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『現代生活独習ノート』(津村記久子) [読書(小説・詩)]

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「本よく読むの?」
「えー。ときどき」
 百円のコーナーにおもしろそうなのがあれば、とアサははぐらかすようなことを言う。チャイムが鳴る。キヨはなぜか、身が引き締まるような思いがする。今までのアサは、マインクラフト好きのハンドボール部の声がでかい女子だったが、これからは読書もする人間で、レアル・ベルガーニャの王の欺瞞に気付く人間でもある。もういいかげんな都市は作れない。
 キヨは厳粛な思いで残りの都市の作製に取り組むことを決意し、その気持ちは、その日塾に行っても、塾から帰ってきても、母親から好き勝手なことを話しかけられても揺らぐことはなかった。
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単行本p.237


 偶然録画されていたどうということもないTV番組。妙なサービスが載っている通販カタログ。キラキラしてない食事写真のインスタ投稿。家庭科の時間に友だちに見せる自作の都市設定。ごく日常的な事柄からふと前向きな気持ちが生まれる瞬間を丁寧に描いた8編を収録した短編集。単行本(講談社)出版は2021年11月です。


収録作品

『レコーダー定置網漁』
『台所の停戦』
『現代生活手帖』
『牢名主』
『粗食インスタグラム』
『フェリシティの面接』
『メダカと猫と密室』
『イン・ザ・シティ』




『レコーダー定置網漁』
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 心が安らいでいるかどうかは知らないけれども、糸切りばさみを持って靴下の毛玉と向き合っている時間、私はおびただしい情報に自我が押し流されたことについて考えなくてすんだ。確かに、小池さんによるはさみの違いについての解説も情報ではあるけれども、その蛇口からの水流はきわめて細く、受け取ることにほとんどエネルギーを必要としないものであるように思われた。
 毛玉靴下のつま先の部分をひとしきりきれいにすると、私は「よーし」などと言いながら、昨日の『街かど出たとこクイズ!』と同じ時間帯の次の日の番組を再生した。何が網に掛かっているのかな、ぐらいの気持ちにはなったのだった。なんだか漁をしているようでもある。
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単行本p.24

 ネットにあふれる情報を追っているうちに心が疲弊して動けなくなった語り手。ずっと前から録画予約しておいた刑事コロンボ傑作選を観ようとして再生してみたところ、それは最初の数回で終わっており、その後は同じ時間帯に放映されたどうということもない番組が毎日律儀に録画されていることが判明する。そんなゆるーい番組を定置網にかかった魚を確認するように見ていくうちに、心が少しずつ癒されてゆく。




『現代生活手帖』
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 今日は今年度版の『現代生活手帖』がやってくる日だという通知が昨日来て、年末に何一つ部屋の片づけをできずにどんよりしていた私は、俄然元気が出てくるのを感じた。到着は、14時52分であるとのことで、昼過ぎに目が覚めた私は、寝床でとりあえず去年板の『現代生活手帖』を開く。常に枕元に置いてある。依存しているというわけではないが、私は、ことあるごとにこの手帖を眺めて、少しでも自分の生活がらくにならないかと模索と妄想を繰り広げるのが好きだ。
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単行本p.56

 毎年、各戸に配布される『現代生活手帖』を眺めてあれこれ考えたり妄想したりするのが好きな語り手。この冊子には妙な製品やサービスがいっぱい載っているのだ。ロバが運ぶ宅配サービスとか、蛇口からみかんジュースが出るようにする水回りリフォームとか、留守中に室内を勝手に物色して不用品をこっそり捨ててくれるサービスとか、〆切直前の危機感煽りサービスとか。自分の生活にとって必要なのか不要なのか、高いのか安いのか、微妙なスペックと価格。奇妙な通販カタログ誌(モデルは『通販生活』ではないかと思う)を眺めているときの心理を描いた作品。




『粗食インスタグラム』
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 とにかく、判断を減らしたいというその気持ちにだけは激しくうなずけるものがある。ちなみに私は、洋服はクローゼットの右側にあるものから着ていく。洗濯をしたら左に戻す。手に取った服がどれほど気分にそぐわないものであろうと、それを着る。判断をするぐらいなら、その日一日後悔をする方がいい。
 仕事の合間の休憩時間に、再び〈sad desk lunch〉のブログを今度は携帯で眺めながら、なぜ自分はサッドなデスクランチやアメリカの給食を見ると少し楽になるのかと考える。
 食べることに疲れていて、自分はそのことに罪悪感があるのかもしれないと思う。しかし食べることは私にとっては判断を伴う。私は判断がもうしんどい。けれども何かを食べないと生きていけないのは理解しているから、せめて悲しい食事で生きようとしている仲間を探して安心しようとしている。
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単行本p.126

 心が疲弊してもう何も「判断」したくない、だから毎日同じものをひたすら食べることで「判断」を回避する。そんなテンション低く生きている語り手は、ふと夕食を撮影してSNSに載せてみようと思い立つ。「クラッカー+水」「ソフトクリーム+コーンスープ」「コロッケ+きゅうりの一本漬け」といった妙に生々しい寂食メニューをアップし続けているうちに、枯渇していた生きる力が少しずつたまってゆく。




『メダカと猫と密室』
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 自分の問題がある程度クリアにはなったものの、中村課長はまだ油断できない状態にあると私は思った。メダカのことや悪口ノートを使って安田さんが私を悪い立場に追い込むとは考えにくかったが、私の弱みを握っている、というか、普段仕事をしていてより世話になっている方はどちらかというと、圧倒的に安田さんだったので、私はなんとか安田さんが満足いくまで閉じこもっていられるように努力すべきだという結論に達した。
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単行本p.206

 休日出勤して無責任な上司から連絡が来るのを待つ。せっかくの休日を潰して、しかし仕事はなく、ひたすら連絡待ちという状況にキレた先輩が資料室に閉じこもってしまう。そこで秘かにメダカを飼っているので困ったことになった。しかも会社の人々の悪口を書いたノートもそこに置いてある。まずい。そこにスマホの操作に慣れてない人に猫動画を撮影して送ってもらうよう指示出しするという急ぎの仕事が舞い込んで……。残業時間や休日出勤でひたすら指示待ちしなければならない悲しき空費時間をリアルに描いた、『ウエストウイング』や『とにかくうちに帰ります』などの職場小説を思い出させる作品。





『イン・ザ・シティ』
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 アサはべつにこだわったりはしないだろうけれども、自分がアサの友達であるかについての社会的に公正な判断を自らが下すことはできない、とキヨは厳正に考えていたので、「友達として励ます」みたいな直球の何かは自分よりアサと仲のいい誰かがやればいいとして、キヨがアサにできることは、家庭科の時間ごとに見せる都市の内容を充実させることだけだった。
 キヨはますます身を入れて地図帳を読んだり、歴史の教科書もちゃんと読んでみたりすることにした。とりあえず、その土地そのものと昔のやつのやってきたことを横と縦で考えられるようになったら、まあまあありそうな街が作れるのではないかと思うようになっていた。
 アサの言っていたギリシャ神話についても少し検索してみたが、嫌悪感がひどくてやめてしまった。確かにクズばっかりだ。今の人間とも大して変わりはしないし、キヨはますます人間というか、人情が嫌いになった。そしてそうやってはっきりと嫌いなことが増えると、自分という人間が一歩あるべき姿に近付いた気がして、後ろ向きなことのはずなのに心強く思った。
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単行本p.240

 マインクラフトつながりでハンドボール部のアサと友達になった、周囲からオタクだと思われているキヨ。家庭科の時間に同席するとき、キヨは自作の世界設定を紙に書いてアサから意見をもらうのだった。中学生の頃にだけ体験する独特な人間関係と成長を生き生きと描き、『ミュージック・ブレス・ユー!!』などの青春小説を思い出させる作品。





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