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『乾燥標本収蔵1号室  大英自然史博物館 迷宮への招待』(リチャード・フォーティ) [読書(サイエンス)]

 巨大博物館の奥深く、見学者が決して目にすることのない場所ではいったい何が行われているのか。大英自然史博物館に勤める古生物学者が明かしてくれるその内幕。何十年にも渡って黙々と続けられる分類作業、膨大な収蔵品、キュレーターたちの仕事ぶり、基準標本、研究者たちの奇妙な生態。単行本(NHK出版)出版は2011年4月です。

 三葉虫の専門家である著者が、大英自然史博物館の裏側を案内してくれます。想像するだけで、どきどきしてきます。

 「世の中に自然史博物館はいくらでもあるが、キャプテン・クックの第一回航海に同行した博物学者サー・ジョゼフ・バンクスや、チャールズ・ダーウィンが採集したコレクションを所蔵するのは、この「大英博物館」だけなのだ」(単行本p.27)

 古生物、動物、昆虫、植物、魚類、鉱物、そして図書館。数百年に渡って世界中から集められた標本と記録と文献が詰まった巨大迷宮。その姿には、いきなり絶句してしまいます。

 「そうやって探検を続け、30年以上たった今でも、一度も行ったことのない場所がまだ残っている。大英自然史博物館は、ファンタジー作家マーヴィン・ピークが描くゴーメンガースト城のように広大で、迷路のように入り組んでいて、すべての場所を知るのはおそらく不可能なのだ」(単行本p.44)

 「奥まった場所にある小部屋で、だれかが人知れず気が触れて、そのまま忘れさられたりしないのだろうかという想像もした。のちに知ったことだが、実際にそんなこともあったらしい」(単行本p.44)

 あったんですか。

 基本的に、本書は自然史学のガイドブックです。博物館のあちこちを訪れて研究者たちの仕事ぶりを見学するというフォーマットで、様々な生物種や研究分野の状況について解説してくれます。それだけでも充分に面白く、知的好奇心を満足させてくれるのですが、しかし何といっても本書の最大の魅力は、登場する研究者たちの姿でしょう。

 個人的に印象に残ったエピソードを少しばかり引用してみます。

 「彼はあらゆるものを整理・保存したと言われている。小包に入った標本が送られてくると、もちろん徹底的な同定作業を行ったが、包みを縛っていた紐まで保存し、長さ別に専用の箱に整理した。(中略)ライアス世の地層一センチごとに化石を集めてもなお、満足できなかったのだ。彼にしてみれば、そのくらいのデータでは論文にまとめるには値しなかったのである」(単行本p.123)

 「彼の記憶力はすさまじく、あるアンモナイトが掲載されている雑誌のページを、それがどんなに無名の雑誌であろうと、言い当てることができたそうだ。晩年、視力を完全に失ったが、静かに標本をなでてその畝や隆起の特徴を感じとり、種類を特定できたという」(単行本p.127)

 「1980年代には何度も、一、二種の寄生虫を宿してアフリカの現地調査から戻ってきて、ロンドン大学衛生学熱帯医学研究所の専門家たちを大いに喜ばせた。あるとき、帰ってきたばかりの彼に、今度は何を連れ帰ったのかと恐る恐る尋ねた。すると彼は、からからと笑いながら、「わからないよ。まだ、孵化していないからね」と答えた」(単行本p.207)

 「昆虫研究部のトイレの配置換えがされ、男性用トイレが隣の女性用トイレと入れ替わった。それから何か月か経ったころ、彼は「奇妙だな。男性用トイレから小便器がなくなってしまったよ。いったいどういうことだろう」と、ぽつりとつぶやいたという」(単行本p.298)

 「酔っ払っているときほど、じょうずにクジラをスライスし、その年齢を特定した。しらふのときは、あまりうまくこなせないように見えた。(中略)あるときなど、クジラ部屋の「肉をはがすタンク」のなかに落ち、大やけどを負った。本人はあとになって、あれでしらふだったら助からなかっただろう、と言っていた」(単行本p.214)

 「アルファベット順に並べられた一束の検索カードが死後に見つかった。その一枚一枚に、ベッドで征服した相手の名前が記され、恥毛が一本ずつ張りつけられていたという。その数は膨大で、まるでシダ類のインデックスカードのようだったらしい。おそらく分類学者の本能があまりに強すぎて、きちんとしたアーカイヴをつくらずにはいられなかったのだろう。キュレーターはいつでも何事にもキュレーターなのだ」(単行本p.257)

 他にも、ネッシーの研究に没頭して解雇された研究者、ブラジル産ニシンのイラストが載っているという16世紀の書物を求めて世界中を探し回った挙げ句にモーツァルトの直筆楽譜を発見してしまった研究者、そして第二次大戦中に暗号(cryptograms)専門家と間違われてエニグマ暗号解読チームに徴用された陰花植物(cryptogams)の専門家。

 最後のエピソードは大笑いですが、さらに素晴らしいのがそのオチ。ドイツ軍のUボートから重要な暗号ノートを回収したものの、ずぶぬれで読み取ることが出来ない。チームが困っていたとき、陰花植物の専門家である彼は、海藻標本を作成するときの技術を駆使して見事にテキストを修復してのけ、おかげでナチスのエニグマ暗号解読に成功したというのです。

 心温まる(あるいは肝を冷やす)数々のエピソードとともに、様々な生物種の紹介、博物館の存在意義、分類学の重要性、そして自然界の素晴らしさが語られます。他にも、化石の偽造や標本の窃盗といった不正行為、予算削減による博物館の苦境、生物種多様性の保全に向けた取り組みなどの話題も登場します。

 あちこち話が飛びますが、それも博物館の迷宮をさまよい歩いている雰囲気が出ていて良いと思います。通読することで、自然史学というものの魅力を存分に味わうことが出来る好著です。


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