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『姫と戦争と「庭の雀」』(笙野頼子) [読書(小説・詩)]

 シリーズ“笙野頼子を読む!”第58回。

 S倉在住作家のところに、イラク派兵反対集会のビラが届く。「へ、純文学ですか庭の雀とか書いているだけの」と揶揄される純文学は、はたして戦争をどのように書くのか。

 集英社刊「コレクション 戦争×文学」の第四巻、『9・11 変容する戦争」に、『姫と戦争と「庭の雀」』(笙野頼子)が収録されました。出版は2011年8月です。

 本作の初出は「新潮」2004年6月号。その後、2005年5月出版の『文学2005』(講談社)にも収録されています。

 社会や政治とは無縁に、ひたすら瑣末な私事を書く作品。それこそ庭の雀を私が見ている、といったことを延々と書いて悦に入る小説。純文学にそういうイメージを持っている人も少なくありません。

 そこで、純文学とは「極私的言語の、戦闘的保持だ」(『ドン・キホーテの「論争」』)と言い切る純文学作家の戦闘開始です。今そこにある戦争を、反戦運動を、そして国家の戦争責任を、「私小説」にする。純文学に何が書けるか見せてやる。

 でも、どうやったらそんなことが可能なのでしょうか。

 いやみたっぷりに小説内私小説「庭の雀」を書いたり、2ちゃん用語を多用したり、その姿勢は過激で挑発的。でもその鋭いユーモアに笑えます。

 「マターリしてイ鱈憲法苦情の改悪が来る、集会禿同、モマエもユくのよ」(単行本p.593)

 煽られた作家は反戦集会に出てデモ行進に参加しますが、どうも様子がおかしい。深夜だし、あたりの神社から集まってくる参加者たちは羽根が生えてたり天狗型だったり、デモ行進というよりむしろ百鬼夜行。でもそれぞれに極私の祈りを担って。

 同時期に(「すばる」2004年4月号)代表作『金毘羅』が発表されており、そちらと合わせて読むとさらに楽しめる作品です。『猫々妄者と怪』(「文藝」春季号)の発表もほぼ同時期ですね。

 というわけで、著者の作品集に収録されてないため読み逃していた作品を、こうして読むことが出来て嬉しい。笙野頼子さんの作品は、後に書かれた作品を読んでから戻って読み返した方がよく分かる、ということが多いので、そろそろこの時期(『水晶内制度』以降『だいにっほん』以前)に書かれた作品を再読してゆくべき頃合いか、と思いました。


タグ:笙野頼子
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