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『プランク・ダイヴ』(グレッグ・イーガン) [読書(SF)]

 仮想現実、人工知能、ソフトウェア人格、クローニング、数学の不完全性、ブラックホール。ありふれたSF題材から、あっと驚く斬新なイマジネーションを引き出す名手グレッグ・イーガン、日本独自編集の最新短篇集。文庫版(早川書房)出版は2011年9月です。

 色々な意味でハードな作品が集まった短篇集です。物理学や数学の専門用語が手加減なしに飛び交う作品もあり、適当に「流して」読むスキルが求められます。しかし、大雑把にでも理解しながら読み進めたその先に待っているのは、紛れもなくSF最先端の興奮。さすがイーガン、と唸らされること間違いなしです。

 『クリスタルの夜』は、驚異的な演算性能を誇るクリスタル結晶体の中に構築された仮想世界で人工知能を育てる話。解説にもある通り『フェッセンデンの宇宙』(ハミルトン)テーマの作品ですが、むしろ『竜の卵』(ロバート・フォワード)を連想しました。

 余談になりますが、同様に人工知能の育成を扱った『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』(テッド・チャン)と読み比べてみるのも面白いでしょう。特に「人工知能の進化を時間的に加速することでシンギュラリティに到達できるか」という点で、まるでわざと狙ったかのように対照的な結末となっているのが印象的です。

 『エキストラ』は、ある大富豪が自分のクローン体に脳を移植することで若返りを図る話。周到に実験を繰り返して安全を確認してから脳手術に踏み切った彼だったが、そこには思いも寄らない陥穽が待ち受けていた。意識とアイデンティティの問題をストレートに扱った作品で、いかにもイーガンの初期作品らしい。

 『暗黒整数』は、名作『ルミナス』の続編。異なる数学体系をベースにした異世界とのコンタクトが行われてから十年後、新たな発見により危うく保たれていた両世界の均衡が破れ、疑心暗鬼に駆られた向こう側から攻撃が開始される。攻撃対象は物理法則、武器は純粋数学。

 物理法則の基盤は数学であり、数学体系は完全かつ無矛盾ではあり得ない。すなわち互いに矛盾する(けれど対等な)複数の公理系による異なる数学体系が成立し、それぞれの数学体系をベースにした物理法則のセットもまた複数存在する。そして我々のとは異なる物理基盤が、この物理世界と重なるように存在している。もし、一方が大量の演算により他方の数学体系を覆せば、そのとき物理法則そのものを崩壊させることが出来るのだ。

 馬鹿馬鹿しいアイデアを重厚に展開してみせた『ルミナス』があまりにも衝撃的だったせいか、続編である本作には正直さほど感心できませんでした。前作の主役が超大型光スーパーコンピュータだったのに、今作ではノートPC(およびインターネットそれ自体)になってしまうというのも、時代の流れを感じさせて面白いのですが。

 これから読む方は、まずは短篇集『ひとりっ子』収録の『ルミナス』を先に読んでおくことをお勧めします。

 『グローリー』は、異星人(といっても冷戦当時の地球人とほとんど同じ)とコンタクトした主人公が、その星の古代遺跡を調査して「数学の究極的統合」の結論を見つけ出そうとする話。

 他愛もないアイデアストーリーですが、冒頭数ページの(話の展開にはほぼ無関係な)光速を超えない恒星間航行の、変態的なまでの濃密ハードSF描写が凄い。また、タイトルの本当の意味が明らかになるラストのアイデアも結構すげえのですが、それがまたあっさり流されてしまうというのが何ともイーガン。

 『ワンの絨毯』は、個人的に最も気に入った作品。異星生物とのファーストコンタクトを扱った中篇ですが、その「異星生物」の設定が実に素晴らしい。

 「いかなる所与のチューリングマシンに対しても、それを模倣できるひとセットのワンのタイルが存在する」(文庫版p.285)という数学的定理から、ならば万能チューリングマシンに対応する「ワンのタイル」のセットが存在するはずで、それを二次元平面上に敷きつめてゆくことであらゆる演算が原理的に可能、だったらその上で仮想現実を走らせることも、ならば、みたいな、驚異の思考跳躍に胸が躍ります。SFですよSF。

 本作は長篇『ディアスポラ』の一部に取り込まれているのですが、中篇の方が切れ味が鋭くていいんじゃないかと思いました。『ディアスポラ』を読んでない、あるいは途中で挫折したという方は、ぜひ本作をお読み下さい。

 『プランク・ダイヴ』は、ブラックホールに突入して「量子力学の基盤である、プランク・スケールでの時空構造」を探る計画を扱った作品。ほぼ全編に渡って物理学用語が乱舞し、読み進めるのに苦労させられます。

 一応、登場人物が置かれている境遇を「ブラックホールからはいかなる情報も外部に脱出できない」という物理法則に重ね合わせる、という小説的な工夫により物理学論文の要約みたいなものになるのを防いではいるのですが、正直それほど面白いとは思えませんでした。

 最後に置かれた『伝播』は本邦初訳。恒星間航行を真正面から書いた短篇で、ラストにはいかにも古典的なハードSFの感動もあり、けっこう良いです。

 作中のメインアイデアは『グローリー』の冒頭シーケンス、仮想現実に対する物理現実の特別性というテーマは『ワンの絨毯』、そして帰還を想定しない果てしない探索というイメージは『プランク・ダイヴ』へと、それぞれ他の収録作につながるというか、その基礎となるイメージが次々と登場します。そういう意味で、本書全体の入門篇という趣があり、これから読む方はまず最初に本作を読んだ方がいいかも知れません。

 というわけで、なかなか一筋縄ではいかないハードなSFが揃っているので、まずSF読者以外にはお勧めできません。ですが、SF読者であれば、好き嫌いはともかく読んでおくべき短篇集でしょう。妥協のない、混じりっけのない純粋なSF、純文学ならぬ純SFがここにあります。


[収録作]

『クリスタルの夜』
『エキストラ』
『暗黒整数』
『グローリー』
『ワンの絨毯』
『プランク・ダイヴ』
『伝播』


タグ:イーガン
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