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『遠い川』(粕谷栄市) [読書(小説・詩)]

 粕谷栄市さんの、三好達治賞を受賞した最新詩集。見開き2ページの詩40篇が収録されています。単行本(思潮社)出版は2010年10月です。

 昨年は母、今年は父が、それぞれ亡くなり、私も老境に差しかかり、そろそろ、老いるということ、死を迎えるということについて、自分の問題として真面目に考えなければなりません。

 というわけで、年老いた男が人生を振り返りながら静かに(あるいは、にぎやかに)死を迎える心境が書かれた粕谷栄市さんの詩集を読みました。三好達治賞を受賞して話題となった作品集です。

 収録作はいずれも見開き2ページの短い詩で、老境における死生観がよく表れています。死と生に明確な境界というものがほとんどなく、死を迎えつつあるとき夢見る光景、死んだ後から蘇ってくる思い出、などが様々に去来する様をえがきます。

 「それは、おそらく、誰も知らないことだ。暗い夜明け、老人が、独り、遠い川にむかって歩いている。まだ、人々は、深く眠っている」(『遠い川』より)

 「この世のどこかに、孫三の帳面が残っている。その最後の頁に、自分は、誰かのできそこないの詩のなかでだけ、不完全に、淋しく生きていた男だと書いてある」(『孫三』より)

 「この世を去るそのときまで、そんな頬を張り倒されるような、ばかな夢を見たりして、結局、おれは、死んだ女房のところへゆくのだ」(『死んだ女房』より)

 「風が吹いて、白い花びらは、空に舞う。渓川の水の音が聞こえ、全ては、昨日と、全く、同じだ。永遠に、それは、変わらず続いて行くのだろう」(『花影』より)

 短い言葉で人生、愛、死、そして死後をどう表現するか。様々な試みが並んでいます。こんな表現方法があったか、こんな題材をこう使うのか、驚きと感動があります。

 起承転結のはっきりした短篇小説のような詩もあり、好みです。例えば、『丙午』という作品。

 「若し、おれが、その丙午の歳、牛の日、牛の刻に生まれていたら、おれは、太鼓に牛の皮を張る職人になる」

 若さと力強さに満ちた言葉で始まり、やがて、

 「しかし、おれは、その丙午の歳、牛の日、牛の刻に生まれなかった」

とひっくり返し、悲しみと寂しさをつのらせ、

 「この世に牛などという生きものが、その皮を張った太鼓などというものが、本当に存在するのだろうか」

といぶかり、そして悔いのなかで、

 「丙午の歳、牛の日、牛の刻、結局、おれは、この世から消される」

と持ってゆく。言葉の繰り返しが見事な効果を生んでいると思います。

 死に際に夢見ること、死を前にして人生を振り返ること、こうであってもよかった別の人生を想像すること、そして死を受け入れること。

 老いてから学ばなければならないことは山ほどあり、きちんと死を迎えることが出来るのか自信がなくなってきました。母も父も、その一瞬に向けて、色々と大変だったのだろうな。


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