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『わたしを宇宙に連れてって  無重力生活への挑戦』(メアリー・ローチ) [読書(サイエンス)]

 輝かしい栄光、恐るべき悲劇。有人宇宙飛行の大半を占めているのはそのどちらでもない。食事、排便、排尿、嘔吐、体臭、入浴、自慰。滑稽だったり汚かったり、NASAの広報部が決して喧伝しない、宇宙開発の人間くさい側面に焦点を当てた下品で楽しい科学ノンフィクション。単行本(NHK出版)出版は2011年10月です。

 「NASAは真実を隠蔽している」と主張する本をときどき読むのですが、これが正しいことは本書を読めばすぐに分かります。ただし隠されているのは、異星人の来訪でも火星のピラミッドでもなく、有人宇宙飛行のイメージを損ない、ただでさえ不足している予算を危機にさらす恐れのある事実なのです。

 例えば、「打ち上げ直後の一日か二日、シャトル内の映像がほとんど放映されない」(単行本p126)のはなぜでしょうか。それは「乗ってる全員がどっか隅っこで吐いているから」(単行本p.126)だそうです。

 無重力で楽しそうに浮いている宇宙飛行士の映像を見ると、すごく羨ましく感じるのですが、実際には人は無重力では簡単に嘔吐するらしい。無重力体験フライト用の飛行機を誰もが「ゲロ彗星」と呼ぶのはそのため。

 同乗した人物に本当に唐突に吐かれたとき、「回避行動の適否が運命を分ける」(単行本p.121)と語るのはNASAのEVA管理部のスタッフ。「ふいに直感したんだ。いまからおよそ三秒後に、ゲロが2Gの加速度でこっちに向かってくるとね」(単行本p.121)

 こんな超能力を発現させるまでに、この人はどれほどの修羅場をくぐり抜けてきたのでしょうか。宇宙の過酷な環境が人類をニュータイプにする、というのは本当かも知れません。

 ゲロ吐きが汚い話題だと感じるなら、排泄を扱った章など読めないでしょう。

 「無重力空間では、尿は膀胱の底には集まらない。表面張力によって、膀胱の内壁に張りついてしまう」(単行本p.301)。このため膀胱は満タンになっていることを検知できず、脳は警報を受け取ることが出来ない。結果は・・・。

 さらに大便を肛門から引き剥がす力が存在しない環境では、表面張力が荷物をしっかりと肛門に張り付けるのです。切り離しに成功しても「糞便ポップコーン効果」によって便は飛び散り、漂い始めます。アポロ10号の交信記録をご覧ください。

 スタフォード「ナプキンを取ってくれ。クソがそこに浮かんでる」
 ヤング「俺じゃない。俺のじゃないぞ」
 サーナン「俺のでもない」
 スタフォード「俺のはあれよりもっとゆるかった」
 (単行本p.306)

 飛び交うゲロと浮遊する大便だけでなく、本書には人間くさい話題が満載されています。

 「ある宇宙飛行士は、ハッチを開けて宇宙空間に出たとたん、同僚の脚に両腕を回してしがみついた」(単行本p.74)。もちろん、落下の恐怖に対する反応。

 二週間に渡って入浴も着替えも出来ない宇宙飛行士たちの下着は「股間など身体のくぼんだ部位に張りつき、強い悪臭を放ちながら、崩壊し始め、ひじょうに厄介な状況」(単行本p.218)になるという。

 ジェミニ7号の打ち上げ翌日、これから船外に尿を廃棄すると報告した宇宙飛行士はこう付け加えた。「大した量じゃないよ。ほとんどは僕の下着に染みてるから」(単行本p.219)

 これまでに無重力セックスを体験した人類はいるのか。無重力状態で屁の推進力だけでどれだけ移動できるか。歴代の宇宙飛行士たちが持ち帰った大便が今でも冷凍庫に保存されているというのは本当か。宇宙カプセルの中で排尿するとき犬はどうやって片足を上げるのか。宇宙服に装着される男性用尿採集器のサイズに「大」と「特大」と「超特大」しかないのはどういうわけか。

 著者は大いなる熱意をこめて調査を進めます。

 膨大な資料にあたり、通話記録をかきわけ、関係者にインタビューを試み、さらには無重力体験飛行、閉鎖環境実験施設、月面探査模擬試験場、衝突実験場など、様々な施設で実地体験を試みるのです。その情熱には頭が下がります。

 あまりに興味深い(そして下世話な)話題が満載されているため、思わず笑ってしまい、ときどき気分が悪くなるのですが、本当の宇宙開発というのはこういう問題に一つ一つ対処してゆくことなのだ、ということがよく分かります。

 個人的に感銘を受けたエピソードを一つ。本書にしては珍しく、下品でない話題です。

 アポロ計画におけるクライマックスの一つは、月面に「たなびく星条旗」を立てる、というミッションだった。『月面に旗を立てることに関する政治的および技術的側面』という論文が書かれ、伸縮式の旗竿と横棒(そこから星条旗をカーテンのように垂らして風にはためいているような形にする)が開発された。

 しかし、月着陸船にそんなサイズのものを乗せる余地はない。そこで着陸船の外側に取り付けることになったが、それにはエンジンが発する摂氏1000度を超える熱に耐える必要がある。星条旗セットを守るために特殊な保護ケースが開発された。

 しかし、宇宙服を着たまま星条旗を保護ケースから取り出すのは困難であることが判明。宇宙飛行士は「国旗セット展開・設置シミュレーション」訓練を延々と繰り返すはめになった。

 星条旗を保護ケースに格納する4ステップの工程については、品質管理課長自ら監督するほどの厳重な管理が行われた。月の地面が固く、旗竿が浅くしか刺さらないという予想外のアクシデントに見舞われたものの、国旗セット展開・設置ミッションは無事に成功した。

 それから何十年も経って、当時の記録映像を見た人々が、「空気がないはずの月面上で星条旗がたなびいている。これは捏造に違いない」と騒ぐことになった。これほどの栄誉に恵まれた宇宙ミッションは他にはないかも知れない。


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