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『対詩 詩と生活』(小池昌代、四元康祐) [読書(小説・詩)]

 二人の詩人が、詩を書くこと生きることについて、詩の言葉によって語り合った共同詩集。単行本(思潮社)出版は2005年10月です。

 私がはじめて読んだ四元康祐さんの作品は、小池昌代さんが編集した『通勤電車でよむ詩集』に収録されていた『言語ジャック 1新幹線・車内案内』という詩でした。この上なく定型的で限りなく無意味な新幹線車内アナウンスの言葉を徹底的にいぢくり倒すやり口に、こ、こりゃ面白い、と大喜びして、それから詩集を読むようになりました。

 その小池昌代さんと四元康祐さんの共著です。私にとって何だか詩の出発点のような気がして、嬉しい。

 小池さんが詩を提示し、詩とは何か、生きるとは何か、両者はどのように関係しているのか、と問えば、四元さんが、返歌というのか、何というのか、自分の詩でそれに応え、さらに問い返す。

 互いに相手の作品のモチーフを流用したり、母の詩に対して子の詩で返したり、微妙な連携を保ちつつ次々と流れるように提示される詩。これが対詩という形式なのでしょうか。

 どの詩も真剣勝負の気迫に満ちていますが、しかしお互いに妙な対抗心のようなものが弾ける瞬間があって、個人的にはそこが好きです。

 例えば、第11作『寂しき高み』で四元さんは、自分の尻の穴に(触診で)医者が指をつっこんで前立腺をつんつんするので「ああっ」という声が出てしまう、それを「一篇の/詩が読まれるときに似た/声が漏れる」とうたう。

 さあ、ケツの穴に指つっこまれて、ああっ、といって漏れるのが詩の言葉ではないか、と問われた小池さん、これに何と応じるのか。

 続く第12作『暴走自動車』で、小池さんはこう返します。

 なにげなく乗ったタクシーが「暴走していく/暴走していく/暴走していく/狂ってる」、「かつて産道を このように暴走した/そして 押し出され でてきた かたまりとして」、「怖いよ。おかあさん。わたしは死ぬ。おぎゃあ」。

 産道を暴走してゆく狂人タクシー、それが詩ではないかしら、と。

 さあ、白熱の穴勝負! というか前立腺じゃ勝ち目はないよなあ。

 本書を貸してくれた配偶者に「どうだった」と聞かれたのでそのような感想を述べたところ、えらく不機嫌になって、小池さんや四元さんがどんなに立派で尊敬されている詩人であるかこんこんと諭されました。えろうすんまへんなあ。

 それ以外に気に入った作品を挙げるなら、まず四元康祐さんの第15作『ハリネズミ』。庭で死にかけているハリネズミを見つけた娘さんの詩で、死(詩?)を見つめる言葉が印象的です。というか、娘さん可愛い。

 小池昌代さんの作品では第10作『花火』。「一生、誤解されてそのまま死ぬ。覚悟はできましたか」という問いかけが鋭く、四元さんも「あとがき」でここに言及しています。

 小池昌代さんの第24作『椿』も素敵。幻想的な短篇小説のような作品です。橋を渡って「双子の兄弟」を尋ねたところあっさり黙殺され、しかも帰り道も分からない。「運命なので」ひたすら橋を渡るが、結局どこにもたどり着けない。詩人の人生を象徴するような話。

 振り返ってみるに、どうしても小説に近い文章や展開の作品ばかり気に入ってしまうわけで、私は結局、散文読みです。


タグ:四元康祐
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