき靴下は自分で脱ぐものなのか否か真剣に悩んだとき、著者がありありと思い出したうら若き乙女時代。まわりの女子が「セックスのとき靴下は自分で脱ぐべきか否か」について悲愴なまでに真剣な表情で議論していたのだ。
 
 こんな感じで思わず吹き出ししまうような話も多く、話題の幅の広さには感心します。

 というわけで、『全身翻訳家』を気に入った方は迷わず読みましょう。また、ありふれた子育てエッセイ本に食傷している方にもお勧めします。それと、多様な言語や文化の谷間でもがく翻訳家という仕事について興味がある方にもお勧め。


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