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『SFマガジン2011年6月号 パオロ・バチガルピ&新海誠特集』 [読書(SF)]

 SFマガジンの2011年6月号は「パオロ・バチガルピ&新海誠特集」でした。パオロ・バチガルピ特集では、短篇2篇に加えて、インタビュウや解説を掲載してくれました。

 バチガルピについては、SFマガジン2007年8月号で『イエローカードマン』、同2010年1月号で『第六ポンプ』を読んだだけですが、何だか「環境破綻した未来を舞台に、救いのない決断を迫られる話」ばっかりで、その気の滅入る作風はちょっと苦手でした。

 ところが今回の『ギャンブラー』はちょっと毛色が変わっていて、まだ全世界的な環境破綻が起こるより前の近未来、というかほとんど現在が舞台となっています。

 主人公は独裁政権に飲み込まれた東南アジアの国から逃げのびてきた難民。米国のネットニュース社で記者の仕事にありついた彼は、迫り来る環境危機についての記事、故国で進行している人道的危機についての記事など、硬派な記事ばかり書いていた。このためクリック数が稼げず、このままではクビだと上司から警告されている。クビになれば入国許可は取り消され強制送還されてしまうだろう。

 今、行動を起こせば間に合うかも知れないのに、環境問題や海外の政治問題には何の興味も持たず、有名人のスキャンダルや新製品レビュー記事、面白ネタ記事、猫動画ばかりをクリックする人々。ネット上の“祭り”が生み出す膨大なクリックカウントとそれによる広告収入こそが正義であり民意である「豊かな」国。

 「たんなる気の滅入る話。だれも気が滅入る話は読まない」(p.22)

 「彼らの悪いところは、奇妙なほどの無知、自分たちのふるまいが子ども以外のなにものでもないことをかたくなに信じようとしないところだ」(p.32)

 貧しく虐げられた人々、誰にも注目されないまま急速に絶滅してゆく生物種。滅びゆく世界で何も気にせずひたすらクリックとツィートに明け暮れている私たち。真摯だが説教くさくない筆致で痛みと哀しみを伝えてくる作品です。

 まだ賭けるに値するものが残されているかも知れない「今」をえがいた、バチガルピにしては珍しい微熱血作品。タイトルに込められた意味が明らかにされる終幕、そしてラスト一行には泣けます。そこに希望は残されているのでしょうか。

 一方、『砂と灰の人々』はすでに環境破壊が世界中をおおっており、人間以外の生物種はほぼ絶滅している未来が舞台。

 バイオテクノロジー(“ゾウムシ技術”とありますが詳細不明。たぶんゾウムシを改良して『20億の針』(ハル・クレメント)の異星生物みたいな体内共生体にしたものと思われ)による徹底的な人体改変により環境汚染を生き延びた人類。

 しかし自然環境から完全に切り離された人類は、その代償として人間性を喪失してしまっている。そして、そのことがどれほど大きな代償なのか、誰一人として理解している者はいなかった。

 自然環境の象徴として犬が登場し、もちろん蹂躙されます。犬好きの読者は要注意。

「バチガルピは甘美な終末を描かない。華々しいシンギュラリティも描かない。バチガルピの作品で描かれるのは緩慢に醜く崩壊しつつある世界のありようと、その世界で生き延びるために境界線を踏み越えるかどうかギリギリの選択を迫られる、普通の人々の姿なのである」(特集解説『壊れた世界の、壊れた人々』(石亀渉)より p.69)

 というわけで、バチガルピはちょっと見逃せません。5月末には待望の長篇『ねじまき少女』の刊行が予定されており、きちんと読むことにします。

[掲載作品]

『ギャンブラー』(パオロ・バチガルピ)
『砂と灰の人々』(パオロ・バチガルピ)
『読めない名前を持つ作家』 インタビュウ 聞き手:アラン・ヴォーダ


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