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『残月記』(小田雅久仁) [読書(小説・詩)]

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 そこではっとした。月が動いているように見えた。夜が胸をひらくことであらわれた白い心臓のように、ふわりふわりと拍動している。いや、錯覚だ。ほかのものが目に入らなくなるほど一途に何かを凝視しつづければ、それがなんであれ仮そめの命を得て拍動するように見えてくるものだ。月は動いてなどいない。じゃあなんだ? 絶対に何かが変わりつつある。絶対に何かが……。
 そうか。月が回転しているのか。地球にけっして裏側を見せないはずの月が、いまふりかえろうとしている。見ろ。クモヒトデのような純白の光条を放つティコ・クレーターが右へずずずと動き、裏へ回って見えなくなった。そして雲の海が、コペルニクス・クレーターが、雨の海が、アナクサゴラス・クレーターが、次々と姿を消した。
 やがて回転が止まった。かつて見せたことのない裏側の月世界をさらして、ぴたりと静止した。こちらこそが本当の顔だと言わんばかりに。
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単行本p.22


 月の狂気にとらわれ二つの世界を行き来する三つの物語。長編『残月記』と他二篇を収録した、『増大派に告ぐ』『本にだって雄と雌があります』の著者による待望の第三単行本。単行本(双葉社)出版は2021年11月です。




収録作品
『そして月がふりかえる』
『月景石』
『残月記』




『そして月がふりかえる』
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 きっと俺はどこかで高をくくっているのだ。こんなことがいつまでも続くはずがないと。あしたはあしたの月が昇るだろうと。さっきのようにそのうちまた世界がまるごと蝋人形の館にでもなったかのように動きを止め、そのあとに何もかもがけろりと元にもどっているだろうと。そしてその思い出は、目を覚ますと岩のように重い老婆が腹の上に乗っていただの、宇宙人に攫われて鼻の奥に何か埋めこまれただのと同じように、消化しきれないまま頭の片隅で色褪せ、埃に埋もれてゆくのだろうと。
 本当にそうだろうか。あしたもまた同じ月が昇ってきたとしたら? あさってもしあさってもそうだとしたら? この狂気に出口なんかどこにもないとしたら? 考えたくもないことだ。考えてはいけないことだ。そして考えずにはいられないことだ。
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単行本p.39

 月が裏返り、それにあわせて裏側の世界に入ってしまった男。家族は誰も彼のことを知らない。自分は誰なのか。狂ったのは自分なのかそれとも世界なのか。




『月景石』
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 雲一つない西の夜空に、見たことのない異様な満月が際やかに浮かんでいた。しばし意識が沈黙する。本当に月なのか? しかし地球は月のほかに衛星を持っていない。まるで地球の幼年期でも眺めるように、森の緑が見え、海の青が見え、大地の茶色が見え、雲の白が見える。そこから導き出される結論は一つしかない。あれはわたしが夢の中で生きた月だ。大月桂樹が根づいた月世界だ。それを地球から眺めると、こう見えるのだ。しかしなぜ? まだ夢を見ているのか? だとしたら、なぜわたしは地球にいる? そしてこの地球はいったいどうしたんだ?
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単行本p.160


 平凡な日常生活と月世界での冒険。月景石が見せる夢のなかで別の人生を送る女性は、夢が次第に現実を浸食していることに気付く。




『残月記』
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 月昂だ! やっぱりこれは月昂だ! 俺は月昂者となったのだ! 世界が静まりかえり、夜の彼方にまで血の気が引いてゆくようだった。しばしのあいだ、心が宙に放り出され、もがくよすがもなく、森の奥の縊死体のように虚ろに揺れていた。どれぐらいそうしていたろう。(中略)
 喘ぎながらカーテンを少し開けると、月明かりに照らされた夜の世界が、異様な明るさをみなぎらせて際やかに迫ってきた。西の空に燦々たる月がかかっており、眩しさに思わず目を細めた。あと二、三日もすれば満月になるであろう太った月だ。われらの月は生きている息づいている脈動している……また詩の文句が思い出された。それまでの人生で見てきた月は、暗幕を切り抜いたように平板で生気がなかったが、今夜見あげる月はどうしたわけかむっちりと肉厚で、たしかに息づいているようだった。
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単行本p.217、218

 罹患すると月齢に体調を支配され、激烈な衝動に支配される時期と生死の境をさまよう時期を繰り返し、発症後数年で死に至る恐るべき感染症、月昂。強権体制ディストピアと化した日本を舞台に、月昂感染者である一人の男が辿った数奇な運命を、様々な物語を交差させながら力強く描いた感動作。





タグ:小田雅久仁
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